それから、数日後。
「ねー、おなかすいた」
やちるは、囚われの身とは思えない呑気さで、虚を見上げた。
「もうじき死ぬってのに、緊張感のねぇ奴だ」
吐き捨てるように虚が返した。その上半身は、端正な顔立ちの、普通の男と変わらない。
しかし下半身は、足の代りに無数の白い触手が蠢いていた。男の二の腕ほどあるものから、指くらいまで太さは様々である。
数メートルにも及ぶその触手は、少しはなれて座るやちるを一瞬で捉え、縊り殺すのはたやすいと思われた。

「あたし死んだりしないもん!」
場違いに明るい声に、虚はそれ以上は何も返さず、暗闇を見つめた。
長年この地底に篭っている虚の眼で見れば、まるで昼のようにこの闇を見通せる。
荒涼とした岩が続くその景色に、全く生き物の気配は感じられなかった。
「あの死神二匹を殺したら、次はお前の番だ。しかし、あの様では子供のほうはとても生きちゃいねぇだろうな」
その唇に、酷薄な笑みが乗る。霊圧に頼って戦う典型的なタイプなのは一目で分かった。
まさに、こういう場所が死地となるタイプの少年だ。


「あ!」
その時。やちるが上げた素っ頓狂な声に、虚は我に返った。
一瞬で障子に染み出す墨のように、周囲の闇よりも一段と濃い姿が現れた。
すぃ、と一歩足を踏み出してきて初めて、虚はそれが生き物……いや、死神だということに気づく。
隊首羽織はもうなく、死覇装のみの姿はさながら漆黒の影のようだ。
破れた袴の裾が長くたなびき、その襟は割れて腹の辺りまでのぞき、腹にはきつく晒を巻いていた。
「ひっつん……」
立ち上がりかけたやちるの笑顔が、滑り落ちる。それほど、日番谷の様子は異様に見えた。
虚が笑みと共に立ち上がる。その下半身を覆う無数の触手が、ぬらぬらと万の蛇のように蠢いた。

「生き残ったのはガキの方かよ。意外だったな」
いつもは透明な光を湛えている翡翠の瞳は、今や爛々と獣のように輝いている。
まっすぐに虚を睨みすえたまま、ヒュン、と軽い風切音と共に刀の切っ先を突きつけた。
刃の所々の光りがいびつに弾け、至る所で刃が零れ、ヒビが入っているのが分かった。
この地底の千を下らぬ虚と打ち合い、まだ刃が原型を止めているほうが異様だ、と虚はそれを見て思った。


やたらと周囲が静まり返っている。他の虚はやられたのか、と虚が思った時、
少年の背後からいくつもの気配が現れた。そのうちの一つが、言葉を発する。
「てめぇ……終わったと思うなよ」
人の形をした虚は、手に手に人間のように刃を携えている。虚の中でも、破面に近い者たちだということは、その外見でわかった。
日番谷は、聞こえないようにスッと瞳を閉じる。しかし次の刹那、刀と共に身を翻し、一足飛びに背後の虚に向って斬りつけた。
「ガキが!」
嘲りの声と共に、振り下ろされた刀を受け止める。
しかし弾丸のような勢いで突っ込んできた少年の体は止まらず、そのまま膝で虚の喉元を蹴りつけた。
「ぐっ……」
それ以上の声もなく首から血を流して吹っ飛んだ虚の刀を、日番谷が空中で手に取る。
くるりと柄を軸に反転させると、襲い掛かってくる虚たちに向って投げつけた。
体を串刺しに突き通された二体が、苦痛の動きと共に倒れる。

何事もなかったかのように歩み寄る日番谷は、言葉を忘れたかのように無言のままだ。
その静寂が、虚たちを恐慌に陥れた。既に同じような戦いが数日繰り返されていれば、精神を磨耗しても無理はない。
「てめぇ、狂ってるぜ」
それにも、わずかに瞳を細めただけで無言。目の前に迫る虚たちの群れに、手にした刀を無造作に取り上げた。
そして、渾身の力を込めて刃を地面に突き立てた。地面が爆発的に捲くれ上がり、その足元からの奇襲に、虚たちが一斉に宙を舞う。
キッとそれを見上げた日番谷の姿が、ふっと消えた。一拍あけてその姿が、十メートルほどの中空に現れる。
そのまだあどけなさを残す唇が、わずかに笑みの形に歪められた。次の瞬間、手にした刀を一閃させる。
その一撃の衝撃波は、避ける隙もなく虚たちの群れを薙ぎ払った。

「……剣ちゃんと同じ戦いかただ!」
地面に座り込んでいたやちるが、眼を見張った。確かに、敵の数が多いとき、更木がよく使っていた戦法だ。
しかし並外れた力が必要になるその技は、力自慢の一角でさえ会得できていないはずなのに。


ダンッ、と足音をたて、日番谷が拳を地面に叩きつけるような体勢で着地する。
そして、やちるを捉える虚に視線を戻した。迎え撃つ虚の表情にも、もう笑みはカケラも残っていない。
喉に張り付くような緊張が、その表情にも全身にも見て取れた。
その、刹那。
「まだだ!!」
倒れたはずの虚の群れの中から、一体が疾風のように飛び出し、日番谷に向って横様に斬り付けた。
反応できないはずの近距離。しかし日番谷は身を翻すと、半ば本能的に刃を振りかざした。

