見上げた視界が、ゆらゆらと揺れている。穏やかに差し込む春の日差しに、意識を持っていかれそうになる。
いや、そうでなくとも、既に酒の力に負けそうだ。
―― このまま、ずーっと寝ていてぇ……
恋次が首をめぐらせると、その先には薄(ススキ)色の髪が見えた。
どうやら正体不明で転がっているのは、吉良も同じらしい。
それにしても、他の連中は一体どこへ行ったのか。視線をめぐらせた時、空にぽっかりと浮かんだ穴が見えた。

あー、ありゃ、虚腔だな。
それは分かる。そこからは虚が出てくるものだ、と云うことも分かる。
しかし、体を動かすのが恐ろしく億劫だった。
例え地震が起きて雷が降ってこようが、金輪際動くことなく寝ていたい、と思うくらい体が重い。
そういう状態だからして。そこから、見慣れた大虚が恐ろしい勢いで湧き出してきても、恋次はボケーッとそれを見つめたままでいた。


まるで意思というものが感じられない巨大な穴のような瞳が、恋次を見下ろす。
そして、その口が今にも虚閃を吐き出さんばかりに開かれたとき、初めて
―― ヤバいかも。
と思った。傍に転がっている吉良を見やり、
「おい、吉良……」
声をかける。

起き上がろうとした時、
「恋次、吉良っ!!」
鋭い乱菊の声に、ようやく恋次ははっきりと覚醒した。


「乱菊さん!?」
見慣れた金髪が波打ち、抜き身の斬魂刀を携えた乱菊が、恋次の視界に躍り出る……と同時に、白銀の光が走った。
「あいてぇっ!?」
思い切り灰猫の刀身の腹で頭を叩かれ、恋次と吉良が悶絶した。
「いつまで寝てんのよっ! 起きなさい!」
なんでこんなに機嫌が悪いんだろう、と思う間もなく、二人は飛び起きる。

「ホラ、来てるよ。大虚とはいえ、数が多いのは厄介だねぇ」
いつの間にかやってきていた京楽が、編笠の端を指先で持ち上げ、空を見上げた。
「大技は使っちゃダメだよ、瀞霊廷に被害が出たら元も子もないからね。地道に一体一体倒していこう」
戦いの最中とは思えぬのんびりした声だが、張り詰めた霊圧が周囲を圧倒してゆく。
「はいっ!」
背後に檜佐木と乱菊、恋次と吉良が斬魂刀を手に従った。


***


「ホンット、数が多いわね!」
大きく空に舞った乱菊は、力の限り灰猫を打ち下ろした。
愚鈍な顔をした大虚が、表情もそのままにゆっくりと二つに割れ、消えてゆく。
強力な鬼道を使えば、一気になぎ払うことも可能だ。しかし、それをやれば近くの瀞霊廷やソウル・ソサエティにも被害を振りまくことになる。
乱菊は額を伝う汗を拳で拭った。

―― それも、いいかもな。
遠くへ行かないか、と誘った草冠に返した日番谷の言葉と、その時の表情が頭に焼きついていた。
京楽は、日番谷はどこにも行ったりしない、と言った。
檜佐木も慰めるように肩に手を置いてくれたが、悲しかったのは、そんなことじゃない。

あれほど乱菊を切なくさせたのは、日番谷が一度も、乱菊にそんな弱音を吐かなかったからだ。
乱菊の見る日番谷はいつだって背筋を伸ばし、悩みや脆さなど微塵も態度に表さなかった。
どんなことでもいい。それが乱菊にとって辛い言葉でもいい。
言ってほしかったと思う。
日番谷が重荷を背負っているというのなら、自分にも分けて欲しかった。


「乱菊ちゃんっ!」
その時。
京楽の鋭い声に、乱菊は我に返った。ハッと顔を上げたその眼前に、十メートルはある大虚の巨大な爪が迫っていた。
「乱菊さ……」
檜佐木が駆けてくる必死の形相が、視界に焼きついた。
間に合わない。
妙に長く感じたその刹那、
「松本っ!!」
懐かしい声を聞いた。

