光に色など、あるのだろうか。
ルキアは廊下を歩きながらそう考えた。廊下から見える鈍色の景色の中に、光は見えない。
耳を澄ませると、バタバタと行きかう足音や、鋭い人の声が聞こえる。その中に笑い声が混ざって、急患といっても、これは人の命を生み出す作業なのだと思う。
産室の手配をし、助産婦が待ち構えるその部屋に日番谷が乱菊を運び込むのを見届けてから、ルキアは部屋を出た。
出産の経験はもちろん、傍で助けた経験もない自分がそこにいても、役に立てないことはよく分かっていたからだ。
―― 「あの、日番谷隊長は、この場には……」
言いかけた助産婦を、日番谷は視線で黙らせた。
―― 「産まれるのは、俺の子だ。立ち会うのは当然だ」

その言葉に乱菊が浮かべたホッとした表情が、脳裏に甦る。
もしも自分だったら、自分が痛みでどうなってしまうか分からない、醜態をさらしてしまうかも知れない時は、できるなら一人になりたいと願うだろう。
大切な人に傍にいられるなど、恥ずかしくて耐えられぬ。それなのに、隣に座った日番谷の手をしっかりと握った乱菊は、混じりけなく安堵した表情をしていた。
わからない、と思う。そしてわからないからこそ、うらやましいと思う。

ルキアは目指す部屋にたどり着くと、中に足を踏み入れる。屋敷の中でも南側に位置し、最も陽のぬくもりを感じやすいところ。
そんな場所にも関わらず、そこは普段誰も立ち入らない。その部屋の主がこの世から消えても、なお留まり続ける思い出を護るように。
……でもこの部屋に、新しい主が入る日が、もしかしたら来るのだろうか。


「……姉さま」
仏壇の扉は、いつも少しだけ開けられている。扉の向うから、控えめに微笑む姉の写真が、そっとルキアを見返している。
「姉さま」
もう一度、呼んでみる。ルキアが姉と別れた時にはまだ赤子だったせいで、記憶もなければ名前を呼んだこともない。
「今ここにおられたら、なんとおっしゃるでしょうか」
妹として、兄に大切な人ができたなら、自分は祝福したいと思う。
それなのに、兄から知らぬ香のかおりが漂ってきたり、これまで着ぬ服をまとっていたりするたびに、心がズキンと痛むのは、どうしようもなかった。
―― 私は今でも、自分のことばかりだな……
兄の気持ちが、そのひとに行ってしまったというのなら。姉の縁でこの屋敷にいる自分の居場所は、どうなるのだろう。
もちろん白哉のことだから、自分への態度は一切変えないに違いない。しかし、居場所がなくなるような心もとなさが、ルキアの心を占めていた。

控えめに、それでも確かな幸せを口元に湛えて微笑む姉に、日番谷と乱菊が見せた穏やかな笑みが重なる。
愛情を手中に納めたひとの笑顔は似ている、とルキアは思う。
愛情だけは、自分ひとりではつくれないのだ。それを当たり前のように享受している人を、いつも見上げてきた。
自分もそんな人の仲間に入れるときが、いつかくるのだろうか。そう思うと、とたんに心細くなってくる。

幼くして姉と同時に現世で死んだ、という厳然たる事実。親に愛された子供が、そんな死に方をするだろうか。
判りようもないことなのに、胸の底に鉛のような疑惑がいつも沈んでいる。
そして流魂街でも姉に捨てられた事実が、自分を本当に愛してくれる者などいないのでは、とう不安に結びつくのだろうか。
もしこんな時に、兄まで違う方角を見ているとしたら。
―― 「ルキア、は異国の言葉で、光という意味だ」
もしそうならば。私の親は、私に何を見たというのだろう? 私自身が光だと言うなら、なぜ光を求め続ける必要があったろう。
それとも私には「光」とは何か、まだ何も分かってはいないのだろうか。
ルキアは小さく、ため息をついた。


にわかに、辺りが騒がしくなったのはそのときだった。
「産まれる、産まれるわよ!」
誰かの弾んだ声が聞こえて、ルキアはハッと振り返り、壁に掛けられた時計を見やった。
まだ、産室に入ってから四時間と経っていないのに、もう産まれるのだろうか。
出産といえば、一日仕事ではないのか……と知識を呼び起こしつつ、ルキアは足早に部屋を出ようとした。
「あっ、ルキア様! 申し訳ありません!」
廊下に足を踏み出した途端。盥を持って走ってきた使用人に正面からぶつかりそうになる。

「もう産まれるのか?」
「はい、ものすごい安産なようで……もう、」
息を弾ませたその女が言い終わらないうちに、二人はぶつりと言葉を切った。
瞬間、騒がしかった周囲がシンと、水を打ったように静まり返る。
―― 今、確かに……
頼りないかすかな声を、聞いたような気がした。朽木家の全員が耳を澄ましているのが分かるような、静寂。
満を持したように、赤ん坊の泣き声が屋敷中に広がった。

