夕刻。岩邸の門を出たところにある、ただっ広い原野で、実弥と玄弥の二人が対峙していた。
二人とも木刀を手にしている。玄弥にとって、兄と手合わせをするのは初めてのことだった。
もともと、悲鳴嶼が新しく入手した武器の使い勝手を確認するために実弥と手合わせをする予定だったが、
準備に時間がかかると言って悲鳴嶼が自室に引っ込んでしまったため、急遽実現したものだった。

「オイオイ、寝てんのか。どうせ俺には勝てねぇから考えても時間の無駄だ。かかってこい」
実弥が、両手で握っていた木刀の片手を離して、ひらひらと手を振った。悔しいがその通りだ。
無限城での戦いの中で、兄と自分の間に天と地ほどの力の差があることは思い知らされている。
今も、リラックスしているようでいて、いざかかっていこうとすると、どこから行っても隙がない。
―― まぁ、殺されることはねぇのか……ねぇのか?
自信がなかった。炭治郎の言によると、柱稽古の際に幾多の隊員を一度に相手にしながら息一つ切らせなかったらしい。
血反吐を吐いて地面に伸びた隊員は数知れず(というかほぼ全員)、しかし死者はいなかったそうだから、かろうじて力加減はできる……と信じたい。
なんにしろ、このまま突っ立っていたら、しびれを切らした実弥のほうから打ちかかってくるのは目に見えていた。

まるでそのやり取りを聞いていたかのように、岩邸の中から大声がした。
「玄弥! とにかく兄を掴め! 掴んだら離すな! 力はお前が上だ」
かなり距離があるのに、よく通る声だった。
「本物の鬼ごっこだな」
実弥が人の悪い笑みを浮かべた。鬼だ鬼だと悩んでいる人間に対して鬼呼ばわりはないと思う。
「こンの……!」
これがきっかけになり、玄弥は力いっぱい実弥に打ちかかった。実弥は当然のように避けない。
木刀と木刀が激しくぶつかり合う音が、山々に響き渡った。
刀の勝負では絶対に兄には勝てない。いかに早く肉弾戦に持ち込むかが肝だ。そう思った玄弥はすぐに木刀から手を離し、兄の肩に掴みかかった。
しかし実弥に身軽にかわされ、その手は空を切る。あっ、と思った次の瞬間、実弥が放った横薙ぎの一撃が玄弥の脇腹を直撃し、吹っ飛ばされた。
真剣なら間違いなく真っ二つにされていただろう。焼け付くような痛みが脇腹に残ったが、体勢を立て直し機敏に起き直った。

悲鳴嶼に指摘されたとおり、純粋な力と、鬼化の力を借りた異常な回復力だけは、兄に勝っている自信があった。
鬼喰いをする前の玄弥なら、もう今の時点で動けなかったはずだ。しかし、わずが数秒で脇腹の痛みは消えていた。
どうせ攻撃を避けられないなら、自分の回復力を頼りに、前に前に出るしかない。
―― 怖がってんじゃねぇぞ!
自分で自分を励ました。今までどれほど自分の才能のなさに打ちのめされても人一倍努力をしてきたのは何のためだ。
鬼を喰らっても後悔しないほどに、存在を認めて欲しいと願い続けた兄がここにいる。認めてもらうチャンスがめぐって来たのだ。玄弥は実弥をまっすぐに見据えた。

雄たけびを上げ、実弥にむかってがむしゃらに突っ込んだ。意外なことに、実弥も木刀を投げ捨て、肉弾戦に応じてきた。
正面から向き合うと、二人の体格はほとんど変わらない。左肩を掴むと、身体を鞭のようにしならせて思い切り右頬を拳で殴られた。
一瞬頭が真っ白になる。その一撃は首が飛ぶのではと思うほどだったが、玄弥は実弥の左肩を離さなかった。
―― 「掴んだら離すな!」
悲鳴嶼の声が脳裏に響く。
「痛く……ねぇ!」
思い切り肩を押す。踏みとどまろうとした実弥がわずかに目を見開いた。確かに、力では玄弥が上。
さすがに顔面を殴り返す気にはならず、腹を狙う。全力で押し返してくるだろうと思ったが、実弥は流れに逆らうのを止め、ふわりと背後に倒れこんだように見えた。
押さえた、と思った瞬間、思い切り身体が上空に跳ね上げられた。どうなったのか分からない間に、地面に背中を叩きつけられていた。

