差し込んだのは窓からの月明かり。吹き込んだのは夏の終わりの熱風。 日番谷は彼以外無人の隊首室の、窓際に置かれた椅子に腰掛けていた。 彼にしては珍しく、足の裏を椅子のへりにかけ、立てた膝の上に顎を乗せただらしない体勢だ。 普段は皺ひとつなく着こなしている隊首羽織も脱ぎ、襟の部分を手でつかんでいた。 床に広がった隊首羽織の布地に、月光が白々と差し込んでいる。 いつもは美しく澄んだ翡翠色の瞳は、暗い部屋の中にいるせいか、湖の深みのような色によどんでいる。 その視線はさきほどから、机の上に置かれた一輪挿しに落されている。正確には、そこに乱菊によって生けられた、花の上に。 「どうしたんですか? 明かりも入れずに」 すっ、と背後の扉から姿をあらわした乱菊の影が、日番谷のいる場所まで差し込んでくる。 「来いよ」 ちらりともこちらを振り向かないまま言い放たれた言葉に、乱菊は束の間動きを止める。 誘うように横に差し伸ばされた、日番谷の掌が上を向いている。掌の上にたまった月光に、なぜか妙な胸騒ぎがする。 「なんですか、もう」 粟だった気持ちを掻き消すように、乱菊はわざと明るい声を出すと、部屋の中に足を踏み入れた。 「なんだ、汗かいてるじゃないですか」 すい、と肩に手を置いた乱菊が懐から手ぬぐいを取り出すと、日番谷の首筋にそっと当てる。 かいがいしく汗を拭いていると、まるで家族のように親密な気がしてくる。 ふっ、と微笑んだとき、急に荒々しく日番谷の腕が伸ばされ、乱菊の首の後ろに掌を当てられる。 あっ、と思った時には、ぐいと引き寄せられていた。 「隊……」 乱菊の手を離れた手ぬぐいが宙を舞う。柔らかな湿った感触に、口付けられたのだと気づいたときには、既に唇は離れていた。 「どっ……」 どうしたんですか? そう聞きたかったが声がでてこなかった。 二人が恋人めいた戯れを交わし始めてからかなりの年月が経っていたが、こんな風に職場で仕掛けられたことなどなかったからだ。 例え夜で無人だったとしても、ここは紛れもなく隊首室なのだから。 乱菊の言葉を封じ込めたのは、下から乱菊を見上げてきた瞳だった。ぐさりと突き立てるように重く鋭い瞳だった。 まるで見返す乱菊の瞳を貫き通し、心の中を覗き込もうとでもいうように。 「憂いているな、お前」 「え?」 どきり、と心臓が跳ね上がる。離れようとしても、日番谷の腕がそうさせない。 「後悔してるのか?」 「な……にを」 その翡翠に貫かれるのが怖い、そう思っても目を逸らせない。 「……市丸のことを、思っているのか」 「わ……たしは」 どくん、どくんと高鳴る鼓動を、首を捉えた掌から感じているのか。 離れようとした足がもつれ、たたらを踏む。視界の隅で、日番谷が一輪挿しの花に手を伸ばすのが見えた。 一輪は、十番隊の隊花である水仙。そして一輪挿しには窮屈そうにもう一本生けられた花は、金盞花。 二つの花は銀に金にけぶるように輝き、そっと寄り添っている。 混じりけなく強い日番谷の瞳から、全力で逃げ出したいと思う。 しかしそれとは裏腹に、体の奥がうずくような気持ちに乱菊は戸惑った。このまま日番谷に向かい身を投げてしまいたい混じりけのない衝動。 「……たい……」 短く喘ぎながら、乱菊が口を開いた時だった。夜のしじまに余りにも高く足音が響き渡り、二人は弾けるように身を離した。 「日番谷くん。どこなの、日番谷くん!!」 日番谷の瞳が、当惑したように揺れる。まるで親を捜し求める迷子の子供のように、まっすぐに日番谷を求める雛森の声。 その声音に、すぐにすすり泣きが混じる。 