「産まれた……」
向かい合ったその女が、口元に手を当てている。その頬が紅潮しているのを見て、ルキアも自分もまた微笑んでいるのに気づいた。
「産まれた! 産まれたぞ! 元気な女の子だ!」
まるで鐘が鳴るように、同じ声が邸内に響き渡る。
「良いものですね、子供が生まれるって」
言葉をなくして、赤ん坊の泣き声に聞き入っているルキアを見て、使用人の女は微笑む。
「ぜひ、いらっしゃってください。日番谷隊長も、松本副隊長も、お喜びですよ」
慌しく去って行ったその背中を見送り、ルキアは自分の中に、経験したことがない心弾むような気持ちが湧き上がってくるのを感じた。
例えるなら春先、初めて咲く梅の一輪を見たような、柔らかな新芽を見つけたような気持ちに似ているが、それよりも遥かに強い。

こうしてはいられない、意味の分からない気分の高揚に急かされ、ルキアは廊下に駆け出した。足を踏み出したその瞬間、その光はあった。
「光……だ」
雲間から、柔らかな春の光が差し込んでいる。それは庭に弾け、磨き上げられた廊下に満ち、今からルキアの行く道を白く照らし出していた。
光だ。もう一度思う。新しい命の芽生えに、嬉しい、嬉しい、と幸せが弾けているような純粋に白い光だ。
自分の心が見せる幻なのか、春の日差しが見せる現実なのか、ルキアはしばらくただ立ち尽くしていた。
遠い日、遠い場所でこの光を見たのは、ルキアの顔も見ぬ両親だったのかもしれない。
ルキアはその光にまぶしそうに眼を細めると、足早に産室に向って、歩いてゆく。


***


「……光の春、か」
座敷に佇み、赤ん坊の声に耳を澄ませていた白哉は、ただ一人頬にかすかな笑みを浮かべる。そして、前に転がっている小さなアヒルの人形を手に取った。
―― 「白哉さま」
瀞霊廷のとある店先でその人形を見つけた緋真が、手にとって振り返った時の笑顔を、ふと思い出す。
あの時、まだ健康だった緋真の頬は赤く染まり、ほんとうに幸せそうだった。
―― 「白哉さま。どうか」
次に浮かぶこの人形の思い出は、病床の上にあった。青白い頬をした妻は、どこかさびしげにその人形を手でもてあそんでいた。
―― 「どうか、いつか赤ん坊の手に、この人形を抱かせてやってくださいましね」
そんなことより、はやく良くなれ。そういおうとした白哉に、緋真は続けたのだ。
―― 「それが私の子でなくても、一向にかまいませんから。私はいつも、白哉さまのお傍にいて、幸せを願っています」
「……すまぬな、緋真」
白哉は、かすかに呟く。緋真が本当に望んでいたのは、白哉が自分に縛り付けられ、一歩も動けぬようになることではなかった。
花が移ろうように自然に、白哉が前に進んでゆくことだったのだ。外から差し込む光に、まぶしそうに眼を細め……そして不意に表情を歪めた白哉は、掌を瞳に押し付けた。


***


「なんだか、祝福してくれてるみたい」
まばゆい光は、窓から産室にも降り注いでいた。額にまだ浮かぶ汗を、日番谷に手ぬぐいでぬぐってもらいながら、乱菊はうっとりと窓からの光に目を細めた。
日番谷は手ぬぐいを枕元におくと、膝の赤ん坊を抱きなおす。純白の産着を着せられて無心に手足を動かす赤ん坊を、不思議なものでも見るように見下ろした。
「……この蹴りは間違いねぇ」
宙を蹴るその足の動きを見て、感心したように呟く。乱菊が噴出した。
「ちょっと貴方。はじめての娘に対してそれはないでしょ?」

子供の顔を見ようと上半身を起そうとするが、顔をしかめてその場に肘をつく。日番谷がそれを助け、ふたりして赤ん坊の顔を覗きこんだ。
「……桃」
乱菊がつぶやき、ふたりは同時に微笑んだ。

「失礼します、日番谷隊長、松本副隊長。中に入っても?」
ルキアの遠慮がちな声が響き、二人は同時に顔を上げた。
「いいわよ。入りなさいよ、かわいいわよ」
ルキアはそっと息をつき、扉を引きあける。廊下に長く伸びた光の帯が、やけに眼に染みた。



ライズ様に捧げます。
「夫婦日乱で乱菊妊娠・出産話。
二人が幸せを感じられる、ほのぼのあったかさの残るラストシーンで」との素敵リクエストでした^^
この話は、リクエストもらわなかったらきっと書けなかったと思います(笑
ルキア、のスペルは「RUKIA」ですが、恐らくLUKIA(光)から取られたんでしょうねぇ。
気に入っていただけたら嬉しいです。
切香より愛をこめて。

[2009年 3月 7日(2010年6月19日改)]