午後六時を知らせるメロディーが、雨の町に鳴り渡った。
傘の柄を握り締めて、あたしは薄暗い通りを小走りに走っていた。
―― まずったな……
せめて、遊子に電話で連絡を入れときゃよかった。
今頃晩御飯を準備して、戻ってこないあたしを心配してるかもしれない。
メシまで作っておいてもらって、黙って遅れるなんて、と自己嫌悪に駆られる。
帰ったら片付けと、洗濯物畳みはあたしがやろう。そう、思ったときだった。
不思議な風景を見つけて、思わず立ちどまった。
「なんだ? あれ?」
一兄が通ってる空座高校が、灰色にそびえ立つのを見上げた。
―― 雪……なんで?
何が不思議って、他の場所は雨なのに、本当に限られたその場所だけ、雪が降ってるんだ。
雨の中をちらり、ちらりと粉雪が降るのは、キレイっていうより……やっぱり奇妙な風景だった。
ちょっとだけ、様子見るだけだ。
あたしは理由をつけると、空座高校のほうへと向きを変えた。
走っていてすぐ気づいたけど、雪が降っているのは高校じゃなく、その後ろの森だった。
―― こっちか!
雪につられるように、あたしはどんどん雨にけぶる森に足を踏み入れる。
暗くなる景色が、全く怖くないといったらそれは嘘だったけど。
正直、それどころじゃなかったんだ。
降り積もっていく雪。下がってゆく気温。
傘の柄を掴んだ手がかじかんで、震える。
感じていたのは、忘れようがない「あの」気配だった。
「冬獅郎っ! いるのか!!」
大声で叫んで耳を澄ましたけど、聞こえるのは遠くで鳥が飛び立つ羽音だけ。
その気配は、前に出会った時の、肌にビリビリくるような勢いとは真逆に、ちいさくて弱い。
そして……動かない。まさか、動けないのか? あたしは自然と早足になった。
あまりに寒くて、歯がガタガタ音を立てる。
静まり返った森の中で、茂みを掻き分けたとき。
あたしは暗い中、何かに躓いて転びそうになった。
「何だよ……あぁっ!」
振り返った途端、あたしは大声を上げた。
暗い中でも、銀色の髪ははっきりと分かる。
黒い着物と白い羽織も、あの時と全く同じだ。
ただ冬獅郎は、うつぶせに倒れたまま、ピクリとも動かなかった。
「……と、冬獅郎?」
四つんばいになって、冬獅郎の顔を覗き込む。
目を固くつぶったまま、あたしの声にも全く動かない。
―― ヤバイ……
あたしは慌てて冬獅郎の肩を掴み、膝の上で仰向ける。
うっ、と顔を背けたくなるくらいの血の匂いに、むせそうになった。
着物の腹のあたりが、10センチ以上も真っ赤に染まってる。
口元に持っていったあたしの手は、かすかに震えてた。
―― しっかりしろ。いつもやってるだろ、病院で!
急患は見慣れてる。交通事故にあって血まみれの奴とかも何人も見てきた。
あたしは自分を励ました、息はしてる。
救急車! と一瞬思って、その考えをすぐに打ち消した。
こいつ、確かこの格好の時は、普通の奴には見えないんだったよな……
仮に見えたとしても、「死神」のこいつを病院に運び込むことはしたらいけない気がした。
とりあえず、家に連れて帰って一兄に相談するしかない。
家は病院だし、冬獅郎と一兄は知り合いみたいだから、何とかなりそうだ。
「しょうがねえな!」
あたしはコートを脱ぎ、その下に着てたトレーナーも脱いだ。寒い。死ぬほど寒い。
それを我慢して、その下に着ていた薄めのTシャツを脱いでから、またトレーナーを着なおした。
そして、Tシャツを引き裂いて、血が止まらない腹にぐるぐる巻きつける。コートはその背中に羽織らせた。
そして、あたしよりもちょっとだけ小さいその体を背負って、何とか立ち上がった。
「重っ……」
体重よりも、刀が重い。でもコレを置いてく訳にはいかない。
あたしは何とか体勢を整えると、家に向かって歩き出した。
***
「はっ……」
あたしはあと1キロでクロサキ医院、というところで、塀に体をもたせ掛けて休憩した。
ダメだ。足がガクガクする。
重いんだよお前!
肩に乗った白い顔に文句をつけようとしたけど、傷が痛むのか、苦しそうにゆがんだその表情をみたら、何も言えない。
あたしはできるだけ動かさないように、その体を背負いなおした。
サッカー、あんなにイヤそうだったのに結局助っ人引き受けてくれたのは、あたしの膝の傷を見たからだろ。
その後バケモノに襲われた時も、あたしを庇って戦ってくれたもんな。
ここであたしが助けられなくて……どうすんだよ!
