一体どこに、どれくらい走ったのか分からない。喉の奥が切れそうに痛み出した時、不意に暗闇が開けた。
その昼間のような明るさに、さっきの地下空間に戻ってきたのではないかと一瞬思った。と、その時。固い床を踏みしめていた夏梨の足が、空を切った。
「ま、まさか……」
突然空中に飛び出した、なんて漫画みたいなことある訳ないよな。そう思いながらも見回せば、黒い瓦屋根の屋敷が延延と並んでいるのが見下ろせるではないか。
「やっ、やっぱりいい!」
叫んだ時には、体が急降下していた。急降下どころじゃない、これは落下だ、と気づいたときには、黒屋根がぐんぐんと視界に迫ってきていた。

「うわあああああ!!」
腹の底から絶叫しながら、夏梨は20メートル近く、落ちた。これはもうダメだ、と直感してギュッと目をつぶる。
しかし。待っていたのは、硬い瓦や地面の感触ではなかった。
ぽふん。
メルヘンな音さえ立てて、何だか暖かいふさふさしたものの上に、落ちた。
ぴこぴこ。
と自分の頭の上で何かが揺れ、涙目になった夏梨は、そっと顔を上げる。


―― 耳?
それは、動物の耳だった。犬とか猫とか鹿とか、そういった感じの三角形の、あの耳だ。
ただし、夏梨の掌よりもサイズが大きい。
「ど……どうなってんの」
叫びすぎたせいで、声が掠れている。手の下に、茶色い毛が触れた。ぎゅっと掴み、四つんばいになって起き上がる。
視線を左側にやったとき、夏梨はヒッ、と悲鳴を飲み込んだ。

鳶色の大きな瞳が、横目で夏梨を見つめていた。
「……犬、なのか?」
サイズは異常に大きいが、どこから見ても犬の顔だ。怖い、と思わなかったのは、馬を思わせるその優しげな瞳だろうか。そっ、と手を伸ばした時……
「犬ではない。儂は狼だ」
突然その口が動いたかと思うと、言葉が発された。
「ぅわっああああ!」
夏梨は絶叫し、その勢いで毛を掴んだ手が離れる。頭から落ちそうになった時、右足の脛の辺りを巨大な掌が掴んだ。

「犬ではなくて狼だということが、それほど珍しいか」
宙吊りにされているせいで、犬……じゃなかった狼の顔が逆に見える。そうじゃねぇ、と夏梨はぶんぶんと首を振った。
犬とか狼とか、どうだっていいのだ。問題は犬も狼もしゃべらないということなのだ。
しかしよくよく見てみれば、それは顔こそ狼だが、体は人間そのものだった。
夏梨の足を掴んでいる手も狼のそれではなく人間の掌だし、3メートル近い巨体は二本足で立ち、何と着物まで着込んでるではないか。

「! その着物。冬獅郎と同じ……?」
ハッ、と気づいた夏梨は、思わず声をあげた。黒い着物の上に、白い羽織。見慣れた姿を思い出す。それを聞きつけた狼は、眉(ないけど)を顰めたようだった。
「冬獅郎……? お主、日番谷隊長と知り合いか?」
こくこく、と夏梨は必死で頷く。相手が喋るたびに、ちらちらと赤い舌や牙が見えるのが非常に怖い。
「あ、あんた……は」
「儂は狛村、死神だ。日番谷隊長とは同僚にあたる」
「たっ……」
助かった。続けようとした声が掠れる。状況はよく分からないが、ここは日番谷がいる死神の世界なのだ。ようやくそれを理解する。