振り上げた日番谷と、振り下ろした虚の刃が、互いの意地の象徴のようにぶつかり合い、魂切る音を周囲に響き渡らせた。
一瞬の鍔迫り合いの後、押し切ったのは日番谷。その刃が、虚の胸から腹にかけてバッサリと深く切裂いていた。
日番谷の体は、そのまま地面に両膝をついて、土煙を立てながらようやく止まった。
反り返った少年の喉の白さが、一瞬気味が悪いような違和感を持って視界に閃いた。
両手で掴んだ柄をゆっくりと下ろしたとき、刀身の真ん中に、音を立ててヒビが入った。
そのまま真っ二つに折れ、地面に落ちる。日番谷は俯いたまま、動かない。


「……刀を失ったな」
ニヤリ、とほくそ笑む。刀なしに、自分の無数の触手と戦えるとは、さすがに思えない。
「ひっつん!」
やちるが、身を乗り出した。殺気だった虚の瞳に、その小さな姿が映る。
「まずてめぇから死ね!!」
人質にとっておく、などという算段も忘れ、虚は衝動のままにやちるに向かって刃を振り上げた。

「……あァ、言い忘れた」
日番谷が、その時初めて声を上げた。別人のようにかすれた声だった。焦る様子もなく、スッと瞳を閉じる。
「そいつに手を出したら、死ぬぜ」
「……あ?」
刀を振り下ろしながら、虚は日番谷を見やった。
地面に跪いた日番谷の背後に、とてつもなく巨大な、闇に姿を借りた殺気が膨れ上がるのが分かった。

「剣ちゃーーん!」
やちるが満面の笑みを浮かべ、手を差し伸べる。
なに、と思った時には、その殺気は、一気に人の形を取り、日番谷の背後から陣風のような勢いで襲い掛かってきた。
「ひゃっほぉ!!」
虚の、人間の形を取っている胸から頭に掛けて、一文字に切り上げた。
かわすことも受け止めることも出来ないほどに、圧倒的な一撃だった。
倒れた虚の体から夥しい血が噴出し、びくびくと全身が痙攣する。


「へっ、たわいもねぇ。行くぞやちる」
やちるに手を伸ばしかけた更木が、あん? と口の中で呟き、周囲を見回す。
痙攣していた無数の触手たちが、まるで別の意志を持つ生き物のように、蠢きだしたからだ。
見る見る間にボコボコと動きを変え、それぞれが手や足を形作った。さらに、あの端正な顔が次から次へと現れる。
百以上にも増えた虚は、一斉に同じ顔で、同じ声でせせら笑った。
「主人が死ねば、それぞれが別の命として虚となるんだよ……この数、てめぇらに勝ち目はねぇ」

「有象無象どもが、面倒くせえなあ……おい、日番谷!」
背後の少年に更木が呼びかけた時だった。戦いによる振動に耐え切れなくなったように、天井の岩の一角が崩れた。
それと共に、一条の光が矢のように闇の中を貫いた。その外界の光は、まるで太陽のように泥と血に汚れた日番谷の横顔を照らし出す。
少年が、ニヤリと口角を上げるのが見えた。
「しまっ……」
虚が声をあげ、触手たちが一斉に日番谷に殺到しようとした、その瞬間。日番谷はまっすぐに、人差し指で天を指し、吼えた。
「雷吼砲っ!!」
次の瞬間。全てが閃光に飲み込まれ、全てが崩れ落ちた。


***


それからほどなく、日番谷と更木、やちるの姿は、晴天の下にあった。
「ひっつんの戦い方、剣ちゃんと全く同じだったよ。剣ちゃん、先生もできるんだねぇ」
えらいえらい、と手を伸ばして頭を撫でようとするのを、日番谷は苦虫を噛み潰したような顔でかわした。
「ったく、教わらなきゃ虚も斬れねぇとは、どうやって隊長になったんだ」
「っせえ」
「ただ、上達っぷりは悪くねぇ。てめぇはやっぱり天才だ」
「……」
戻ってこない返事に更木が見下ろすと、日番谷は大股で近くの川に向って歩き去っていくところだった。
「わー、ひっつん照れてるーー!」
「っせえよ」

柄から三寸ほどのところで折れた刀を、数秒間水に浸す。
そして再び刀身を引き出したときには、傷ひとつない白銀の刃が姿を現した。
「水さえあれば治るんだ……便利だねー!」
背後から覗き込んだやちるが、感心したように声を上げる。
日番谷は、川面に映る自分の顔を見下ろすとため息をつき、泥とも血ともつかぬものに汚れた頬をぬぐった。
「見られたもんじゃねぇな」
「逆だろ。ちょっとは見られる顔になったぜ」
日番谷が、なにやら楽しそうな更木をギロリと流し見る。
「楽しかったろ?」
「全然、楽しくなんかねーよ」
日番谷は放り投げるように言う。そしてニヤリと笑い交わした。





はさり様へ捧げます。
「日番谷+剣八+やちるの話。ちょっとシリアス風」とのリクエストでした!
シリアス=戦いなのか……? と悩みつつ、
ギャグになりそうになる度に引き戻しつつ(笑)書いてみました。
「シリアス」がちょっと違ったらごめんなさい〜!
切香より愛を込めて。
※2010年2月27日、ちょっと文章直しました。

[2009年 2月 11日]