「本当に馬鹿力だな」
仰向けになった視界の向こうで、実弥が顔をしかめて左肩をまわしている。ごきり、と嫌な音が鳴った。
「なんで?」
玄弥は全力で押していて、実弥は力を抜いていたようだったのに、気づけば自分が宙を舞っていた。
「力が強いから逆に利用されんだよ。今お前が吹っ飛んだのは、力の方向を変えてやっただけだ。俺はほとんど力は入れてねぇ」
「……兄貴って肉弾戦も得意なの?」
「今回は剣術で、次は肉弾戦で戦おうとか、いちいち考えるかァ? 勝てれば何だってアリだろ」
どうして自分は兄に適わないのか、その一言で分かってしまった気がした。呆れた時、悲鳴嶼の笑い声が聞こえた。
「やっぱり駄目だったか。準備運動にはなったか? 不死川」
門をくぐって悲鳴嶼が現れたところだった。肩に担いだその武器に、二人の視線は吸い寄せられた。

悲鳴嶼が武装している姿を目にするのは、玄弥でさえ無惨戦以降初めてだった。
その武器は一見すると、無惨に破壊された以前のものと変わりない。
巨大な鉄球と斧が、太い鎖で結びつけられている。その大きさや鎖の長さも前のものと変わらない。
ただ、失った左手の代わりに、鉄製の鉤を手首に直接取り付けていた。
「その鍵が、手の役割をするってことか?」
実弥は興味深そうにその武器を凝視している。
「あぁ。以前の武器を創った刀鍛冶が、試行錯誤を繰り返してくれた」
「もう、刀鍛冶の仕事の範疇を超えてるだろ……」
「変わった武器の製作に心骨注いでいる者だ。なんなら、紹介してやってもいいぞ」
「本当か?」
その表情、まるで子供だ、と実弥を横目で見ていた玄弥は思った。
何でもかんでもその場の発想で武器にしてしまうタイプだから、独創的な武器がもともと好きなのだろう。



「……では、手合わせを頼む」
悲鳴嶼が鉤に鎖を通し、残った右手で鉄球を廻しはじめた。その轟音は不気味に周囲に鳴り響き、以前と変わらない圧迫感を覚えた。
「お願いします」
実弥が真剣を抜いた。今回は挑まれる側なのに敬語を使う辺りに、悲鳴嶼に対する変わらぬ尊敬が見て取れた。
見守っていた玄弥はごくりと固唾を飲み、
「おい、離れてろ」
実弥に注意された。その声は、さきほどまではなかった緊張に張り詰めている。

先手を打ったのは悲鳴嶼だった。本当に療養中なのかと疑いたくなるような速度で、鉄球を実弥に叩き付けた。
対する実弥は、ふむ、と眉をあげると、刀を返して柄尻で鉄球を打った。軌道を反らされた鉄球が、地面を抉る。
ちょっと待て、と実弥が掌を悲鳴嶼のほうにかざした。
「その鉤で鎖が滑ってる。力が前ほど篭ってねぇし、間合いも遠すぎる」
「ふむ。鉤で止めたほうがいいか」
「いっそ滑らせた方が、以前より速度が出るかねェ?」
聞いていた玄弥には全然意味が分からない。そもそも以前と同じくらいに見えたのだが、何度も手合わせを繰り返してきた実弥の目には威力が落ちているように感じるらしい。

「そうだな。もう一度試してみるか」
悲鳴嶼は実弥の言葉に頷くと、もう一度実弥に向って鉄球を放った。鉤の部分に鎖が擦れ、火花が散る。
「……っ!」
実弥は横に転がるように次の一撃をかわした。柄尻で受け流せた初撃とは全く別物なのが見ていた玄弥にも分かった。
起き直った実弥の頬がわずかに切れていた。
「成程こんな感じか。感覚が戻ってきたぞ」
「一撃で変わりすぎだろ! 死ぬかと思ったぞ!」
無惨戦でさえ戦闘中に感情の乱れを見せなかった兄が、うろたえるのを玄弥は初めて見た。
さすがに歴代の鬼殺隊で最強と呼ばれた男だ、数ヶ月療養していて、初めて武器を使うとは思えないほど勘の戻りがはやい。
「相手がいいからな。風の呼吸を使え。次は当たるかもしれんぞ」
「当たったら死ぬだろ」
「お前の一撃が当たれば私も死ぬから平等だ、気にするな」