冬獅郎のところへ連れて行ってくれ。そう言おうとした時だった。
「狛村!」
凛とした、どこか無機質な女の声に夏梨はビクリと肩を震わせた。上下逆になった視界に、日番谷や狛村と同じようないでたちの女が一人、駆けてくるのが見えた。
「今その周辺に、旅禍が来たはずだ! 何か見て……ん?」
途中で、その細い眉がしかめられる。その視線は、夏梨に据えられている。
「お前がぶらさげている子供は?」
「砕蜂隊長か。さきほど、いきなり儂の肩の上に降ってきたのだ」
「やけに顔の赤い子供だな」
それは、このイヌがさっきから逆さ吊りにしてるからだ! 言ってやりたいが、そんな余裕はないほどに苦しい。顔が熱く、頭に血が上っているのが分かる。

「この気配、通常のソウル・ソサエティの魂とは明らかに違う。この者が旅禍だ、間違いない」
砕蜂はせわしげに決めつけると、狛村を睨むように見上げた。
「下ろせ、その子供を。二番隊舎の牢に幽閉しておく」
へっ!? 幽閉? 顔が熱いにも関わらず、血の気が引いていくようだった。
「ちょっ、ちょっと、待ってくれよ! あたしは別に……」
「何もしていない、とでも言う気か? 現世からソウル・ソサエティに侵入しておいて?」
現世? ソウル・ソサエティ? 全く、言っていることが分からない。その決めつけるような言い方に、夏梨は縮み上がる。

ふむ、と狛村と呼ばれた狼は人間のように唸った。
「何だ? この子供を庇う義理でもあるのか?」
「いや、別にないが」
ちょっと! 夏梨は叫びそうになったのをこらえる。
そりゃ、そうだけどさ。そうだけど! こういう時大人(かどうか分からないが)は、子供を庇うようにできてるんじゃないのか?
「ただ、このままではちょっと不公平だな。あとであの者の怒りを買いたくはないのでな」
「……あの者?」
いぶかしげに訊ねる砕蜂をよそに、狛村は懐に手を入れた。そして、指先で取り出したものに、夏梨は絶句する。

―― ケータイ?
こんな時に? 小指ほどしかない携帯電話を操る巨体の狼。シュールすぎて、どこを突っ込んでいいのかも分からない。
細かいボタンに悪戦苦闘しながら、狛村は何とかボタンを押したようだった。そしてやけに可愛い耳に押し当てる。
「日番谷隊長か?」
ピクリ、と夏梨は全身で反応する。砕蜂は眉間の皺を険しくした。

「なに忙しい? それは儂でなく総隊長に訴えてくれ。それよりもお主に話があるのだ。
……ん? どうしたのだ急に怒鳴って。電話を取った隙に松本副隊長が逃げた? いつものことだろう。それよりもお主に話があるのだ。
ふむふむ。霊圧を消して逃げた死神を捕まえる方法? 儂の鼻を貸してやってもよいぞ。それよりもお主に……」
いつになったら本題に入るのか見当もつかない。吊り下げられた夏梨の血管は、もう限界だった。最後の力をふりしぼり、すぅ、と息を吸い込む。
「冬獅郎っ、あたしだ!! 助けてくれっ!」
砕蜂がのけぞるほどの、大声だった。しーん、とその場を沈黙が落ちる。


「ん? 日番谷隊長……おらぬのか?」
狛村が小首をかしげる。その刹那、ヒュウッ、と旋風が吹きぬけた。とん、と狛村の右手首に軽く何かが打ち当てられ、夏梨の足を掴んでいた指が離れる。
「あっ!」
逆さまに落ちかけた夏梨の肩を、掌が軽く受け止めた。くるりと体が回転し、ぎょっとした時には、地面がすぐ下に見えていた。

一瞬、何が起きたのかわからなかった。顔を上げると、思いがけないほど至近距離に、日番谷の横顔が見えた。
「と、とうしろ……」
ホッとして、声がかすれる。そこでやっと、横合いから飛び込んできた日番谷が狛村の手から自分を解放し、抱き下ろしたのだと理解できた。
―― だっ、抱き……
肩の後ろに日番谷の腕が回され、横様に抱き上げられている。
「あっ、ありがとう。もうへーきだから。へーきへーき」
慌てて立ち上がり、埃も被ってないのにパンパンと服を叩いた。