「……行ってあげてください、隊長」 静かに声をかけた乱菊に、日番谷はいぶかしげな視線を向ける。乱菊は頷き、口元にわずかな微笑みを乗せた。 「あなたの幼馴染は、まだここにいるんですから」 「松……」 「このまま二人でいたら、どうなってしまうか分からないですよ」 なにしろ、マトモな精神状態ではない。片や幼馴染を裏切りにより失った女、片や傷心のあまり正気を失いがちな幼馴染をもつ男。 太陽の下では平気を装えても、こんなひそやかな月の光の前には、押し殺した思いが流れ出さないとも限らない。 「日番谷くん!」 認めざるを得ない、と乱菊は思う。その呼び声はただの幼馴染を呼ぶものではもうない。女が男を求める生身の声だ。 自分がほんの少し前に、日番谷に対して同じ気持ちを持ったから痛いほど分かる。 「……っ」 日番谷がかすかに息をつき、立ち上がる。互いに少し濡れた唇を見つめあう。しかし視線はすぐに乱菊から離れた。 「あぁ! 日番谷くん……!」 駆ける足音、ぶつかりあう音、同時に響く衣擦れ。乱菊は目を閉じて、少しずつ遠ざかっていく足音に耳を澄ませた。 駆け出してしがみついて奪い返せたら。自分にはそれができる、そこまで考えて自分の考えに慄然とする。 「あたし、は」 どうして、日番谷の象徴である水仙と、市丸の象徴である金盞花を並べて生けたのだろう。 どちらも選び、どちらも選んでいない乱菊の優柔不断に、日番谷がどれほどかき乱されるか分からないはずがないのに。 前に雛森、後ろに乱菊。挟まれた日番谷が一瞬浮かべた苦渋の理由が、乱菊には分かってしまうのだ。このままでは壊れてしまうということも。 ひとり残された乱菊は、憂いに満ちた瞳を床に落とした。そしてそっとしゃがみこむ。 床の上には、さっき日番谷が握りつぶした金盞花が、ひしゃげた花弁を震わせていた。 *** 摺り足ももどかしく、ふたつの足音が廊下を行き過ぎる。 「おい! 雛森……!」 日番谷の袖を取り、ひたすらに前へ前へと突き進む雛森の背中に、声をかけた。 しかし聞こえないように、一直線に向うのは、日番谷の私室に違いなかった。 まるで陸で息ができない魚のような必死さで部屋までたどり着くと、襖を引き開けて日番谷を中に導き入れる。 だん、と背中を襖に叩きつけられた、と思った途端、雛森が体をぶつけてきた。 畳に両膝を付き、日番谷の胸元に顔を擦り付ける。嗚咽が、口元から漏れた。 日番谷はゆっくりとため息をつく。そして、雛森の肩をぎこちなく撫でる。 「大丈夫だ」 藍染を失ってから、雛森はこうやって何日かに一度の夜、錯乱する。 後で本人が語るに、完全に自分のコントロールを失ってしまいそうな時があるという。 突然絶叫したり、突然どこかから飛び降りたり、そんな馬鹿なことでもやりかねないと思ってしまうことが。 気が狂ってしまう。自分のハンドルを握れなくなる瞬間が恐ろしいという。 そんな時、彼女を落ち着かせることができるのは薬でも睡眠でもなく、日番谷冬獅郎しかいなかった。 「心配するな。大丈夫だから」 何が大丈夫なのか、口にする日番谷自身にも、よく分かってはいないのだ。 しかし何度もそう言ってやれば、雛森はやがて落ち着き、眠りについてゆく。 しかしゆっくりと雛森の背中を撫でながら、日番谷は別のことを考えていた。 ―― 松本は…… 部屋に一人残してきた乱菊のことが、気になっていた。恋人じみた戯れに嵩じたからと言って、共に恋人同士だと認め合った仲ではない。 言える筋合いはないと分かっているのに、一輪挿しの中で寄り添う水仙と金盞花を見た途端こみ上げたのは、我ながら醜い嫉妬だった。 ―― 俺に権利なんてねぇ、のに。 そう。