「おっはよ! シロちゃん!!」
夢の中に強引に割り込んできた声に、俺はうすぼんやりと目を開ける。
すると、顔を引きたくなるくらい近くに、見慣れた顔が見えた。顔を引こうにも、頭は枕の上だ。
「お前、近すぎ」
ぐい、と顔を手で押しのけ、起き直る。
見上げると、格子窓からは朝の光が差し込んできた。めっきりと冷え込んでいて、寒さに強い俺でさえ身を竦めたくなる。

「冬獅郎、起きたかい」
その声に首をめぐらせると、六畳間から続いている土間の小さな台所に立つ、小さなばあちゃんの後ろ姿が目に入った。
右手にお玉を持って、エプロン代わりの布を腰に巻きつけている。
しゅんしゅんと、白い湯気が鍋から上がっている。この匂い、味噌汁だろう。
「おや、薪が切れそうだよ」
「あたしが取ってくるね、おばあちゃん!」
笑顔の雛森が、土間に下りると外に出て行く。その場には、ばあちゃんと俺の二人が残された。

「本当に、うれしいねぇ。桃はともかく、お前が泊まってくれるのは、この家を出て依頼じゃないか」
「……ばあちゃん」
意を決して尋ねると、なんだい、とのんびりした声が返ってくる。
「俺、隣で寝てたけど、冷気が来なかったか?」
ばあちゃんは、返事の代わりに振り返って、俺の顔を見た。
「……気づいてたのかい」
ひとつ、頷いた。
死神になる前に俺は、自分の力をコントロールできない余り、寝ているばあちゃんを凍死させそうになったことが、何度もあったらしい。
しかもそれをばあちゃんは決して口にせず、うちにやってきた松本から事実を知らされた。

「なんだね、そんなことを怖がって、うちに泊まらなかったのかい? 死神の隊長さんともあろう人が」
「……それは、関係ねぇ。それより、どうだった?」
ばあちゃんは、俺の目を見ながらゆっくりと首を振った。
「あんたが死神になってから、一度もそんなことはないよ。あんたの隣は、いつでもあったかい」
「……そか」
「そうだよ」
笑顔で頷いたばあちゃんは、立ち上がった俺を見て呼びかける。
「あら、どこ行くんだい。朝ご飯は」
「悪ぃ。始業前に、どうしても現世に行きたいんだ。会っておきたい奴がいる」
「……友達ができたのかい? いい子かい?」
ばあちゃんは軽く首を傾げて、そう尋ねた。
「……とびきりだ」
俺が頷くと、心から嬉しそうな笑みを浮かべたのが眩しかった。



二ヶ月ぶりに見る現世の街は、霜のせいでところどころ白く光っていた。
霜柱を踏み、黒崎家に向かう。時刻は、7時半。朝日が昇ってきたところだった。
「お! 冬獅郎! お前、こっち来れるようになったのか!」
差し込む朝の光に目を奪われていた俺に、二階の窓から呼びかけてきたのは、黒崎だった。
俺が頷くと、そか、と笑顔で頷き返しながらも、すぐに眉間の皺を深める。
「……たく、アフロに聞いたけどよ。結局あの後瀞霊廷で、犯人は自分だって訴え出たんだろ? 夏梨ががっくり来てたぜ」
「まあ、現世禁止2ヶ月で済んだんだ、もういいだろ」
俺は軽く肩をすくめて、そう返す。

あのとき、知念家でどれだけ俺が犯人だと言おうが、否定されそうな雰囲気だったから黙ってたが、
瀞霊廷に着くと俺はすぐ、一番隊に直行して経緯を報告した。
総隊長が言い渡した処罰は、「2ヶ月間現世に行くな」というもの。
実際、隊長を刑に処すような余裕は瀞霊廷にはなかったのもあるが、霊障がすでに収まっていた、というのが大きい。