「何が平気だ」
対する日番谷は、険しい視線で夏梨を一瞥すると、二人の死神に向き直る。
「狛村! それに砕蜂も。どういうことだ!」
返答次第ではただでは済ませない、という怒りが透けて見える。
でも、きっと悪いのはこの二人ではない。夏梨は申し訳なさそうに、日番谷の袖を引いた。
「何だよ?」
「あたしが悪いんだ。浦原商店の地下にあった扉をくぐったら、ここに着いたんだ。入っちゃダメだろうなって思ったけど、つい……」
「あ? ……あぁ、あれか」
日番谷が宙を仰いで嘆息した。そして、ガシガシと頭を掻いた。
「穿界門があったな、あそこに。管理を適当にしてる浦原が悪ぃんだ」


「経緯などどうでもよい! ここへ潜入したという結論だけで、処罰には十分だ」
砕蜂が厳しい声で言い放つ。日番谷も負けじと言い返す。
「偶然入り込んだだけだろうが!」
「うるさい! 四の五の言うなら、お前も牢にぶち込むぞ!」
「あ? やってみろよ。代わりに十番隊の隊長業務はお前がやれ」
くっ、と砕蜂が唇を噛み締める。日番谷の業務を引き受けるのはものすごく嫌なことらしい、とそれを見ていた夏梨は思った。
それにしても、自分がやらかしたことはかなり深刻なことらしい。今更ながら、コトの重大さに気づいた。
「そんなもの、副隊長にやらせればよい!」
「冗談じゃないです!」
突然響いた声に、全員がアレ、という顔で視線を泳がせた。さすがに一番早く気づいた日番谷が、その場に現れた乱菊をにらみつける。
「てめぇ松本、つけてたのか?」
「ええ」
しれっと乱菊は頷いた。
「隊長の黒いオーラが気になって忍び寄ったら、聞き捨てならないことが聞こえたので……って、夏梨ちゃんっ?」
声のトーンが跳ね上がり、金髪を揺らせて乱菊が駆けつけてくる。

「こんなトコいたら、頭の固いヤツにとっ捕まっちゃうわよ! 今のうちに逃げなさい」
日番谷が無言で砕蜂を指差した。乱菊が砕蜂をまじまじと見て、そして二人で大きなため息をつく。それは大いに砕蜂の神経を逆なでしたらしかった。
「つい先日、旅禍によってどれほど甚大な被害が出たか忘れたのか! 体が小さいだけならまだしも、脳まで小さいのか?」
ぶちん、と何かが切れる音がした。あっちゃあ、と乱菊が声をもらす。
「松本っ!」
「は、はいっ!!」
「俺が許す。痛烈な悪口をアイツに言ってやれ」
他力本願ですかい。乱菊は突っ込もうとしたが、悪口で自分の右に出る者はいないと自負する彼女である。じっ……、と肩を怒らせた砕蜂を見つめた。

「じゃ、お言葉に甘えて……この、洗濯板!」
洗濯板? 夏梨は眉間に皺を寄せたが、それは砕蜂に明確な変化をもたらした。平たく言えば、顔を真っ赤にして怒ったのである。
「こ、この……」
何か言い返そうとしたが、ぱくぱくと口を開け閉めしたまま次の言葉が出てこない。すかさず日番谷が乗じた。
「まな板女」
「黙れ十番隊! 貴様ら、この私に何の恨みがあって……」


「やめんか」
黙って成り行きを見下ろしていた狛村が、その時口を挟んだ。
「全く、口喧嘩など隊長格らしからぬにも程があるぞ。日番谷隊長、お主は確かに体は小さいが器は大きい。
砕蜂隊長も、洗濯板だのまな板だのいう言葉に傷つくでない。別によいではないか」
日番谷と砕蜂がそれぞれ、打ちひしがれた顔をしたのに気づかず、後を続ける。
「ここは儂に免じて、両手打ちにする気はないか?」

