「……雛森副隊長」
「……」
「副隊長っ!」
呼ばれてあたしは、ハッと顔を上げた。すると、あたしを見下ろす何人かの五番隊隊士たちが、目に入った。どの顔も、心配そうな顔をしてる。
「大丈夫ですか? ここ数日、ずっと体調が悪そうですが……熱があるんじゃないですか?」
すぐに、返事ができなかった。言葉が耳に入ってきて、考えて、返事に変換するのがいつになく大変で。
見慣れた五番隊の執務室を、あたしは一瞥する。あたしの副隊長席の近くにしつらえられた、隊首席。
その、誰もいない空虚に視線を留めて……目を閉じた。
「大丈夫よ」
熱があるのは分かってる。でも副隊長席に積み上げられたこの書類を見たら、休めないことなんて明白だ。
藍染隊長が不在だから五番隊は回らない。そんなことになったら、新しい隊長があの席に座ることになるかもしれない。
「で、でも」
「大丈夫」
目の前にある何十枚もの書類を引き寄せ、座りなおそうとしたら、ぐらりと視界が揺れた。
唇をかみ締めて、筆に手を伸ばした時だった。肩がびくっと揺れるほどの大声と一緒に、隊首室の扉が引き開けられた。


「雛森! お前、何やってんだっ!」
ビリビリと声が響いて、あたしの弱った鼓膜を直撃する。あたしは思わず耳を押さえた。
五番隊の隊士に先導されて部屋に入ってきたのは、幼馴染で十番隊の隊長でもある日番谷くんだった。
「ひ、日番谷くん? なんで」
「わ、私がお連れしたんです。雛森副隊長の体調がよくないと……」
日番谷くんを連れてきた隊士が、どこか申し訳なさそうにそういうと、扉を閉めた。
他隊の隊長を直接呼びにいくなんて、よほどの事じゃなきゃしちゃいけないって、知ってるはずなのに。

「なんで俺に言わねぇんだよ。調子悪かったら言えって言ったろ?」
歩み寄ってきた日番谷くんの声はイライラしてるけど、それでも声はさっきよりは低く落としてる。
そっと額に乗せられた手のひらは、優しかった。すぐに、深いため息をつく。
「お前、こんな熱があってよく座ってられるな」
その声、その態度。全部、流魂街の家で過ごして来た時とまったく同じだ。
今、あたしたちの関係が幼馴染なんかじゃなく、隊長と副隊長なんだってことをうっかり忘れそうになってしまうくらい。
隊長になる前からしっかり者だったその顔を見ると、反射的に、もう大丈夫なんだってほっとしてしまう。
でも。あたしの口から出たのは、まったく別の言葉だった。

「ううん。あたしは、五番隊の副隊長なんだから。しっかり仕事しなきゃ」
「日番谷隊長が、代わりにやってくださるって……」
「俺は、かまわねーけど」
あたしが何か言う前に、日番谷くんはひょいっと書類の束をあたしから取り上げてしまった。
「そこの席……お使いになられますか?」
隊士たちが示したのは、無人の隊首席だった。


―― やめて。
言おうとして、あたしはとっさに口をつぐむ。日番谷くんは隊長で、不在の藍染隊長に代わって、仕事をしに来てくれている。
その人に隊首席を明け渡すのは、当然のこと。
それなのに、たとえ日番谷くんでもあの席に座ってほしくないと思ってしまうのは、あたしが熱で弱っているからだろうか。
日番谷くんは、ちらりと隊首席を見た。でもすぐに、あたしに向き直った。
「その席開けろ」
「へ?」
「お前は自分の部屋で寝てろ。これくらいの仕事、俺にかかりゃすぐ終わる」
「で、でも」
「副隊長、そうしてください」
「休んでてください! あとは我々がやりますから」