「……夏梨は? いねぇなら、帰るが」
「って、帰るな、待てよ! 夏梨に、お前が来たら引き止めとけって言われてんだからよ」
黒崎は慌てた声を出して、二階の窓から身を乗り出して、通りを眺めた。
「もうすぐ、帰ってくると思うんだけど。今、イヌと散歩に行ってるから」
「犬?」
「お、帰ってきた! 夏梨、冬獅郎が来てるぞ!」
「ほんとか!」
相変わらずのイキのいい声と一緒に、たたた、と足音が聞こえた。
角を曲がって現れた夏梨がつれていた犬に、俺の視線は吸い寄せられる。
信じられないくらい成長しているが、これは……

「あのときの、生き残りの白い犬か?」
「ああ。あの後、もらってきたんだ」
夏梨は、綱でつないで散歩していた、犬を誇らしげに俺に見せる。
耳はぴんと立ち、尻尾はふさふさと揺れている。夏梨の腰に届くくらい、すでに体格は大きかった。
なーイヌ、と呼びかけるのを見て、違和感をおぼえる。
「イヌって……それ名前なのか? もしかして」
「そうそう、あんたに名前つけてもらおうと思ったのに。あんたが全然来ないから、『イヌ』が定着しちゃったじゃん」
俺のせいとでも言わんばかりの言い方だが、そんなの俺が知ったこっちゃない。
言い返そうとした時、夏梨が綱を持った手をいきなり離した。イヌはまっすぐに俺に全力疾走し、遠慮もなにもなく体当たりしてきた。
一歩よろめいた頬を、べろべろと舐められる。

「おい、見てねぇで引き離すの手伝えよ!」
「名前つけたら、手伝ってやる」
けっこうこいつは意地が悪い。黒崎が何がおかしいのか、見下ろしてゲラゲラ笑っている。
俺はとっさに、頭に閃いた名前を口にした。
「シロ! シロでいいだろ」
「単っ純……でもまぁいいや。シロ!」
夏梨がその名で呼びかけるのを見て若干後悔したが、イヌが待ってましたとばかりに高く吼えたから、訂正の機会を失ってしまった。
シロを俺から引き離した夏梨は、明るい笑顔を浮かべて、東のほうを指差した。
「ちょっと時間ある? 来てもらいたいところがあるんだ」


イヌ改め、シロに綱を引かれるようにして、夏梨が坂道をあがってゆく。そのちょっと後ろに、俺はついて歩いていた。
一体どこへ行くつもりなのか、この先には小高い丘しかない。
「……あんたさぁ。自分がやりましたって言ったってほんとなの?」
「ああ」
俺がうなずくと、夏梨ははぁぁ、とため息をついた。

「例えばさ。テストで間違ってるのに、丸がついてたとすんじゃん。その時は、先生に言わないほうがいいってあたしは思うんだよな。
だって持っていったら、先生は点数つけなおさなきゃいけねぇし、親父は残念がるし、あたしも点が下がる。みんな損するんだぞ。敢えてやらなくていいじゃん」
「正論だな」
俺は思わず苦笑する。ガキのくせに、一歩はなれて全体を見渡す癖があるらしい、こいつらしいと思った。

どうやら夏梨の中で、俺がやったことは、間違って丸がついてる答案を、間違ってますと申し出るようなものらしい。……まあ、その通りだ。
俺が軽いとは言え処分を食らったことで、松本や雛森がどれほど心配したか思い出していた。
名乗り出ないほうが、全てが丸く収まっていたに違いない。
「……分かっちゃいるが、俺はそういう性分なんだよ」
「完璧主義なんだなー。ま、あんたらしいよ」
別に怒っている風でもなくあっけらかんと言うと、丘の上の公園に足を踏み入れた。


