鉦を一度打ち鳴らしたように、鋭くよく通る、澄んだ声だと思った。声音に、微塵のためらいもなかったからかもしれない。辺りは、しんと静まり返る。
「あ、貴方は」
隠密機動たちがたじろぎ、一護からとっさに手を離す。そのときには、少年は大通りから一護たちのいる小道へと足を踏み入れていた。

「……あ」
逆立った銀色の髪は、大通りの桜の花弁を移したかのように桜色に染まって見えた。
翡翠の深い湖のような色の瞳が、まっすぐに隠密機動たちを見据えていた。ぐさりと顔の正面から刺し貫いてくるような、鋭い視線だ。
「で、ですが。不審な者で、放置しておくわけには……」
「子供に手を出すな」
しどろもどろになった隠密機動に、少年はぴしゃりと言い放った。

「しかし、瀞霊廷の規則では……」
「聞こえねぇのか。『子供に手を出すな』と言ったんだ」
外見は子供なのに、中にはまるで大人の男が潜んでいるかのような、一分の隙をも許さぬ厳しい声だった。
「ここは俺に任せろ。砕蜂にもそう言っておけ」
少年はそう言うと、一護のほうへ歩み寄った。なぜだろう、隠密機動よりも恐ろしく見えた反面、もう安心だという気もして、一護は少年に歩み寄る。
「……承知致しました」
その声にほっとして一護が見やったときには、その暗がりのどこにも、隠密機動たちの姿はなかった。


「大丈夫か」
銀髪の少年は、一護の前にしゃがみこんで視線を合わせると、そう言った。
背丈は一護より頭一つ分高いが、それでもやっぱり子供だ、と近くから見た一護は思った。
先ほど隠密起動に対して見せた氷のような厳格さは、嘘のように影を潜めていた。
至近距離から見た翡翠の美しさに思わず、見とれる。少年はそんな一護を見返すと、眉を顰めた。
「……生きてもいない、死んでもいない。確かにそうみたいだな。どこから迷い込んだんだ?」
「……ボク、おかあさんを探してるの」
「あぁ?」
少年は、片眉を跳ね上げて返した。ここでは母親を探すのはそれほどおかしなことなのだろうか、と思いたくなるほど、それは怪訝そうに見えた。
おかしなことを聞いただろうか、と一護は不安になる。救いを見渡すように周りを見渡したとき、一護は思わず跳ね上がった。

「そ! そこ! 今そこに、おかあさんが!」
少年は眉を顰めて、一護の指差した、小道が大通りに合流している場所を見やった。ほどなく、首を振る。
「何言ってんだ。誰もいねぇじゃねえか」
「いるって、今、広い道に出てった!」
奇妙なものを見るような視線が向けられているのにも気づかず、一護は頬を紅潮させた。
一護の目には確かに、たなびく栗色の髪が大通りに消えていくのが見えていた。
「お前……」
立ち上がった少年を置いて、一護はいっさんに駆け出した。


大通りを少し駆けていった先は、なだらかな山に繋がっていた。圧倒されるほどの数の桜が、びっしりと山の断面を埋め尽くしている。
山の頂上には、縮尺を疑ってしまうほどに巨大な桜の大木が一本、鎮座しているのが見えた。
一護は息を切らせながら、斜面に細い丸太を打ちつけて作った階段をあがってゆく。その後ろを、少年がゆったりとした足取りで追った。
「……たまに、お前のような奴がいるんだ」
先をいく小さな背中に視線をやりながら、少年がひとりごとのように言った。
「生きてるくせに、流魂街へ魂だけ流れ込んでくる奴が」
「……何言ってるの?」
一護は、母親の影を必死に追いながら、そう返した。かすかな少年の声は、聞こえるようで聞こえない。少年がため息をついたのが聞こえたような気がした。

「……追うのを、やめるんだ」
一護は思わずビクリと足を止めた。いつの間に隣に来たのだろう。音もなく少年がすぐ隣に立ち、一護の腕を掴んだ。
「はなして!」
もがく一護の視線の先で、階段を上がってゆく母親が、わずかに、振り向いた。遠目にも分かったふくよかな唇には、確かに見覚えがある。
―― い・ち・ご。
その音を形作ったのが、見えた気がした。

「そっちへは行くな!」
少年が言うのが聞こえたが、一護にはまた遠ざかってゆく母親の姿しか、目に入ってはいなかった。
「離してよ!!」
暴力的な力が、一護の中に突如として膨れ上がる。まるで電流が流れたかのように、少年が一護の腕を掴んでいた手を離した。
「この霊圧……!」
少年の声に初めて、動揺がにじんだ。一護は少年を振り払うと、全力で階段を上がり、母親の後姿に追いすがった。


