額に、ヒンヤリとした感触を感じる。
風が吹き抜け、サワサワと木の葉が揺れる音が耳に届く。
土のにおい、通りから聞こえる子供たちの歓声。
自分が、潤林安にいることは、うつらうつらしていても、この空気で分かった。
隣で、かすかに寝息が聞こえる。まだ子供のものだ。
―― 澪か。
俺の看病をしてるうちに、眠ってしまったんだろう。
ただでさえ風邪っ引きの傍にいるんだ、寝ちまうとミイラ取りがミイラになるぞ。
声をかけようとしたが、意識がまた、水面下に沈んでいく。
春眠暁を覚えず、というが。この心地よさに抗えない。
ふと、一週間前の映像が頭を横切っていった。


―― 「おい、澪。いつまで写真撮ってんだよ?」
氷輪丸の霊圧で凍りついた氷原の写真を、あちこち撮っている澪に、俺は声をかけた。
その熱心ぶりに、俺はまた地面に仰向けに寝転がり、澪の動きを目で追っていた。
地面の氷は冷たいはずだが、火照った背中に心地いい。

澪の写真好きは、今に始まったことじゃない。
実家に遊びに来た松本に、ねだって借りてからというもの、写真熱が一気に高まっている。
たまに、びっくりするほど感性のいいものを撮っていたりするから、実は楽しみにしていた。
「んー。もうちょっとだけ!」
ニッコリ笑ってそう言われると、時間がない俺としても折れざるを得ない。
澪は、カメラのファインダーを覗きこんだまま、おぼつかない足取りでこちらに歩いてきた。
「おい澪、転ぶぞ」
「だいじょうぶー!」
肩に足が触れそうになるまで近寄ってきた澪は、パシャ! と俺の眼前で写真を撮り・・・
「えっ?」
同時に声をあげて、パッとカメラを除け、直に俺の顔を覗き込んだ。

「どうしたの? 泣いてるよ? 顔真っ赤だし」
「えっ?」
俺はとっさに、顔に手をやった。
「ねぇシロにーちゃん! 絶対熱あるよ! お医者さん行こ?」
確かに、全身が火照ってる。吐く息からして、いつもより熱い。
瞼が熱いから、若干涙目になってるかもしれない。

原因は、腐るほど思い当たった。
反乱により、隊長が3人も抜けたことによる、純粋な業務量の増加。
加えて、いつか攻め込んでくる藍染たちの対策。
俺自身の卍解の修行に、部下への直稽古。
一日何時間働いてるのか、自分でももう分からない。
前に飯を食ったのは1日前、寝たのは2日前・・・という具合だった。

「だいじょうぶだ」
俺は、額に手をやろうとする澪の手を押し返し、上半身を起こした。
大丈夫じゃないのは分かってるが、だからってこんな大事なときに寝込むわけにはいかない。
だが澪は、心配そうな目でこちらを覗き込んだままだ。
「修行の後は、いつもこうなるんだよ。すぐに元に戻る」
しょうがなく、嘘をついた。
疑うことをしらない澪は、不安そうではあるが、一応納得したらしく一度うなずいた。


―― あー、そうか・・・
写真撮られたことなんて、すっかり忘れていたが。
アレ、だったのか。
キスの一秒前、なんて大層な名前つけやがって。
ただの風邪っ引きの写真じゃねえか。
しかしアレが、一体どうやって松本の手に渡ったのか、それだけが分からねぇ。
考えがまとまらねぇ・・・モヤモヤ、とその場の画像が乱れてゆく。
また、取り留めのない夢に飲み込まれそうになったとき・・・
突然、目の前ににゅっと松本の頭が現れた。カメラを構え、満面の笑みを浮かべている。
「隊長の寝込み写真、ゲットぉ!!」


***


「隊長! 日番谷隊長!!」
覚えのある声が、何度も何度も名前を呼んでいた。
「ハッ?」
それが夢じゃない、と自覚した直後、日番谷は目を開けた。
見慣れた栗色の髪が、目の前で揺れる。城崎尊の大きな目が、心配そうに見下ろしていた。
「うなされてましたよ。だいじょう・・」
「松本はっ?」
「へ? おられませんよ?」
「何だ、今寝込み写真がどうとかって声が聞こえたような・・・」
それは幻聴です。
夢の中でも乱菊に苛まれているとは・・・尊はつくづく日番谷を気の毒に思った。
「隊長、だいじょうぶです。松本副隊長はここに来たがってましたが、絶対!! 来ないでくださいって百回くらい言っときましたから!」
「アイツは害虫か・・・」
そうつぶやく日番谷だが、決して連れてきてくれとは言わないのだった。


