真綿のように全身を締めつける様々な思い。
そんなものを振り捨てるように、気づけば瀞霊廷を抜け、現世にたどり着いていた。

―― 「ねぇ隊長、現世の任務やらせてくださいよ〜」
―― 「何のために?」
―― 「もちろん、世のため人のためです!」
―― 「バーゲンに行きたいだけだろうがっ!」

唐突に隊長との会話を思い出して、あたしはくすっと噴出す。
いかに隊長からうまく、現世の任務を引き出そうか。バーゲンの時期はいつも戦略を練っていたっけ。
そして隊長は怒りながらも、いつだってさりげなく現世の任務を回してくれた。

服も化粧品も美味しいものも遊ぶところも、全部がそろってる現世は大好きだった。
いつだって楽しみにしていたのに……今目に映る世界は、まるで別物のように味気ない。


敢えて義骸に乗り換えず、死神の姿のまま、街を歩く。
人間の誰もあたしを見ることはできない、その身軽さが今は気楽だった。
駅を横切り、迷路のように入り組んだ歩道橋を上がり、降りる。
ベビーカーを押した母親や、携帯電話を耳に当てたサラリーマンが通り過ぎてゆく。
ビルの谷間を俯きながら歩いて、ふと顔を上げると、真っ青な空が目に入った。
瀞霊廷も、今は晴れているのかな。隊長は何を思っているだろう。

懐に入れたままの伝令神機が、さっきから気になって仕方なかった。
初めて無断欠勤をしたというのに、全く隊長からの連絡は来なかったからだ。
あたしがここにいるってことは、霊圧を探ればすぐに分かるはず。
それなのに敢えて何もしない……ていうことは、呆れちゃったのかな。
いきなり京楽隊長に連れられて逃げて、それから戻らないなんて、一昨日からのあたしの行動を思い起こせば、愛想を尽かしても無理はないけれど。


そこまで考えて、あたしはふと顔を上げた。
「HAPPINESS」と白地に黒のゴシック体で書かれたシンプルな看板が目に入った。
フリル付の白いエプロンをつけた女の子が、店のシャッターを上げるところだった。
ケーキがおいしくって有名な、イートインもできるスイーツのお店だ。
隊長と来たいなと思って、休みを合わせられないかと持ちかけていた。
あたしが声をかけたら、隊長は意外にその店のことを知っていて、「罰ゲームのつもりかよ」って顔を引きつらせてたっけ。
たしかに、かわいらしい店内は、隊長が座ったら合成写真みたいに似合わないだろうけど。
照れくさがって不機嫌になる隊長をからかうのは、きっと楽しいだろうなって思ってた。
……あたしは、無言で店の横をすり抜けた。

どこに行って、何を見ても同じだった。
服のお店を見ると、隊長はどんな服が好みなのかなと考える。
本屋を見たら、隊長が気に入るような本はあるかなって、あたし自身読書嫌いなのに入ってみたくなる。
まるで、あたしの中に「隊長」っていう別人格がいて、勝手に動き回ってるみたい。
―― 「おい松本。その服似あわねぇぞ」
―― 「おい。その本屋寄ってけよ」
そんな風に、すぐ隣にいるみたいに、隊長の声をリアルに感じてしまう。
そしてその度に、隊長にかける言葉さえ思いつかない今の現実を、思い知らされる。


もう、今までの関係ではいられないよ、と京楽隊長はあたしに言った。
確かにそうだ、とあたしは思う。
今隊長と顔を合わせたら、あたしはいつもみたいに笑いかける自信がない。
何を話したらいいのかも、分からない。
隊長が今何を思うのかさえ―― あたしには、もう想像もつかない。
こんな今日があるなんて、数日前は夢にも思っていなかった。
あたしはそんな自分自身に驚き、戸惑う。


電子音が鳴り響いたのは、そんな時だった。
あたしは思わずビクッと肩を揺らせ、懐から伝令神機を取り出した。
「たいちょ♪」と表示された着信画面に、思わずおろおろと辺りを見まわした。
どこかで伝令神機を耳にあて、あたしが電話に出るのを待っている隊長がいる。
それを思うだけで、平静でいられなかった。
呆れてるの? 怒ってるの? それとも、もういい、って言われるの?
今回ばかりは、全く想像がつかなかった。

―― もう、京楽隊長!
隊長をなんとかしておくって言ったじゃない。
なんとかって一体、何したのよ? 言うだけ言って、何にもしてないんじゃないの!?
そう思いながらも、鳴り続ける伝令神機を、睨みつける。
えいっ、と通話ボタンを押した。