「おかあさん!」
見える。はっきりと見える。その懐かしい後姿が、ぴたりと足を止める。顎を引いて、肩越しにゆっくりと振り返る、その口元が微笑んでいる。
伸ばされた指先は、間違いなく母のもの――
一護は、満面の笑みを顔一杯に広げて、母親に両腕を伸ばした。
「見るな!」
少年の鋭い声が、やわらかな空気を引き裂くように響く。

吹雪のように桜の花弁が舞い散る。
さくらが。
振り向いた母親の、髪の影になった目の辺り。
よく見ると、そこには桜の花びらがびっしりと張りついているのだった。
ぎょっとした一護が目を凝らすと、それは張りついているのではなく……
「おかあ……さん?」
ばらり、と目の辺りの花びらが落ちる。
そして花びらが散った目があるはずの場所には、何もなかった。
鼻が、口元が、首が胸が肩が、桜の花びらとなって次々と春風に舞い散ってゆく。

「おかあさん!」
何が起きているのかわからないまま、一護は前へ踏み出して両手を広げ……母親の胴体の辺りにしがみついた。
しかし、あるはずの感触はそこにはなく、腕はすり抜ける。大量の桜の花びらが、廻した腕の間から飛び散った。
「……あきらめろ」
いつのまにか背後にいた少年が、一護の背中に声をかけた。一護は、両腕を体の前で交差させた体勢のまま膝をつき、石像のように凍りついている。
「それは、お前だけに見えている幻だ。分かるだろ? 幻をつかまえることなんてできないんだ」

一護は、交差させていた腕を、自分の肩を抱きしめるように押しつけた。前かがみになったまま、何かを吐き出しそうに大きく口を開ける。
「お、願い……」
血を吐くような声が、その口から漏れた。
「おかあさんを殺さないで」

一護の瞳に、何度でも何度でも甦ってくる風景。
雨の夕暮れに佇む、日本人形のような面立ちの少女。
濡れた草地が広がる河川敷。
川に渡る鉄橋の上を、電車が走り抜けてゆく。
手招きする日本人形。
ふらふらと歩み寄る一護。
日本人形はニヤリとその口に、亀裂のような笑みを走らせて一護を迎える。
―― 「一護っ!!」
そうだ。あれが最期に聞いたおかあさんの声だ。一護に抱きついた母親の強張った腕。
刹那! 
母親の全身が強張り、生暖かい何かが一護を濡らしてゆく。
少しずつ力が抜けてゆくその体。
地面に広がる真紅の染み。

「や、だ……」
「……おい?」
少年が一護の肩をつかみ、振り返らせる。
大きくしゃくりあげた一護は、そのまま少年にしがみついた。
大きく何度も首を振って、悲鳴にもならない大声で叫んだ。
「おかあさんを殺さないで!! 僕の、僕のせいで、おかあさんは……」
「黒崎一護っ!」
突然名を呼ばれ、一護は凍りついたように声を止める。
「な……んで、僕の名前を知ってるの?」
「さっき一瞬見せた霊圧で分かった」
「れい、あつ?」
「分からなくていい」

初めに会った時と同じように、しゃがみこんで一護と視線を合わせた少年は、まっすぐに一護を見つめてきた。
「いいか。お前は、そのころただの子供だったんだ。お前は悪くない」
「でも、僕が! 僕があの女の子のところへ行ったから……!」
「それでもだ。お前は悪くないんだ」
言い聞かせるように同じ言葉を繰り返すと、少年は一護の頭をぽんと撫でた。
不器用な手つきだったが、それは思いがけないほど一護を落ち着かせた。
「……ごめんな。行ってやれなくて」
「……なんで、おにいちゃんが謝るの?」
「……」
少年は何も言わず、
一護の手をひっぱり、立ち上がらせた。そのまま手を引いて、ゆっくりと桜の回廊を進んでゆく。
混乱し、怯えていたはずなのに、自分よりひとまわり大きな手が、一護をホッとさせる。そして乱れ飛ぶ桜色は、恐怖を拭い去るほどに美しかった。


