火の用心。
どこの隊だろう、張りのよい男の声が聞こえた。拍子木を打ち鳴らす、乾いた音が続く。
提灯を下げているのだろう、明かりが病室の中にぼんやりと差し込んだ。

「……やだ、あたし」
思わず乱菊は、顔を上げる。病室の時計を確かめると、午後10時半を差していた。
暗くなってからもう何時間も経つというのに、明かりをつけるのも、忘れていたのか。
とっさに電気をつけようと立ち上がって、ふと動きを止める。そして、眠り続ける日番谷の顔を見下ろした。
蝋人形のように白い顔だ。外からの光りで、深い陰影に見えるその輪郭は、ぴくりとも動かない。

火の用心。
続く拍子木の音。
その瞬間乱菊は、窓を大きく開け放ち、「うるさい!」と大声で怒鳴ってやりたい衝動に駆られた。
あたしの、たった一人の隊長が今、毒におかされているというのに。
そんなことは無関係だといわんばかりに過ぎてゆく、病室の外の時間。
それが、こんなにもと自分でも驚くほどに苛立たしい。

少しずつ、拍子木の音と声が遠のいてゆく。乱菊はもう一度椅子に座りなおし、ふぅ、とゆっくりと息をついた。
日番谷が眠りについてから、まだ数時間しか経っていないというのに。思いがけないほど疲れていた。
こんな調子じゃ、あたし、持ちませんよ。早く起きてくださいよ。
心の中で呟きながら、日番谷を見つめる。


「……隊長」
その人間が、最も心の深層で恐れているものを悪夢として見せる。そんな毒だと聞いた。
どんなときも感情が動かなさそうなこの少年にとって、もっとも恐ろしい景色が何なのか、乱菊には分からない。
そんなものがこの世にあるのかも、分からない。ただ少年は昏々と眠り続けている。
「起きてくださいよ」
例え、どんなそっけない言葉でもいい。にらみつけられたって構わない。
ただ、そこにいて欲しかった。

まるで恋する娘みたいだ、と心のどこかで自嘲しながらも、
いつの間に、どれほどこの少年の存在が自分の中で膨らんでいたかということに、驚く。
日番谷がいない毎日が、想像できないくらいに。
「ねえ」
横たわった小さな肩に、指を差し伸ばす。
その指先が、肩に触れそうになった時。まるでそれに気づいたかのように、両肩がびくりと揺れた。


「……っ!」
まるで腹に鉄棒でも押し込まれたように、その端正な顔が苦痛に歪むのを、乱菊は成すすべなく見下ろした。
きつく目を閉じているために、おきているのか、まだ眠っているのかも分からない。
体をくの字に折り曲げ呻く日番谷に、乱菊は覆いかぶさるように近づいた。
「隊長……隊長っ? 起きてください!」
廃人になるかもしれない。そういい残して去った、卯ノ花の言葉が頭をよぎっていた。
嫌だ、そんなのは絶対に嫌だ。日番谷を呼ぶ自分の声に、力が篭る。
この声で、四番隊の全員が起きたって、構いやしない。それどころじゃない。
「隊長っ!!」

鋭い悲鳴を上げて日番谷が飛び起きる。まるで電流を流されたかのような反応だった。
咄嗟に手を伸ばそうとした乱菊を撥ね退け、両手で頭を抱える。はあ、と、大きな息が漏れた。
その全身が、がたがたと間断なく震えている。
「た……隊長」
呼ぶ声が、情けなくもかすれた。こんな日番谷を目の当たりにするのは、初めてだった。
正気を保っているのか。それも分からない。
背中にゆっくりと手を伸ばす。触れた其れが、あまりに小さくて、乱菊は唇を噛んだ。

「……ま、つもと」
ゆっくりと、日番谷が顔を上げる。その瞳が、恐怖に大きく見開かれ、頼りなく揺れている。
「お前」
意志が感じられない頼りない指先が、乱菊へと伸ばされる。その金髪が指に絡む。その途端、日番谷はびくりと震えた。
「お前、死んだ、んじゃ」
「え?」
「俺が……ころした」

違うのか。
日番谷が、ぽつりと呟いた声が、乱菊の耳を叩く。
次の瞬間、どっとぶつかってきた暖かな体重に、乱菊はわずかによろめいた。
泣いているーー
乱菊の左肩に掌を乗せ、右の肩に頭を押し付けるようにして。
押し殺した嗚咽が、隠れた口元から漏れた。

「……隊長?」
どうしてだか、分からない。ただ、涙がこぼれた。
これほどまでに、誰かにひたむきに求められたのが初めてだったからかもしれない。
誰かを抱きしめた記憶も、抱きしめられた記憶もほとんどない。
それでも、人の本能の中に、人の抱きしめ方、というものは刻まれているのかもしれない。
乱菊はそっと、今は壊れ物のように思える少年の背中に腕を回した。

「……それは、夢です。ただの、悪い夢です」
繊細な銀色が、目の前でかすかに震えている。
ゆっくりと、ゆっくりと全身のこわばりが解けてゆく。
「大丈夫です」
だいじょうぶ。乱菊は、そう自分に言い聞かせるように呟いた。
あたし達はこれからも、きっと大丈夫だ。
「あたしは絶対に、隊長を置いて死んだりしませんよ」