じゃあお願いね。その言葉が、どうしたって言えないんだ。
五番隊を率いていくつもりが、満足に仕事もできずに体調を崩して、結局休んでくれと回りに気を使わせてしまうなんて。
これ以上がんばるのを誰も望んでいないのを知っているのに、あたしは首を振る。
「あのなぁ……」
日番谷くんが頭を掻いた。あたしは顔をあげ、どこか困った表情をしている彼と目を合わせる。
「あたしは。ちゃんと留守を守らなきゃいけないの。五番隊を率いていかなくちゃいけないの。それがあたしが藍染隊長にできる、ただ……」
「雛森副隊長っ!!」
ただひとつのこと。そう言おうとしたあたしの声を、強い勢いで遮った、もうひとつの声。
それが、日番谷くんの声だって気づくのに、しばらく時間がかかった。

―― 雛森「副隊長」。
日番谷くんがあたしをそう呼ぶなんて、初めてのことだった。あたしは、ワケがわからないって顔したんだろう。
日番谷くんは、腰を落とすとあたしと視線を合わせた。
「そんな朦朧とした状態で、部下に指示を出すつもりか。上官の指示がひとつ間違えただけで、部下の身を危険に曝すかもしれないだぞ。
お前は副隊長なんだ、自分ひとりでしくじればいいって訳にはいかねぇんだ。分かるだろ」
普段はぶっきらぼうに短い言葉を言い捨てる癖がある、日番谷くんとは別人みたいだった。
きっぱりとあたしに諭すその声音は、どこからどう見ても「隊長」のものだった。
冷静に言い放たれたその言葉の全てが正しい、っていうことは、熱したあたしの頭にも理解できた。
藍染隊長がいなくなったのを認めたくないっていう弱さから、逆に五番隊を危険な目に曝すのかって、そういわれた気がして、うつむくことしかできなかった。

「自室で静養しろ。これは隊長命令だ」
あぁ。もうこれ以上は逆らえないな。そう一瞬で思うほど、その命令は絶対に聞こえた。
あたしは、隊士たちに助けられながら、やっと立ち上がった。そのあたしの席に、日番谷くんがどすっと座る。
「ひ、日番谷隊長! そこは副隊長席で……」
「細かいこと気にすんな」
あたしの背中で、日番谷くんと隊士たちが交わす声が聞こえる。
「空いてる席官を全員ここに連れて来てくれ。指示を出す」
「はっ、はい!」
ピシリと引き締まる空気。やっぱり、かなわないなぁ、って思う。
悔しいとか哀しいとかじゃなくて、ちょっとだけ、寂しい気持ちになる。
日番谷くんまで、あたしから遠くなる。あたしは振り返らずに、テキパキと仕事がこなされていく隊首室を後にした。


***


傍に付いててくれるって言った隊士を、日番谷隊長を手伝ってあげて、と帰してから、一時間。部屋は、静まり返っていた。
「……38度5分、かぁ」
一向に下がらない体温計の水銀を見て、あたしはハァ、とため息をつく。
額に置いた手ぬぐいが、どうりですぐに生温かくなると思った。幸いなことに、横になっていればそれほど辛くない。でも、逆に色々なことを考えてしまう。
日番谷くんは、もうあれくらいの仕事、終わらせちゃったかな、とか。あたしのこと、呆れられちゃったかな、とか。

はぁ、と何度目かのため息をついた時、軽い足音が廊下から近づいてくるのが聞こえた。
その霊圧を感じ取って、あたしの胸がドキリと跳ね上がる。部屋の襖が開いたとき、あたしはとっさに目をつぶり、寝たふりをした。
「……雛森。寝てんのか?」
小声で、遠慮がちにかけられた声に、あたしは気づかれない程度に、うすく目を開けた。
日番谷くんの足元だけが見える。襖が閉じ、すっと音を立てず部屋の中に入ってくると、あたしの前にあぐらを掻いた。
かすかな衣擦れの音と、何か紙袋を地面に置くかすかな音が耳に入った。