「まだ、熱も完全には下がってません。ゆっくりしててください」
氷水を入れた洗面器に浸したタオルをぎゅっと絞ると、日番谷の額に乗せていたタオルと交換する。
「・・・悪ぃな。面倒かけさせちまったみたいで」
どれくらい前から日番谷を看病していたのだろう。
尊の手のひらは、両方真っ赤に染まっていた。
それを聞いた尊は、ぱぁっと顔を輝かせて上半身を起こす。
「い! いえ!! 隊長のお役に立てるなら・・・」
そこまで言って、その上半身がコテン、と急に畳に倒れた。
「オイ! 城崎?」
「あ、足痺れた・・・」
せっかく、ちょっといいことを言うつもりだったのに。

「・・・ふっ」
涙目で足を押さえていた尊は、その声に顔を上げる。
―― わ・・・笑ってる?
我慢できなくなった、みたいに。
いつもの眉間の皴もどこへやら、日番谷はぷっと吹き出した。
寝巻き姿で、すんなりした銀色の髪を下ろした日番谷は、いつもの死覇装に隊首羽織姿と同一人物とは、間違っても思えない。
尊はその瞬間、豚が空を飛んだのを目撃したような顔をしたのだろう。
「・・・何だ?」
怪訝そうな顔をして日番谷に、ぶんぶんと顔を振った。
役得・・・! と心中ぐっと拳を握っていましたなんて言えない。


「・・・澪」
布団の隅に頭を載っけて、すうすう眠り込んでいる澪に気づいた日番谷が、肘を立てて腹ばいに起き上がる。
背中にかけられていた上着を直してやる姿は、どこから見ても兄と妹に見えた。
「ずっと、目が覚めるまで起きてるってがんばったんですよ?」
「・・・そうか」
知らなかった、と思う。
これほど、日番谷に柔らかな声が出せるなんて。
しかし。
「何だこりゃ!!」
突然声を荒げた日番谷が、布団をがばっとめくった。

「あ、それは・・・」
布団の端から覗いていたのは、4月の瀞霊廷通信。つい2日前に発売されたものだ。
キャッチコピーが一部分見えたが、見えていた文字が悪かった。
―― 大興奮袋とじ♪
バッ、とそれを布団の端から引き出すと、日番谷はあわててページを繰った。
そして、封がすでに切られた「袋とじ」の中身を引き出した直後・・・
脱力した。
「なんだ、こりゃ・・・」
そこにあったのは。
白い髭が艶々しい、山本総隊長の姿だった。
更に言うと、上半身裸の。キメキメの格好の。
古傷だらけの、年齢が信じられないほどの鍛え上げられた肉体は、確かに驚嘆ものだが。
この企画でそういうモノは、期待されてないように思う。

「ワシが日番谷隊長の代わりに出る! て総隊長が言うもんだから、誰も止められなくて」
「俺の代わり・・・」
日番谷は、別の意味で冷や汗をかいた。
「総隊長も知ってるのか?」
「とーぜんですよ。騒いでた印刷所、一番隊の隣だし」
「で・・・総隊長は何か言ってたか?」
恐れていたことが・・・日番谷は心中がっくりと肩を落とす。
しかし、尊が返してきた言葉は、日番谷にとっては全く意外なものだった。

「不問、だそうですよ。隊長が倒れた後、勤務状況が調べられたそうです。隊長、ここ最近一日20時間以上働いてたって本当ですか?」
「20時間?」
枕に頭を戻し、日番谷は鸚鵡返しに聞き返した。
しばらく考え込み・・・ぽつりと言った。
「そうかもしれない」
はぁ、と尊がため息をつく。
おそらく、他の皆のために、寝食も忘れて働き続けていたのだろう、この勤勉すぎる隊長は。

「総隊長からの指示が出てます。『2週間は安静にすること』だそうです」
「気遣いはありがたいがな・・・隊舎に戻る」
日番谷はため息をつき、上半身を起こした。
ふらり、と体を揺らしながらも、起き上がろうとする。
「ダメです、ダメダメ!」
慌てて尊がその肩を抑えようとするが、病んでも隊長、とてもじゃないが止められない。
「ダメですよ、働こうなんて考えたら! 副隊長が何とか・・・」
そこまで考えて、尊は視線をあさっての方向にそらした。
何とか・・・しているとは、思えなかった。

「だ、大丈夫ですよ。いくらなんでも、隊首室の戸を開けたら、中に詰まってた書類があふれ出てる、なんてことは・・・」
「ないのか?」
「えーと、えーと・・・」
日番谷と尊が頭をかかえた時。
「おぬし、切れ者だと聞いていたが・・・女に関しては、まだまだじゃの」
低めだが、すぐに女だと分かる艶っぽい声が聞こえた。

「何者!」
バッ、と体を起こした尊を、日番谷は制する。
「四楓院夜一か・・・」
「え?」
尊は、声がした縁側のほうを見やった。
死神として経験が浅い尊でも、四楓院家の当主、夜一の名前くらいは知っている。
いつの間に現れたのか、ごろりと縁側に横になっている姿は、まるで猫のように気ままで自由だ。
部屋から縁側を見た二人を見返すと、ニィ、と頬に笑みを浮かべた。