壁ひとつを隔てた、病室のドアの向こう。
そこに、三人の人影が見える。
「……もう大丈夫、みたいだね。よかった」
浮竹が微笑む。
「ええ、大丈夫です。後は私に」
「そうだね、後は卯ノ花隊長に任せよっか、浮竹。大人は酒でも一杯やろうか」
「いけませんよ、京楽隊長。お酒の飲みすぎは毒ですよ」
「いやぁ、このタイミングで毒って言われると、怖いなぁ」
ふっ、と声を押し殺して、微笑む。
そして示し合わせたように、着物の裾を翻し、その場を無言でゆっくりと立ち去った。


***


翌日の朝。
乱菊は、大あくびをしながら廊下を歩いていた。
昨晩は結局、日番谷がもう一度眠りについた後もずっと付き添っていた。
風呂くらい入らなきゃ、と自室に戻ったのが、朝の6時くらい。つまり、2時間も眠っていなかった。

そういえば、結局仕事をほとんどほったらかして来てしまったのか、と思い出して一瞬、うんざりする。
書類に埋もれる自分を想像したが、どういうわけか気分はそれほど、沈み込みはしない。
胸のつかえが下りたかのように、今日の天気と同じく気分は颯爽としている。

「松本副隊長!」
廊下の角を曲がった時に隊士に声をかけられたとき、乱菊は鼻歌を歌っていた。
「なぁに?」
見慣れない顔だ。少なくとも十番隊の隊士ではない。乱菊の疑念を感じ取ったのか、
「六番隊の鳥井です」
生真面目に頭を下げた。
「六番隊士が、どうしたの? こんなとこで」
「はっ、阿散井副隊長からの書類をお届けしました」
差し出されたのは、何十枚もの束ねられた紙だった。一見した乱菊は、思わず声を上げる。

これは間違いなく、昨日の夜日番谷と乱菊の机に置かれていた業務の指示書だ。
ことごとく「済」と記されている。まさか、恋次が十番隊の仕事を手伝ってくれたのか? なんのために。
「日番谷隊長と、松本副隊長に、申し訳ないことを言ってしまったと。唸っておられました」
ああ、乱菊はしばらく考えて、声を上げた。
あの外見こそいかついが、中身は情の深い男のことだ。思わずぶつけてしまった言葉に、人一倍萎れている姿が思い浮かぶ。
「許す! って、言っておいて」
自分の周りには不器用な男ばかりだ、と乱菊は思う。そこが、いとおしいのだけれど。



「おっはようございます」
無頓着の隊首室の扉を開ける。礼儀も何もなっていないのは、あけた先に日番谷がいることは、まずないからだ。
それだからして。隊首机の前に日番谷の姿を見つけた乱菊は、思わずその場で固まる。
「……寝てなくていいんですか? 隊長」
「……別に」
大股で近づくと、思い切り日番谷に顔を逸らされた。

「あぁ、さては」
「なんだよ」
「照れてますね?」
「うっせえ!!」
途端、噛み付かんばかりの表情で大声を出された。
「……忘れろ。隊長命令だ」
無体なことを言う日番谷の耳は、朱を塗ったように赤い。

「……思い出すんだよ」
乱菊が日番谷の前までやってくると、しぶしぶ、とでも言うように口を開いた。
「お前の見るたびに、思い出すんだよ、あの夢を」
「んー、敢えて聞きませんけどね」
この日番谷を、あれほどのパニックに陥らせた。夢の中の自分が何をしたのか、いやどうなっていたのか、想像したくもない。

「一番その人が、恐れている風景を見せる力だったんですってね」
日番谷は頬杖をついたまま、窓の外を見ている。
「ちょっと嬉しかったんです。隊長が呼んだのがあたしの名前で。他の女じゃなくて、ね」
「何言ってんだ……」
苦虫を噛み潰したような顔で日番谷は視線を落とす。
乱菊がくすっと笑うのを見て、面白くなさそうに眉間に皺を寄せた。


「呑気にしゃべってる場合じゃねぇんだ、俺は今日も外出だ」
「えええ、今日もですか? 体調万全じゃないのに」
「しょうがねえだろ」
机の上に置いてあった紙を一枚、拾い上げる。
流魂街四十六番区、虚、重傷者……といった単語がちらりと見え、物騒な案件だということが分かる。

ごほん、と乱菊は咳払いをした。
そ知らぬ顔で椅子から立ち上がり、机を回ってドアに歩み寄った日番谷が、もう一度聞こえた咳払いに、足を止める。
「……。お前も、来るか?」
「もちろんです」
胸の奥で風船が大きく膨らんだ。


ゆき様へ捧げます。
いやぁーこれは……漫画だったら、間違いなく残虐な描写でR18行きですね!
文章だとそのへん加減つけられますが、ツラかった方いましたらごめんなさいまし。
恋愛要素ありの日乱で、仕事で失敗した日番谷隊長。
些細な失敗のはずが、それが発端で事件が起きる展開、というリクエストでした。
それだけで十分素敵リクだったんですが、「組んだばかりの二人」という要素を追加してみました。
乱菊が原作で、「日番谷と連絡つかなくて困る」って言ってたので、それなりに苦労したんだろうなぁと。
そして、そんな乱菊が日番谷を尻に敷く、その前兆が出てるとこまでを書いて見ました(笑
切香より愛をこめて。

[2010年 5月 20日]