松本乱菊が脱走した。
松本乱菊が冬眠した。
松本乱菊が盗撮した。

我ながら気の毒だと思うが、とかく「松本乱菊」には免疫がついてきた自信があった。
だがそんな日番谷冬獅郎でも、まさか「松本乱菊が小さくなった(しかも微妙に)」という事態は予想外だった。
はああ、と思わずため息が漏れる。なんだってコイツは、俺の前でばかり厄介ごとを起こすんだ。どこか他所でやってくれ、と正直思う。
俺を困らせる星の下に生まれたのかこの女は?


「たーいちょー。そんなにため息ついたら幸せが逃げますよ」
「お前が逃がしてんだろ」
よりにもよってコイツに言われたくない。不機嫌な表情もそのままに振り返ったが、そこには乱菊はいない。
「角度違ってます。下です下」
ああそうか、と斜め45度くらいに上げていた視線をまっすぐに戻すと、乱菊と目が合った。
普段は40センチほど身長差があるのに、今では15センチほどしかないのだ。何だか、調子が狂う。
「……なんですか?」
少し離れて俯き加減の乱菊は、上目遣いだ。
乱菊の上目遣いなんていうものを、初めて見たと思う。
「……なんでも、ねえよ」
勝手が違うというのか何なのか、いつものように怒鳴りつけてやろうにも、妙にためらいがある。

―― なに、動揺してんだ俺は。
中身はあの松本乱菊じゃねぇか。気を取り直し、視線を前に戻す。
とにかく、こんな状態のこの女を瀞霊廷に戻しても、大騒動になるばかりだ。
瀞霊廷以外で落ち着いて状況を考えられる場所、と言えば、日番谷には祖母のいる実家しか思いつかなかった。


大股でずんずんと歩き出した途端、くいっと後ろから引かれた。
「……なんだよ」
もう一度振り向けば、乱菊が日番谷の袖を指先で掴み、軽く引っ張っていた。もの言いたげに日番谷を見返している。
「……もっとゆっくり歩いてください、隊長」
「……お、おぉ」
何だコイツ。何なんだコイツ! 歩く速度を緩めながら、日番谷は明らかに動揺している自分に気づいた。
いつもの乱菊とは、明らかに違う。言いたいことはいつでも何でもバンバン言う乱菊に「もの言いたげな表情」など普段存在しない。

コイツでも、こんな状況に置かれれば動揺しているんだろうな、と気づくには時間はかからなかった。
150センチといえば、20センチ以上縮んでいるのだ。それでも日番谷よりも高い辺りが悲しいが、
いきなり身長が縮むのは恐ろしいだろうと思う。というか、20センチ縮んだのが自分だったとしたら、いろんな意味で死にたい。
「……不安です、隊長」
必要も無いのに、何度も何度も名前を呼んでくるのも、心細いからだろう。
「大丈夫だ。俺が何とかしてやるから」
できるだけぶっきらぼうに返したが、本音だった。
こんなのは、乱菊らしくない。
普段はもう少し空気読めと思うことも多いが、それでもこんな風に落ち込んだ姿を見るくらいなら、いつもどおりでいてほしかった。
「……隊長、そうじゃなくて」
「……あん?」
「あの甘味処に行きたいです」
乱菊が指差した先は、「超高級甘味処♪ お子様食べ放題!」の暖簾がかけられた甘味処があった。
プルプル、と思わず日番谷は震える。
「ちょっとは自分の身を心配しろっ!」


***


なんで俺がコイツのために、心配したり解決策を考えたりしなきゃいけねぇんだ。ああイライラする。
心配余ってイライラ十倍というのか、日番谷はそれから一度も振り向かず、祖母宅に向かった。
あのー隊長、とか、ええと隊長! とか途中で声が聞こえたが、無視した。