「……松本か」
伝令神機から聞こえてきたのは、穏やかな声音。感情の起伏の乏しい、いつもの隊長の声だ。
どうやら、いきなり怒鳴りつける、という展開はないらしい。あたしは、ほっと息をついた。
「す、すみません、無断欠勤なんかして。あたしすぐに……」
無意識に、いつもの関係に身を摺り寄せようとしている。
「もういい」
すぐに、戻ります。そう続けようとしたあたしを、隊長はおそらく故意に、遮った。
「もういい」? あたしの中で、鼓動が急速に早まる。

「……でも、最後にひとつだけ聞きたいことがある」
……最後? 最後って言ったの?
ぎゅっ、と伝令神機を握る手が、おもしろいくらいに、震えた。
冗談じゃないわよ。冗談じゃないわよ、と何度も思う。どうして、そんなことになってるの?
嫌な予感に、頭がさあっと冷たくなる。

隊長は、少しだけためらった後、こう言った。
「……俺が、お前にしてやれることは、もうないのか?」
「……」
その一言は、あたしの耳じゃなくて、胸にむかって直接飛び込んできた矢のようなものだった。
あたしはとっさに何も返せず、黙り込む。
あはは、と笑いさざめきながら、現世の子供たちがそんなあたしの横を駆け抜けていく。

「松本、」
促されて、あたしは我に返る。勝手にこぼれだしていた涙を、拭った。
本当に……本当に、この人はあたしの予想をいつだって超えている。

「そうですね。いっぱいありますよ、してほしいこと」
わざと明るい声を出して、続ける。電話だから泣き顔が見られないのはラッキーだ。
「今さっき、HAPPINESSっていうスイーツのお店の前、通ったんです。隊長と一緒に、行きたいなぁ。
服の試着につきあってくださいよ。隊長って無頓着に見えるけど、女の服を見る目ってある気がするんです。
あたしも隊長になにか、見立てて上げますから」
「……おい」
「それでね。あたしの話をいっぱい聞いて欲しいんです。話したいことがいっぱいあるから。楽しいことも、悲しいことも」
心の高ぶりを隠すように、あたしは饒舌になる。
「……ギンのことも、聞いてくれますか?」

「……初めてだな。市丸のことを口にするのは」
呆れちゃってるのかと思ったけど、隊長はしっかりした口調で、返してくれた。
あたしは頷く。
「多分、隊長呆れるか、怒り出すと思うんですけど。それでも、」
そこまで言って、あたしはためらった。相槌すら聞こえない。
でも、伝令神機の向こうにいるあの人が、じっと耳を傾けてくれているのは分かった。

「それでも、一緒に。ずっと一緒にいて欲しいです」
ああ、あたしはきっと今、ひどい顔をしてるな。
涙が頬に冷たいし、目はじんじんと痺れている。きっと赤くなっているだろう。
今時子供だって、こんなあけっぴろげな泣き方をしやしない。
見られなくて、本当に良かった。
本当に……

ぼやけた視界を、暗い影が遮る。
ハッ、と身をすくめると、その影はあたしに向かって迫ってきた。
固い指が、あたしの両方の肩を掴む。声を出すよりも先に、背後にぐいっと体が引かれた。
倒れこんだ体が、背後の一回り大きな着物の中に、吸い込まれる。
しっかりと受け止められた。
それは、ほんの一瞬のこと。

伝令神機がその衝撃であたしの手から離れ、地面をカラカラと転がった。
「……馬鹿野郎」
隊長の声が耳元で聞こえても、あたしは自分の目下の状況が、信じられなかった。
背後から……しっかりと、包み込まれている。
あたしの胸の前に回された逞しい腕を見下ろしても、全然現実感がなかった。
至近距離で、互いの吐く息が押して引く波のように聞こえる。
「俺は、市丸の話のひとつやふたつ受け入れられないような、器の小せぇ男じゃねぇぞ」

あたしは返事の代わりにひとつ、しゃくりあげる。隊長は、無言だった。でも見下ろす視線を感じる。
恐る恐る背後に体重をかけてみる。あたしを抱きしめる腕に力が入るのを感じて、目を閉じる。
安心……する。まるで、親に抱きしめられる子供みたいな気持ちだ。

「……隊首羽織」
「ん?」
「羽織、どうしたんです? 勤務時間中に脱いでるの、初めて見ました」
「俺は隊長として、お前を迎えに来たんじゃねぇからな」
「……え」
「何、安心しきった顔してやがる」
鈍いんだよお前は―― 不機嫌そうな、掠れた声が聞こえて、あたしは思わず顔を上げる。
振り返ったところを、捕えられた。