「そうですね、確かに」
初めに反応したのは乱菊だった。さりげなく夏梨の前に立ち、砕蜂の視界から隠す。
「隊長、ここを離れますよ、さくっと」
日番谷の袖を掴むが、ガンとして動かない。乱菊がそんな彼を見返す。
「まさか、本気ギレしてる所じゃないですよね?」
だったらあたし悲しいです、とわざとらしくため息をつく。
その時になってやっと、夏梨は乱菊が、砕蜂の注意を何とか逸らし、自分を逃れさせようとしていたのを知った。
「……冬獅郎。行こうぜ」
小声で日番谷の袖を引くと、しぶしぶながら頷いた。どうやらこっちは本気だったらしい。しかし最後の捨て台詞は忘れなかった。
「しょうがねえな。ここは俺が大人にならなきゃな」
「何が大人だ! ガキだろうが貴様は!」
と一秒後、砕蜂が怒鳴った時には既に2人は夏梨をつれ、瞬歩で姿をくらましていた。
「あっ、あいつら……どさくさにまぎれて、旅禍をどこへやった!」
一分後。気づいて憤怒の表情を浮かべた砕蜂を、狛村が慰めたとか慰めなかったとか。



「おい。……おい!」
場所は、浦原商店の地下空間。先をとぼとぼと歩く夏梨の後ろを、日番谷が追っていた。
夏梨にとってはあっけなさすぎるほどあっけなく、穿界門を先導されてこの場所に戻されたのだ。せっかく戻って来れたのに、夏梨の気持ちは浮かない。
「何落ち込んでんだよ?」
「……ゴメン」
「だから、何が」
「この門、くぐっちゃいけなかったんだろ? お前の世界じゃ犯罪になるくらいに。あたしを逃がして、罪に問われたりしねぇのかよ?」
幽閉する、牢にぶちこむ、と言った砕蜂の言葉が耳に焼きついていた。自分はまだしも、日番谷はこれからあの世界にまた戻らねばならないのだ。

「そんなことかよ」
しかし日番谷は拍子抜けしたように言うと、頭の後ろを掻いた。
「せいぜい総隊長に小言食らうくらいだ、心配すんな。大体お前は黒崎一護の妹だしな。そう言ったら、きっと皆諦めてくれる」
それは一体どういうことだろう。というか、兄は一体あの世界で何をやらかしたんだろう。夏梨はそう思ったが、敢えて突っ込まないことにした。

「……本当に、ゴメン」
立ち直るどころか、余計しょげてしまった夏梨を、日番谷は困ったように見下ろした。
「……こないだここに来た時、旨い菓子があった。じゃが……子? じゃが美? とか言う」
「……。じゃがりこ?」
「そう、それだ」
「……。うん?」
「それを腹いっぱい準備しとけ」
どうしてしまったのだろう、と夏梨は心配そうに日番谷を見上げたが、日番谷がくるりと背を向けてしまったせいで、その表情は見えなかった。
「それでチャラにしてやるよ」
へ、と夏梨は口を開けたまま固まった。日番谷が本気でじゃがりこに飢えているわけではない、というのは夏梨だって分かる。
「任しとけ!」
夏梨がようやく笑うと、日番谷はちょっとだけ安心したような表情を浮かべた。
その数日後現世を訪れた日番谷が、じゃがりこの山に埋まることになったのは、また別の話である。



ちー様へ捧げます。
「日番谷×夏梨」というリクエストだったので、つい遊んでしまいましたw
もっぱら砕蜂VS日番谷になってた感もありますが…… お楽しみいただけたら嬉しいです!
切香より愛を込めて。 ※2010/3/6、ちょっと内容変更しました。

[2009年 5月 13日]