ものすごく贅沢な場に立ち会っている自覚があった。
ここにいるのは、間違いなく鬼殺隊の実力的には一番手と二番手の二人。
この勝負で、どちらが最強かが決まる。玄弥は固唾を呑んで見守った。

悲鳴嶼が再度、鉄球を廻し始めた。実弥が刀を正眼に構える。
先に地面を蹴ったのは実弥だった。間髪いれず悲鳴嶼が鉄球を放つ。今度は更に速度が上がっていた。
実弥も今回は覚悟していたのだろう。壱の呼吸・塵旋風を同時に放ち、鉄球の軌道を逸らした。
そのまま悲鳴嶼に斬りかかる。その背後から、斧が弧を描いて襲ってきた。
「兄貴!」
思わず玄弥は声を上げたが、実弥はこともなげに身をかわした。
かわしきる前に、身を翻して弐の型・科戸風を放つ。
悲鳴嶼は残った右手と左足で鎖を支え、放たれた四筋の斬撃を受け止める。鎖が軋み、悲鳴嶼は背後に退いた。

―― すげえ。互角か……
瞬きした瞬間に決着がつきそうで、二人の戦いから目が離せない。玄弥はその場から動けず、ごくりと唾を飲み込んだ。
療養中なのに、以前と変わらないように見える悲鳴嶼がすごいのか、その悲鳴嶼と渡り合う実弥が力をあげているのか。恐らく両方だろう。
「もし音がしなきゃ、さっきの斧はかわしようがない所だな」
「まぁでも無音だと、私も武器の位置が分からん。そこは仕方ない」
「そういえば、目が見えないんだったよな……マジかよ本当に」
実弥は参ったな、とでも言いたそうな顔だ。
「次は参の型か?」
「ああ。最後は奥義まで行くぜ」
「奥義は困るな。家が壊れる」
悲鳴嶼が苦笑いした。
「家より自分の心配をしろォ」
強気で実弥が迫る。

二人とも武器を構えなおす。一瞬の静寂の後、互いに地面を蹴った。
轟音と共に鉄球が弧を描き、実弥が参の型で受け流せないまでも軌道を変えた。悲鳴嶼が立て直し、背後に鉄球を振りかざした。再度襲おうとしたのだろう。その時実弥が一声、叫んだ。
「玄弥!」
その叫びは緊迫していた。軌道が変わった鉄球が、まっすぐに玄弥に向っていた。
悲鳴嶼が慌てて鎖を操り、鉄球を引き戻そうとしたが、間に合わない。スローモーションのようにゆっくりと、鉄球が眼前に迫るのが見えた。

視界の隅で、地面に伏せるように体勢を低くした実弥が、こちらに向って刀を一閃させるのが見えた。
四ノ型……かつて上弦の壱に玄弥が止めを刺されそうになった時、救ってくれた型だった。どこか月の呼吸にも似て、多数の斬撃を撃ち上げる技だ。
危ない、とこんな時なのに玄弥は思った。鉄球の軌道は変えられるかもしれないが、手前にいる悲鳴嶼に必ず当たる位置だったからだ。
玄弥に気を取られていた悲鳴嶼は反応できない。その巨躯に、実弥の斬撃が迫る――

飛び散る血の赤を連想した。
しかし実弥の斬撃は、悲鳴嶼の身体を「素通りし」、鉄球に撃ち当たった。
刀がぶつかったような金属音を鋭く残し、軌道を逸らされた鉄球は玄弥の身体をかすめ、地面を抉りながら止まった。悲鳴嶼がほっと胸をなでおろした。
「……今のは、危なかった。すまない玄弥。まだ勘が戻りきっていないらしい」
「下がれと言っただろうが……」
「ごめん。悲鳴嶼さんも邪魔してすみませんでした」
低い声で実弥に言われ、玄弥は大きい身体を縮めて謝った。鉄球が掠めた皮膚が、ちりちりとあわ立っている。
全身の力が抜けるような恐怖と安堵が、今更のように襲ってきていた。