「そんな無粋を言っている間はな」
「あ?何を・・」
「そういえば、その瀞霊廷通信。お主の『華麗なる結晶』は、割とワシも好きなんだかな。今週は休載らしいな、残念じゃ」
その声に、たぶんに悪戯っぽい響き・・・悪く言えばSっ気がこもっている。
―― ん?
一抹の嫌な予感にとらわれ、日番谷はぺらぺらと瀞霊廷通信をめくる。

「日番谷冬獅郎の『華麗なる結晶』休載のお知らせ」
そのページの真ん中には、流魂街のどことも知れない通りに立つ日番谷の後姿があった。
刀を背負ったその姿は、隊長の風格を漂わせた中々の一枚だ。
しかし。
その上に書かれたキャッチが問題だった。
『女のいない処へ』
「そのページ、受けがいいらしくてな。瀞霊廷では子供から大人まで『女のいない処へ』のキャッチフレーズが大流行じゃ。今出廷すればトキの人じゃぞ」
「ちょっと、黙っててくれ」
日番谷が頭を抱えた。本気で頭が痛い。

「安心するがよい。十番隊隊長の代理は、砕蜂がこなしておる。さっき見てきたが、特に問題はないようじゃ」
「ちょっと待て。砕蜂、て言ったか?」
おおよそ、進んで自分をフォローしてくれるとは思えない名だ。
こないだも、「茶番だ」とか言って、やたらと怒っていたようだったが・・・
―― 茶番?
「気づいたかの」
夜一は、上半身を起こすと、日番谷に向き直った。

「おかしいよのぉ。なんで砕蜂がそんなに手際よくお主のフォローをするのか。そして、総隊長がお主の勤怠状況をすぐに把握できたのも変じゃろ。
・・・誰かが事前に手をまわしでもしない限りはな」
・・・さっぱりわかんない。
尊は、つかの間鋭い目を向けた夜一の顔を見て、そして日番谷に視線を戻した。
日番谷の横顔は、まだ熱で上気しているが、それでも考えている。
迷っているというより、答えを見つけたが信じられない。そんな表情だ。

「・・・松本か?」
ちょっと眉間に皴を寄せ、夜一を見つめ返す日番谷の表情は、尊には見慣れないものだった。
「え・・・あの、いつもぐうたら寝てて、お菓子と酒ばっかり好きで働かなくて、今回の騒動の元凶を作ったあの副隊長が?」
「・・・よどみないのう」
立石に水、のようにスラスラと文句を並べ立てた尊を、夜一があきれたように見返した。

「まぁ、乱菊も困ったじゃろうな」
夜一の目に、悪戯っぽい光が戻っている。
「お主は、体調の悪さを指摘されたところで、素直に聞くタマじゃない。
そんな時に、そこの澪が持ち込んだ写真はちょうど良かったということじゃろう」
「じゃ、副隊長は、その写真見て・・・」
「キスの一秒前なんて、茶目っ気出しおって。澪は言ったらしいぞ。シロにーちゃんを助けて、と」

日番谷は、無邪気な顔をして眠り続ける、澪を凝視した。
乱菊からも、澪からも、完全に隠し通したと思っていたが。
この2人の女のほうが、自分よりも上手だったか。

おそらく、しんみりした空気は、夜一の性には合わないのだろう。
パンパン、と手をたたき、縁側から立ち上がると日番谷を見下ろした。
「ま、乱菊のことじゃ。単に騒ぎたかっただけかもしれんし、酒代を稼ぎたかったのかもしれんな。
しかしお主も、結果として休めたのだからいいではないか! 総隊長の指示がなければ、二週間も休むお主じゃなかろう」
言うべきことは言った、というせいせいした顔で、夜一は2人に背中を向けた。
去り際に、ふと思い出したように日番谷を振り返る。
「次こそは、ホンモノのいかがわしい写真で話題をさらうような男になれよ」
真顔で言うのが、夜一の人が悪いところだ。
「うるせえ・・・」
案の定、日番谷は苦虫を噛み潰したような声で返事をした。
フッと表情を緩めた夜一の姿が、消える。

「・・・城崎」
ぽつり、と日番谷がつぶやいた声に、尊は顔を上げた。
「松本を呼んでくれ」
いつもだったら、他の女を呼ばれたら、ヤダって思うんだけど。
今回ばっかりは、いいか。
「はいっ!」
尊は、満面の笑みでうなずくと、勢いよく立ち上がった。



それから、潤林安の日番谷邸は、しばらくの間、暖かな静寂に包まれていた。
突然怒鳴り声が、響き渡るまでは。
「寝込み画像ゲットーー!!」
「松本、てめえぇぇ!!」




日番谷隊長の女難2 完