乱菊から市丸を奪う権利などないし、市丸を思う乱菊を止められるはずもない。 何しろ日番谷自身もこうやって今、乱菊の元を自ら離れ、雛森と共にいるのだから。 雛森を放っておけば、壊れてしまう。今支えてやらなければ、倒れてしまう。 だから仕方ないのだと思う反面、本当に雛森のためだけなのか、という囁きが漏れるのはうんざりすることに自らの胸のうちだ。 乱菊を愛す、と思う。しかしその気持ちに楔を打ち込むのは、胸で髪を震わせて鳴く一人の少女だ。 「誰のこと考えてるの?」 唐突に、鋭い声が意識の中に投げ込まれた。ハッと我に返り見下ろすと、雛森が日番谷を見上げていた。 潤んだ瞳に、妖しいまでの輝きが宿っている。 「ねぇ、誰のこと考えてた?」 「雛森……」 「……乱菊さん?」 「雛森」 質問に多いかぶせるように名前を呼ぶと、日番谷は腰をかがめた。膝をついた雛森と、線が合わさる。 「やっぱり、そうなのね」 違う、と言えばいい。そう思うが、口を開けない。日番谷が黙り込むと、雛森は搾り出すように声を張り上げた。 「乱菊さんは……市丸隊長のことしか見られないわ!」 その言葉は、まるで横っ面を張られたように日番谷の頭に響いた。日番谷はひとつ大きく息をつくと、雛森の肩を押しのけて顔を背けた。 「日番谷くん!」 その肩に雛森が取りすがる。しかし、その瞬間の日番谷には、それを受け止めるだけの度量はなかった。 何も答えず、締まっていた襖を押し開ける。外に視線を向けた瞬間、ギクリと日番谷の全身が強張った。 月光の冴え渡る夜の庭の真ん中に、乱菊が立っていた。すんなりとした立ち姿は、まるで舞い降りたかのように美しい。 金色の髪が、けぶるような輝きを湛えている。青の瞳に光が渡り、まるで日番谷を縫いとめるような力を放っていた。 すがりつく雛森を支える日番谷。その構図を、残酷なほどに余すところなく見つめていた。 その手に添えた一輪の花に、日番谷の視線は釘付けになる。 花びらが落ち、茎も曲がったそれは間違いなく、自分が衝動的な怒りのままに握りつぶしたあの金盞花。 いとおしむように指を添え、花びらで口元を隠すようにして、無言でただ立っている。 ―― 松本。 ただならぬ気配に日番谷が声をかけようとした時、乱菊の口元に花びらが吸い寄せられたように見えた。そっと花弁に口付けたのだ。 目を見開いた日番谷に、妖艶に乱菊は微笑んでみせる。その眼光に涙のような光が宿ったのは、気のせいだろうか。 やっぱり、そういうことか。そうなってしまうのか。 呼びかけようにも、くるりと背中を返したその立ち姿は、もう何人さえも寄せ付けない厳しさに満ちている。 ―― 絶望。別離の悲しみ。 同じ銀髪でありながら、自分とは真逆の紅蓮の瞳を持つ男が背負った花、その意味。 いなくなっても猶、あまりにも皮肉だ、と日番谷は去りゆく背中に、思う。 「日番谷……くんっ?」 急にぐい、と引き寄せられ、雛森が慌てた声を上げる。 「どうしたの、日番谷くん……」 目の前の、ぬくもりだけが信じられるように思えた。 かすかに震えた日番谷の腕に雛森は瞠目したが、やがて腕の中に身をゆだねるまでに、そう時間はかからなかった。
由奈さまへ捧げます。
「日乱ですが、藍染の裏切り後、雛森が立ち直るためにやむを得ず雛森を選ぶ感じ。シリアスで」
という大人なリクエストでした^^
日乱のような、日雛のような、市乱のような……白黒つかないストーリー運びにorz
勝手に作者が楽しんで書いてますが、少しでも気に入っていただけたら嬉しいです〜
切香より愛を込めて。
※2010/3/6 軽く加筆修正加えてます
[2009年 3月 14日]