「……なぁ、夏梨」
呼びかけると、んー? と夏梨は呑気に返してくる。まだ無人の公園をまっすぐ突っ切っているが、どこを目指しているのか分からない。
視線を移すと、眩しいばかりの朝日に照らされた、空座町の町並みが見下ろせた。
「なんであの時、俺がやったって言わなかった。死神になれる機会だったのに」
「あんたを売って死神になったって、何にもなんないよ」
「でも、きっと一度しかない機会だった」
「……そうだね」
夏梨は惜しそうでもなくそう言うと、公園から外れ、雑木林が眼下に続いている場所で立ち止まった。俺も隣に並ぶ。
そこには、大きな石がいくつも積み重ねてあって、花束が備えてある。
シロが近づいて行って、フンフンと花の匂いを嗅いだ。墓だ、と俺にもすぐに分かった。
「……これ、あの五匹の犬の墓か?」
「ああ。元々親がここに埋めてたみたいだ。家族三人で、毎月花を供えに来てるんだって」

倒れた花束を直しながら、夏梨は言った。
「……あたしは、あんたが遠くなってくみたいで、ずっと焦ってたんだ。死神になれば追いつけるんじゃないかと思った。
でも、あんただって人並みに悩んだり、辛い思いしたり、自分を無力だと思うこともあるんだなぁって思って、あたしは正直、ほっとしたんだ」
「死神になって俺に追いつこうなんて、百年早ぇよ」
「……京楽さんにも言われた」
ムスッとして、夏梨が返してくる。京楽の奴、一体何を言ったんだか。余計なことだってことだけは、間違いない。

ただし、と俺は続けた。
「俺にできなくて、お前にはできることだっていっぱいある」
どれほど努力しても止められなかったあの霊障をあっさりと止めたのは、俺の力ではなく夏梨の言葉だった。
「……お前には、感謝してる。お前以外の何かになる必要なんて、ねぇよ」
夏梨は何も言わず、軽く微笑んだ。

墓の前にしゃがみこみ、二人で同時に手を合わせる。
冷たいけど、穏かな風が頬を吹き抜ける。
眼下に広がる空座町の町は、しっとりと朝の雫を含むように、みずみずしく明るく見えた。
自分の手で殺した犬を、こんな見晴らしのいい場所に埋めた二人の人間のことを考えていた。
憎くて、殺したわけではない。二人なりの事情があったのかもしれないと、今は思えた。

「……あたしも、あと七十年くらいしたら、死ぬよね」
不意に夏梨が放った言葉に、俺はぎょっとした。
夏梨の黒い瞳は、まっすぐに墓を見ている。特に重苦しい言い方ではなかった。
「あと十年経てば大人だし、二十年したら親かもしれないし、五十年経ったらおばあちゃんだし。
あんたはきっと、変わらないだろうね」
「……死神の成長は、百年単位だからな」
いつか、後悔する時が来るのだろうか。
こいつに出会わないほうが良かったと思うときが?

「……俺が探す」
腰を上げて、俺は夏梨を見下ろした。何を言ってるのか分からない、という顔をこいつはしている。
「お前の姿が変わっても、俺が見つけてやるよ」
驚いた顔が、すぐにくしゃっと崩れる。慌てて腕で顔をぬぐって、夏梨は立ち上がった。
「約束だな」
「ああ、約束だ」
こいつは、俺にとってもうとっくに、ただの「一魂」じゃないから。
大きく頷いて笑った夏梨を見て、俺は心からそう思えた。


「やっべ、遅刻する!」
慌てて駆け出した夏梨の後を追って、丘を駆け下りる。
ふと、朝日に照らされた町並みを見下ろした。
小さなひとつひとつの窓の中に、ささやかな人々の営みがある。
以前は、それを想像するたびに、どこかやりきれない気持になっていた。
自分だけが、窓の外に締め出されてしまったように思っていた。
今なら、そんな昔の弱かった自分も、受け入れてやれるような気がした。

「おおい! 冬獅郎、早く来いよ!」
叫び返しながら、思う。今は心から、祈ることができる。
全ての窓に、光よ届け。


名探偵の采配   完