ぐいっと強引に首の後ろを掴まれて、引き寄せられた、と思った時には唇が重なっていた。
突然のことに、息もできない。声も立てられない。
―― 「早くしないと、思い知らされることになるよ」
鈍いのはあたし。気づかない振りをしていたのもあたし。
こんな形で、「思い知らされる」なんて。

「ちょっ……んー!!」
とっさに、唯一自由になっていた右手で隊長の肩を何度か叩いた。
こんな時なのに、プロレスのタップアウトみたいだなと、全然関係ないことを思う。
気分的には、確かに「もう降参」だったけれど。

タップしたのが通じたのか知らないけど、隊長はあたしから顔を離した。でも至近距離のままだ。
翡翠の瞳に射抜かれて、あたしは動けなくなる。
「あんな奴と婚約なんて、フザけんなよ。俺は認めねぇ」
「え、えと、それは……」
「それは?」
全部嘘でした♪ なんて言ったら、あたし本当にタダじゃすまないんじゃないだろうか。
いったん放してもらって、心の準備と逃げる準備をしてから、伝えさせてもらえるとありがたいんだけど……
ガッチリと捕まえられた腕は、あたしを放す気はなさそうだ。

「それに何なんだこれは。説明しろよ」
一枚の封書を、示される。
「何ですか、これ」
「聞いてんのは俺だ」
「異動願」。まさか、そう書いてあるんですか?
京楽春水……あたしはその時、確かに彼に殺意を覚えた。
やりすぎよ、明らかに。

「受理しねぇからな」
隊長が封書の中を開く。一枚の紙が、封筒の中から滑り出した。
「全部う・そ♪」
紙にはそう一言、書かれていた。
もちろん……繰り返すのも忌々しいけど、京楽隊長の字だ。

「……」
「……」
自然とあたしたちは、間抜けな顔を見合わせることになる。

「どこからだ……」
隊長が、地の底から響いてくるような、それはそれは低い声を発した。
「は……はい?」
「どこから嘘なんだ!」
「え、えと。京楽隊長との婚約のところから?」
しばらくの沈黙の後……
「この……大馬鹿野郎っ!!」
怒鳴り声と同時に、怒りの鉄槌があたしの脳天に振り下ろされた。


***


「すいませんでした。すいませんでしたって」
叩かれた頭を押さえつつ、あたしは何度も隊長に頭を下げる。
道路の真ん中に仁王立ちの隊長に、正座させられてるあたし。
現世の人間に見えなくて、本当に、本当にマシだったと思う。

「全ては京楽の悪巧みだったってことだな」
隊長はやけにすっきりした顔で言うと、あたしに背を向けた。
「ちょっ、ちょっとちょっと隊長! なんで刀に手をやってるんですか!」
「あの野郎、斬る!!」
「ま、待って待って! 京楽隊長だって、あたし達のことを心配して……」
「どこが!!?」
力いっぱい聞き返されて、あたしは口ごもる。

「そ、そんなことより、誤解、とかなきゃ!」
「まだ誤解があるのかよ?」
「ほら、あのスキャンダルですよ。隊長とあたしが付き合ってるっていうやつ」
「ああ」
隊長は、毒気を抜かれたような顔をした。
あの時、隊長を一人だけ修羅場に取り残して逃げてきたことが、引っかかっていた。

「一緒に、説明しますから、修兵に。訂正記事載せないと殺すわよ♪ って」
「……」
隊長はしばらく無言だった。不意に手を掴まれて、ぐいっと引き起こされる。引き起こしても、まだ手を掴んだままなのに、あたしは首を傾げる。
「隊長?」
「もう必要ねぇだろ」
手で散り散りに破いたあたしの異動願が、紙切れになって宙を舞う。

そうか。
もう……必要ない、のか。

「帰るぞ松本」
「はい!」
笑みが、次から次へと膨れ上がってくるみたい。あたしは隊長に駆け寄ると、その腕を抱える。
そして私は。
やっと心の底から、笑うことができた。




STAY TOGETHER   FIN.



ひかる様へ、捧げます。
「大人日乱、酔った乱菊を介抱している日番谷隊長の姿が激写されて瀞霊廷通信に載り、
『十番隊隊長と副隊長はできてる』的噂が蔓延して、隊長格に冷やかされる……ていう素敵リクエストでした。
途中で一度内容を見直し(かなり削りました)、タイトルも変えましたが、混乱させちゃったらすみませんでした^^;

両片思いか既に付き合ってるかどちらかで、というお話だったので、両片思い〜付き合うまで、の話にしてみました。
気に入っていただけると嬉しいです^^
切香より愛を込めて。

[2009年 10月 27日]