見慣れた祖母宅の小さな門が見えてきたとき、少なからずほっとしたのは否めない。
「ばあちゃん、いるか!」
門に手をかけ、中を覗きこむ。すると、のけぞるほど近くで祖母と目が合った。
「おやまあ、冬獅郎かい」
皺だらけの口元が、巾着をしぼるようにきゅっと窄まり、笑顔に変わる。
門の内側で草抜きをしていたらしく、抜いた草を地面に置くと、手を前掛けでぬぐい、よっこいしょと立ち上がった。
「上がっておいで。めずらし……」
そこまで言った祖母の言葉が停まる。日番谷の背後に視線を投げたまま、「まぁ」の形に、口が固まっている。
いきなり縮んだ乱菊を見れば、それは動揺もするだろう。

しかし祖母は、思わぬことを言った。
「こりゃまた、見ないうちに大きくなったねぇ、乱菊ちゃん」
「……え?」
ぽかん、とした日番谷の頭上に、暗い影が差す。日番谷は、そーっと振り返った。
「だから。さっきから何度も呼んだのに!」
「でかっ!」
3メートルくらいに「成長」した乱菊の姿に、日番谷は思わずのけぞった。


***


「……松本。前から思ってたんだが」
「なんですか? 隊長」
「お前、俺を困らせて面白いのか? 面白いんだろ?」
「やだ隊長、被害者意識はやめてくださいよー。被害者はあたしですよ、あたし」
「被害者だったらもうちょっとしおらしくしろ!」
「しおらしく、隊長のおばあちゃんを手伝ってるところです!」

3メートルもの巨体でしおらしく、なんて不可能だと思う。
縁側に腰掛けた日番谷の目の前に、巨大すぎる乱菊の胴体が御座している。
「おばーちゃん、ここでいい?」
「ああ、ちょうどいいよ。下ろしとくれ」
見上げれば、乱菊の巨大な両掌の中に、包まれるように祖母の姿が見えた。
そのまま乱菊が注意深く、屋根の上に祖母をおろす。しばらくして、祖母の嬉しそうな声が聞こえた。
「助かるよ乱菊ちゃん。一度屋根の上の草を抜きたかったのさ。勝手に生えてきてねぇ」

この馬鹿馬鹿しい事態を目の前にした祖母が、卒倒するでもなく、
「この身長は屋根の草を抜くのにちょうどいい」などと言い出すとは思わなかった。
新しい祖母の顔を見てしまった気がする。


乱菊は、仏頂面で茶をすすっている日番谷を見下ろして、嬉しそうに笑った。
「なんだかこうしてると、あたしたち家族みたいですねー隊長!」
「か、家族?」
三メートルの女の、家族の中での役割、というのが想像つかない。屋根の上から、祖母の声が聞こえた。
「本当だねえ、うちのお嫁さんに来ないかい?」
「はい、じゃあ明日から♪」
「誰の嫁になるんだ、誰の!」
「もちろん……」
「あーもういい。それよりお前、背丈がデタラメになる前に、なんか変なもん食ったり飲んだりしなかったか」

日番谷は、声をあらためて乱菊を見上げた。
頭にあるのは、先だっての自分自身の性転換事件だった。あの原因は、涅に渡された薬を飲んだことにある。
性転換ができるくらいなのだから、背丈が変わる薬くらいは持っていてもおかしくない。
というより、他にそんな馬鹿馬鹿しい研究をする者がいるとは日番谷には思えなかった。

乱菊はうーん、と考えていたが、やがてぽん、と手を打った。それだけで、思わず目をつぶるくらいの風が来る。
「城崎が淹れた茶を飲みました。そういえば、飲んだ直後、あの子様子がおかしかったわ。いつもおかしいから、あまり気にしなかったけど」
「怪しすぎる」
城崎はいい奴だが、いかんせん頭が単純すぎる。悪気なしに、なにをしでかすか分からない恐ろしさがある。
茶を飲み終わった日番谷は、ため息をつきながら立ち上がった。