乱菊にとっては親しいその鮮烈な冷気が、下から立ち上ってくる。そう思った時、彼女は息を飲んだ。
バキバキバキッ、とまるで地割れのような音を立てて、大虚の体が足元から凍りついてゆく。
その氷の波はあっという間に大虚の全身を飲み込み、氷漬けにした。
「松本っ、大丈夫か」
パン、と背後から肩を叩かれる。振り返って見慣れた翡翠と対峙した時、乱菊はきっと、泣きそうな顔をしていたのだろう。
抜き身の氷輪丸を担いだ日番谷は、一瞬目を見開いたが……すぐに、眉が顰められる。
「お前、まさか……聞いてたのか? 草冠と俺の会話を」
「……」
乱菊は何も言わなかったが、その表情が全てを物語っていたのだろう。
日番谷はバツが悪そうに頭を掻いたが無言で、乱菊の肩を掴んで背後に下がらせた。

「京楽、そっちの虚は頼むぞ! 俺はこっちを引き受ける!」
「あぁ、頼むよ」
京楽と叫び交わし、大虚と向き合った時、日番谷の表情はいつもの隊長の貌(かお)に戻っていた。


***


「……たく。人が悪いぜ、盗み聞きとはな」
日番谷が京楽の後ろにふわりと舞い降りたのは、大虚を軒並み倒した後のことだった。
「いや〜ゴメンゴメン、バレてた?」
「……いや、寝てたからな。大虚にさえ初めは気づかなかった」
肩をすくめて笑った京楽に、日番谷は渋面を返した。
「おや。じゃあどうしてここに来れたんだい?」
「草冠についさっき起こされたんだよ。ヤバいことになってるぞって」
おや、と京楽は口の中でもう一度呟く。

草冠は、初めから京楽たち三人がついて来ているのに気がついていた。
その上で敢えて無視していたのは、日番谷に知られたくないからだと思っていた。

日番谷が、不意に空を仰いだ。
背後に降り立った檜佐木と乱菊は、虚腔の淵に草冠が腰掛けているのに気づいて息を飲む。
「なんだ、アイツ! 破面か!」
吉良と恋次が斬魂刀を構えなおしたが、檜佐木がその前に腕をかざして止めた。


「冬獅郎!」
草冠が、まるで学生が級友に呼びかけるように、屈託のない声で呼びかける。
「この先は虚圏だ。一緒に来る、っていう選択肢もあるんだよ?」
乱菊が唇を噛んで、日番谷を見た。日番谷は束の間、苦しげにぎゅっと眉根を寄せた。
「そんな貌しなくても、分かってるよ。お前が俺と来ることはない」
草冠はすぐに苦笑する。そして少し表情を引き締め、日番谷を改めて見返した。

「隊長って地位が大事なのかい?」
「……そんなのどうだっていい」
その一言に、乱菊だけでなくその場の全員が瞠目して日番谷を見つめた。
「地位なんてどうだっていい……」
日番谷は俯き、続ける。
「でも、護りたい奴がいるんだ。『隊長』であることで護れるなら、俺は何があっても隊長の座からは降りないと決めたんだ」

「隊長……」
「何も言わなくて、悪かったな」
日番谷は、乱菊を肩越しに振り返った。
分かっている、と乱菊は思う。日番谷は、乱菊が何に最も傷ついていたか、よく分かっている。
「でも俺は、お前の前では『隊長』でいたいんだ」
照れくさそうに付け加えられた言葉を、ゆっくりと反芻する。心を覆っていた重苦しさが晴れていくのを感じる。
ああいい男だ、と乱菊は思う。一言一言に、こんなに心を揺さぶられる自分がいる。

「そっか」
草冠は落ち込む様子もなく、軽く頷くと背中を向けた。
「草冠!」
後を追うように、日番谷が前に踏み出した。しかしその肩を京楽が掴み、引き戻す。
日番谷が見上げると、京楽は無言で首を振った。虚圏へ消える直前、草冠は微笑んでいった。
「お前が、それに気づいたならいいんだ」
「草冠、お前……」
日番谷は目を見開いたが、既にそのときには、彼の姿は虚腔の闇の中に吸い込まれていた。
「あり……がとう」
日番谷の呟きは、虚腔が消えた、空の青に吸い込まれた。



柊様へ捧げます。
途中で更新が切れちゃって、お待たせしましたm(_ _)m
「愛想の少ない日番谷と、めちゃくちゃ仲がいい草冠が突然現れて、
草冠のことを知らない周囲がかるくパニックになる話」というリクエストでした。
最後は日乱になっちゃいましたが^^;
楽しんでいただけたら嬉しいです。
切香より愛を込めて。

[2009年 5月 31日]