「さて。続きだ」
いち早く立ち直ったのは悲鳴嶼だった。今度は鉄球ではなく、斧を手に真っ直ぐに実弥に撃ちかかる。
起き直った実弥は、明らかに初動が遅れた。刀を一閃させたが、悲鳴嶼は身軽にかわして背後に回る。
背後から放った鎖は、実弥の胴に巻きついた。
「……っ!」
なすすべなく地面に引き倒された所に、悲鳴嶼が畳み掛ける。胸を足で踏みつけ、実弥の首筋に斧を突きつけた。
「動揺したな。……私の勝ちだ」
動けない実弥を見下ろし、にやりと笑った。

「兄貴?」
玄弥は駆け寄った。鎖から開放されても、実弥が仰向けに倒れたまま動かなかったからだ。
「畜生。療養中の奴に負けた……」
実弥は片手で顔を覆っていた。相当に悔しかったらしい。
「筆頭隊員の座は返上します」
地面で身を起こしたが、フォローの言葉も入れられないほどに落ち込んでいる。鎖をまとめていた悲鳴嶼が笑った。
「お前もずいぶん腕をあげているぞ。それにさっき四ノ型は驚いた。斬撃が私を素通りし、鉄球には当たるよう「調整」しただろう。その気になれば私も両断されていた筈」
「零の型を『上乗せした』だけだ」
こともなげに実弥は言った。
「無惨との戦いの時にも気になってたけど……零の型って何なんだ?」
玄弥は訊ねた。無惨戦の中盤で突然使えるようになった、実弥独自の呼吸だった。無惨を翻弄したその技の本質を、目の当たりにした玄弥さえ、よく分かっていなかった。
「今悲鳴嶼さんが言ったとおりだ。風の呼吸の全てに『上乗せ』することができて、何を斬って何を斬らねえかはその瞬間で決められる」
「……なんか便利そうに言ったけど、それってさ」
レベルの高い戦いになるはなるほど複数で、しかも猛スピードで戦うことになる。瞬間的に何を斬って何を斬らないか見極めながら戦うなど、相当頭を使わなければ使いこなせないし、使いこなせなければ何の役にも立たない技だと思う。
「戦闘センスが抜群のお前にとっては真骨頂だな。仮に私と殺しあえばお前の勝ちだ。遠慮なく筆頭を名乗ればいい」
「俺は鬼の力は使いたくねぇんだよ。筆頭隊員は、手合わせであんたに勝つまでは返上する」
「それなら一生二番手だな」
「なんだとォ……」
「冗談だ。あまりお前をからかって手合わせしてもらえなくなったら困る」
悲鳴嶼は打って変わって上機嫌だった。

鬼の力、と実弥は簡単に言ったが、これこそ実弥が「鬼の力の発現者」とされる証拠だった。
零の型は、人間が使える剣術を明らかに逸脱している。
愈史郎はかつて、不死川には鬼を喰い、血族に能力を「インプット」する者と、その能力を「アウトプット」する者の二種類があらわれると言っていた。
前者が玄弥で、後者が実弥であるとも。
となると、不死川家にはかつて、零の型のような力を使う鬼を喰った者がいたということなのか。
代々鬼喰いをしてきた者が本当にいるのなら、実弥のような発現者も他に居るということなのか。
玄弥は、自分のルーツが知りたかった。しかしその一方で、実弥があの時に見せた迷いの正体が気になっていた。


***


その日の夜。
実弥は岩邸の縁側で胡坐を掻き、後ろの柱にもたれて、三日月を眺めていた。
とうに日付も変わり、涼しい風が心地よい。
手元に酒瓶と杯を置き、ちまちまと口に運んでいた。
本当は昨日の間に風邸に戻るつもりだったが、悲鳴嶼に引き止められたのだ。

悲鳴嶼は、武器も完成し、これほど力も戻っているのに療養を続ける理由がないと、
明日産屋敷邸に赴き、柱への復帰を報告することに決めていた。
不死川本家の件も含め、一緒に伝えることになったのだ。

実弥には、夜に布団に入って眠る週間がない。せいぜい座ったまま、小一時間ほどまどろむ程度だ。
稀血の中でも稀少な酩酊稀血のため、夜はいつでも鬼の襲撃を受ける恐れがあったためだ。
鬼は普通連携しないというのに、鬼の集団に一晩で何度も襲われるのも珍しくはなかったほどだ。
兄弟子だった粂野匡近と暮らしていた数年間は夜は交代で眠っていたが、柱になる直前に匡近が死んだために、眠るのを自分の意志でやめた。
ただし、鬼が確認されていない今なら普通に寝てもよさそうなものだが、習慣とは恐ろしいもので、夜になっても眠くはならなかった。