その時だった。
「冬獅郎!」
静まり返った通りに突然響いた声に、あたしはビクッと肩を震わせた。
この声……
「一兄!」
「夏梨?」
返して来たのは、間違いない一兄の声。でも、ひどく驚いてるみたいに聞こえた。
あたしは冬獅郎の体をそっと地面に下ろして、コートをその背中にかけた。
たたた、と足音がして、見慣れたオレンジ色の頭を見たとき、あたしはほっ、と全身の力が抜けた。
「おい! 夏梨! と……やっぱり冬獅郎か? なんでお前ら……」
一兄はあたしの肩に手をかけて、あたしが雨と泥と血で汚れてるのをみて、眉間のシワを深くした。
そして、塀にもたれかかって気を失ったままの冬獅郎を見て、ハッと息を飲み込む。
「前に、サッカーの試合の助っ人をやってもらったことがあるんだ。
それに、その後あたしがバケモノに襲われた時、護ってくれたんだ」
「……お前、そんなこと全然言わなかったろ。冬獅郎もだけど……」
一兄は、すばやく冬獅郎の傷を確かめながら言った。
「……ごめん」
あたしは顔を一兄から逸らした。
一兄だって色々大変なのは知ってる。
そんな時にあたしが襲われた、なんて言ったら、一兄のことだからものすごく心配すると分かってた。
まぁ、助かったんだしいいか、くらいに思ってた。
「……バカヤロー」
一兄はあたしの顔を見てそれだけ言うと、冬獅郎に視線を戻した。
「夏梨を護ってくれた奴を、追ってる奴に引き渡すなんて……できるわけねえよ」
あたしのコートを取るとあたしに返して、自分のコートを冬獅郎の上にかける。
そして、肩と膝の後ろに手をやって、びっくりするくらい簡単にひょい、と持ち上げた。
「夏梨。あとちょっとだけ走れるか」
「もちろん!」
そしてあたしは、一兄の背中を見ながら走り出した。
***
規則正しい、寝息が聞こえる。
あたしは、一兄の椅子に三角座りしたまま、冬獅郎の寝顔を見下ろしてた。
照明を落とした部屋の中は薄暗くて、外の街灯の明かりが、かすかに部屋に差し込んでた。
「一体どうしちゃったんだよ、お前……」
ぽつり、と呟くけど、もちろん返事は返ってこない。
クロサキ医院から包帯だの薬だのを持ち出して手当てして、一兄のベッドに寝かせたのが、夜7時前。
それから10時くらいには一度起きたらしかった。
一兄が怒ったみたいな声で何かを話すのが聞こえたから。
すぐに一兄は出てきて、
「傷が痛むんだってよ。明日井上呼ぶから、それまでそっとしといてやれ」
って言った。
一兄は、リビングのソファーでもう寝てしまってるだろう。
黒い着物の袖からは、真っ白い包帯がのぞいてる。
―― 誰がやったんだ……
あたしは唇を噛んだ。
あたしが知ってる冬獅郎は、おそろしく冷静で、おそろしく強かった。
これぞ本物の「死神」だって思うくらいに。
そんなやつを、ここまで痛めつけた奴は誰だ。
そのとき、寝息が少し乱れ、あたしは冬獅郎の顔を凝視する。
びっくりするくらい白いその顔が、ちょっとだけ、赤くなってる。
額に手をやってみると、その白さからは想像つかないくらい、温度が高かった。
あたしは、用意してあった水の入った洗面器にタオルを浸して、絞る。
できるだけそっと額にタオルを乗せようとしたら、ふっ、と目が開いた。
その青い目が、ゆっくりとあたしに合わせられ、止まる。どきりとした。
あたしはタオルを持ったまま中途半端なところで固まった。
「お前……」
「お前じゃなくて夏梨だ」
全然怒ってないはずなのに、なんでか怒ってるみたいな声が出た。
「誰がやったんだ、その傷! あたしがぶん殴ってやる」
冬獅郎はあたしの剣幕にびっくりしたのか、ちょっとだけ目を見開いた。
そして口の端を曲げようとして……腹が痛いのか、すぐしかめっ面に戻った。
ちょっと待て。
「お前、今笑おうとしただろ! 人が真剣に……」
そこまで言いかけて、言葉をぶつっと切った。
いいながら分かったんだ。こいつ、あたしとおんなじだ。
こういう時、何があったか聞かれたところで、絶対に何も言わないやつだ。
あたしは、額にかかった銀色の髪を指で避けて、その額にタオルを置いた。
ひんやりとして気持ちいいのか、それとも文句をいう気力もないのか、冬獅郎は黙って目を閉じてる。
「黙って、ひとりで、何かやろうとしてるんだろ」
ここからもすぐ、いなくなるつもりなんだろ。
また寝たのか、あいつはピクリともしない。人が心配してんのに。
戦うやつには、誰かを傷つけるために戦うやつと、護るために戦うやつがいるような気がする。
お前があたしにしてくれたことは、間違いなく護るほうだ。
今度は、一体誰を護ろうとしてんだ……?
「……冬獅郎」
あたしは目に力を入れて、冬獅郎を見下ろした。
「お前に助けたいやつがいるみたいに。お前を助けたいやつだっていっぱいいるんだ。忘れんなよ」
絶対に、明日織姫ちゃんが来るまで、見張ってようと思ってたのに。
気がついたら、ベッドの縁に頭を乗せて、あたしは寝てしまってたみたいだった。
夜中に一度だけ、ベッドがかすかにきしんで、少しだけ目が覚めた。
ふわり、と温かい何かが背中にかけられて、あたしはまたとろとろと眠たくなる。
「ありがとう」
ヒュウッ、と一瞬、冷たい風が吹き込んだ。次に、ピシリ、と閉まる窓の音。
なんだ、夢、か……
夢見ごこちで思ったあたしは、うつらうつらして……急にがばっ、と起き上がった。
しまった!
ベッドにはもう冬獅郎の姿はなかった。
冬獅郎の寝ていた場所を手で触ってみたけど、もう冷たくなっていた。
起き上がったあたしの肩から、冬獅郎がかけてた毛布が滑り落ちる。
慌てて立ち上がり、窓を開けて通りを見下ろしたけど、どこにも姿はなかった。
あの気配も、どこにも感じない……
「バカヤロー……」
あの怪我で、一体何ができるっていうんだよ。
あたしは冷たくなった窓枠を叩いた。
まだ、青白い月が出ていて、あたしはそれをにらみつけた。