***


ゆっくりと石段を登ってゆく二人の隣を、大勢の人が通り過ぎて行く。
「ホント満開だね! こんなキレイな桜、みたことないよ!」
「去年も言ってただろうが、同じこと」
紺色の単衣を着た若い男の後ろを、金魚の尾を思わせる赤い帯を閃かせた少女が追ってゆくのに、視線を奪われる。
木の幹の下では、大勢の老若男女が座り込み、談笑に花を咲かせていた。
「ここは……どこなの?」
「死者が住む場所だ」
「おにいちゃんも、死んだ……人なの?」
「そうだ」
淡々とした声音に、一護の背筋がぞくぞくと粟立った。足を止めた一護の手と、少年の手がスルリと離れる。
少年はそのまま何段か上がると、一護を見下ろした。

「お前の母親も、この世界のどこかにいる」
一護は、何も言わなかった。その言葉は、一護の胸にストンと落ちた。
母親は死んだのだ。それを今の一護は知っている。もう周りを見回しても、幻すら見えない。
「じゃあ、じゃあさ」
一護は、すがるような視線を少年に向けた。
「ボクに似た人を見なかった?」
「見ねぇよ、そんなの」
唐突に冷たく突き放すと、少年は一護の瞳を正面から、窓の奥を覗き込むように見つめてきた。
「お前みてぇに後ろばっかり向いて、メソメソしてる奴は、ここにはひとりもいねぇ」

笑いながら、話しながら。言葉を失った一護と少年の間を、たくさんの流魂街の住人達が通り過ぎてゆく。
「まだ、ここに来るには早すぎる。お前は、お前の場所へ帰れ」
冷たい言葉の底に沈んだ確かなものを、一護が感じ取ったと思った時。ぐらりと、少年の姿が遠のいた。
少年も一護も一歩も歩いていないはずなのに、その距離がぐんと遠くなる。意識が急速に揺らめく。
「おにいちゃん!」
一護が手を伸ばすと、少年は身を引き、微笑んだ。
「おにいちゃん! なまえ、は……」
言葉は言い切ることなく、途切れてしまう。その言葉の向うで、少年が返した。
「またな」


「黒崎君っ!」
ハッ、と一護は目を開けた。


目を開けた途端視界に飛び込んできたのは、涙を一杯にためた井上織姫の顔だった。一護と目が合うなり、見開かれた瞳から、涙がこぼれおちた。
「良かった……! このまま起きなかったらどうしようって……」
「俺……」
上半身をぎこちなく起こした一護が、まだ薄ぼんやりとした表情ながらも、泣きじゃくる織姫の肩に手をやった。
織姫の背後には、石田、チャド、ルキア、少しはなれて卯ノ花の姿が見えた。
「貴方の魂だけが、体から彷徨い出た状態だったのです。見つからなかったと聞いて、心配していたのですよ」
「魂が、体、から……?」
卯ノ花が穏やかにこちらを見下ろしてくる。言われて見れば、なんだか長い夢をみていたようだ。

「一体どこで何をしていたのだ、一護!」
ぶっきらぼうではあるが、どれほど心配していたのかが透けて見える声で、ルキアが一護を見下ろしてきた。
「……わからねぇ」
亡羊とした頭の中で考えるが、ちらりちらりと断片しか浮かんでこない。
桜。
桜色に淡く輝く銀。
深く沈む翡翠。
「そうだ。桜が咲いてて……不思議な奴に、会ったんだ」
追おうとすればするほど全体の輪郭は遠のいてしまう。
「誰、だったんだ」
―― 「おまえは、わるくない」
その言葉だけが、不意に頭によみがえる。
悪くない、何がだ? ただの夢なんだから、理由なんてあるはずがない、と一護は考えるのをやめる。
ただどうしてだろう、何だか急に、喉の奥に引っかかっていたものが、取れたような気分だ。

「俺は、俺の場所に帰らなきゃ、な」
「え? どうしたの? 黒崎君」
独り言のように呟いた言葉を捉え、織姫が心配そうに覗き込んでくる。
「なんでもねぇ。そろそろ、現世に帰らなきゃな」
ウン、と織姫が目じりに涙を浮かべたまま、頷く。

ふと顔を上げたとき、窓の外に銀髪が一瞬見えたような気がした。
なぜか懐かしいと思ったが、その気持ちも夢のように消えた。


Alanさまに捧げます。
「日番谷、一護の話で、halcyon daysみたいな雰囲気のもの」というリクエストでした。
日常……ぽい話がご希望でしたよね(滝汗
どうしよう、めっちゃ非日常を書いてしまいました。
書いてるうちに筆(指?)がツルツルっと……
そんなふつつかな話ですが、読んでいただけたなら嬉しいです。
切香より、愛を込めて。
※2010/3/5 少しだけ編集。

[2009年 2月 26日]