春夏秋冬、長い長い夜を一人で過ごしながら、毎晩のように酒瓶を空にしている。
認めたくはないが、酒好きはあのろくでなしの父譲りかもしれない。
父親の行方は、実弥の日輪刀を盗んだあの夜から、杳として知れないままだ。

―― ひとつだけ忠告してやる。
大嫌いだだった父の声が耳に蘇っていた。あの時に肩にまわされた父の腕が熱かったこと、そして酒臭い息までも。
―― 不死川本家には近づくな。もし向こうから来ても、ひのとの息子だと明かすな。追求されてもシラを切れ。
目を閉じる。確かに、嫌な予感しかしない。こういう予感は当たると勘で分かっていた。
近づけばきっと自分だけではなく、玄弥を含めた周囲の人間をも巻き込んでしまうと。

あれ以来意識にのぼることもなかった母の生まれ故郷の話を悲鳴嶼に持ち出され、初めによぎったのは父の忠告だった。
自分の勘を信じるのか。
それとも、鬼化を続ける玄弥を止める手がかりを優先するのか。
いつも即断してきた自分に似合わず、葛藤した。結果的に選んだのは後者だった。

無惨の死後、慌しい日々の中でも、玄弥の鬼化については心に留めていた、
産屋敷家の力を借りて、かつて人間化の薬を持っていた愈史郎の足跡を追い続けていたが、行方は全く分からないままだった。
そもそも居場所を突き止めたところで創り手だった鬼がもう亡き今、その薬を再現できる保証もどこにもない。
となれば、玄弥を救う手がかりは、今のところ不死川本家にしかない。

久しぶりに玄弥に会った時、思っていたよりも進んでいた鬼化と、玄弥の憔悴振りにショックを受けていた。
思いつめた表情で、兄に気づいたその瞬間に、すがるような目をしていたこと。
稀血を口にしたその瞬間、歓喜の表情を浮かべたこと。
稀血の力で一時的に緩和したとしても、このままでは玄弥の本質が少しずつ鬼に変わってしまう。
どれほど苦しいだろう、と思った。兄として弟を救ってやりたかった。



「兄貴。やっぱり起きてたのか」
縁側が軋み、玄弥が現れた。
「お前こそ起きてたのか」
日付が変わるころまで、明日の出立の準備で部屋の中でがたがた音を立てていたが、静かになったので寝たのかと思っていた。
「鬼喰いをはじめてから、よっぽど疲れてなきゃ眠くならなくなってさ」
「そうなのか」
「うん。悲鳴嶼さんは朝死ぬほど早いから、兄貴は寝てろよ。俺は起きてるから」
なぜ実弥が眠らないのか、理由に気づいている口調だった。
「……まぁ、もう少し起きてる」
「そっか」
それ以上は何も言わず、玄弥は頷いて、実弥の隣に腰を下ろした。

「―― あのさ」
しばらく黙って月を眺めていた玄弥が切り出した。
「本当は、不死川の本家に行きたくねぇんだろ。でも、俺の鬼化をどうにかするために、決めてくれたんだろ。
今からだって間に合う。俺は、兄貴が止めといたほうがいいと思うんだったら、行かないほうがいいと思う」
「お前は心配しなくていい」
そう返すと、玄弥はキッと実弥を睨んできた。
「そういうとこだよ、兄貴のそういうとこが俺はどうかと思うんだよ。何だよその突き放したような言い方」
「別に突き放したんじゃねぇ」
そう返したが、そっぽを向いた玄弥の顔がふてくされているのを見て、思わず笑った。
「そこで笑うのは、ずりぃよ……」
玄弥はますますふてくされた。
「お前を突き放すつもりなら、俺一人で行くところだ」
「俺も行くからな、当然。悲鳴嶼さんからも許可をもらってる」
「……好きにしろ」
不死川本家なんて関わるつもりはなかったのに、自分の意志以外の力でどんどん物事が進んでいくようだった。

―― あの家で生まれなければ、玄弥は。
また聞こえた父の声を振り払った。あの後父は一体、何を続けるつもりだったのだろう。

update: 2019/12/2