「熱ち……」
日番谷くんは、あたしの額に置かれた手ぬぐいに触れると同時に、声をあげた。
そっと手ぬぐいを取り上げると、傍にあった盥に手ぬぐいを浸して、絞る。
ひんやりとしたものが額に触れたと思ったけど、その感触は日番谷くんの掌だった。
霊圧がほんの少し込められ、スッとした冷気があたしの火照った額を冷やしてゆく。
その気持ちよさに、あたしがまどろみそうになったとき、低くて長いため息が、上から降ってきた。
続けられた言葉は、あまりにもあたしには意外なものだった。
「……自己嫌悪だ……」
「なんで?」
思わずパチッと目を開けて、問いかけてしまった。
まず視界に入ったのは、目も口も開いた、珍しいくらい間が抜けた日番谷くんの顔。次の瞬間、
「てめっ、狸寝入りかよ!」
狼狽しきった声と同時に、掌があたしの額から除けられる。あたしから背けられたその耳は、赤くなってる。

「そんな恥ずかしがらなくても……」
「うるさいっ」
人一倍優しいくせに、それを見せるのが極端にイヤな人だから。でもこれはちょっと恥ずかしがりすぎだと思う。
ふふっ、あたしは気づけば笑っていた。
「……悪かったよ」
「なにがよ?」
「隊長命令だ、なんて言って。俺はお前には、それだけは言わねぇようにしてたのに。
どうやったらお前が休んでくれるのか分かんなかったんだよ」
すまん、と頭を下げられて、あたしはキョトンとする。

そんなの、当然じゃない。隊長なんだから、他隊とはいえ、あの状況だったら指示するのは普通のこと。
でも考えてみれば、日番谷くんは一度だって、あたしに隊長として何かをしろ、と言ってきたことはなかったのだ。
「おまけに、未だに……アイツの名前をお前が言うからよ」
言葉の最後のほうは、ごにょごにょと途中で聞こえなくなってしまったけど、あたしは目を見張る。
まだあたしが真央霊術院、日番谷くんが流魂街に分かれて住んでいたころ、藍染隊長の話をするたびに不機嫌になっていたその横顔を、ふと思い出した。
気づけば、その銀色の頭に、手を伸ばしていた。
「シロちゃんだ」
なんで、気がつかなかったんだろう。こんなに近くに、あたしの味方がいたのに。
藍染隊長がいなくなって初めて、あたしは心の底から、ホッとすることができた。

「……ガキ扱いすんじゃねーよ、いつまでも」
「桃、買って来てくれたんだね」
布団の中から、日番谷くんが持ってきた紙袋に手を伸ばす。思ったとおり、桃の香りがした。
流魂街時代から、あたしが寝込むたびに、おばあちゃんか日番谷くんが桃を買って来てくれたのを、思い出した。
「そのまま食うなよ、今洗うから」
立ち上がった日番谷くんと、昔の流魂街にいたころの日番谷くんが重なる。不器用で、でもとても優しいのは、変わらない。
「なんだ?」
立ち上がろうとした袖をあたしが掴んだものだから、動きをとめた日番谷くんが、不思議そうに見下ろしてくる。
「……桃は、あとでいいから。さっきみたいにしててくれる?」
掌を額に乗せるしぐさをすると日番谷くんは、う、と一瞬言葉に詰まる。
「……めんどくせえな」
そういいながらも、目を閉じると、すぐに額の上にヒンヤリとした掌が降りてくる。やっぱり、優しい手だった。
おかげであたしは久しぶりに、穏やかな夢をみることができた。



リマさまへ捧げます。
「体調を崩して倒れてしまった雛森を日番谷が看病しに来る設定で…
昔とは違う「隊長」という立場の壁を感じて、なかなか素直に看病を受け入れられない雛森と、
不器用ながらも今も変わらない優しさで見守る日番谷…みたいなシリアス→甘な感じ」
なリクエストでした。ん〜少しずれたかな^^; お楽しみいただけたなら嬉しいです♪
切香より愛を込めて。

[2009年 2月 10日]