「ちっ、うっとうしいな……」
十番隊の自室では、日番谷が舌打ちをしながら、隊首羽織をかなぐり捨てていた。
それだけでなく、死覇装も足袋も脱ぎ捨てると、素肌に藍色の粗末な単(ひとえ)をまとった。
そして洗面所に行くと、両手を水に浸し、逆立った髪をざっと撫で付ける。
何度かやると、逆立っていた髪がしなりと崩れ、落ちてきた前髪を面倒くさそうに払った。

「うわ、隊長、ほんとそのへんのガキみたいですよ」
「うっせぇよ」
障子をちょっとだけ開けてこちらを覗き込んだ乱菊を、日番谷はため息交じりに睨みつけた。
「これは潜入調査なんだ。素性がばれたら意味ねえだろ」
微笑みながら日番谷の部屋に入ってきた乱菊は、手ぬぐいを取って日番谷に手渡す。
「ま、相手が子供じゃしょうがないですね。隊長かやちるしか、適任いないんだから」

その乱菊の声に、ガシガシと頭を拭いている日番谷は返事をしない。
子供扱いされるのが死ぬほど嫌いな日番谷である。
子供だから適任だと選抜されて、嬉しいはずがないだろう。
部屋の襖にもたれ掛り、憮然とした表情を、心中面白がりながら見つめていた時だった。

ヒュンッ!
突然背後から響いた、空気を裂く鋭い音。

「――っ?」
乱菊が振り返るよりも早く、「それ」は乱菊の髪の傍を飛びぬけた。
黄金色の髪が数本、パラパラと宙を舞う。
「隊長っ!!」
それは過たず、手ぬぐいを片手に抱えた日番谷に向かった。
あわてて駆け寄ろうとする乱菊を、日番谷の翡翠の瞳が制した。
次の瞬間、彼の右手が、ふっ……と空中で消えたように見えた。
次にその手が見えた時には、その人差し指と中指の間に、一本の飛苦無をはさんでいた。

―― これは……
一分の隙もなく磨き上げられた、その切っ先。
握り手のところには、紅い絹がくくりつけられている。
「趣味悪ぃな」
日番谷はそれだけ言うと、無造作に飛苦無を投げ返した。

「あまりに、只のガキに見えたのでな。心配になったのだ」
飛苦無を受け止め、懐に収めた小柄な人物を見て、乱菊は声を上げる。
「―― 砕蜂隊長!」
そこにいたのは、艶めく黒髪を肩口でばっさりと断ち切り、漆黒の鋭い瞳を持つ女。
乱菊が振り返りもできないほどのスピードで、飛苦無を投げつける砕蜂といい、
それをほとんど目もくれず受け止める日番谷といい、さすがの隊長格といえる。
隊首羽織の上に締めた、琥珀色の帯を揺らしながら、砕蜂は音も無く部屋の中に踏み入った。

「俺に何の用だ、砕蜂」
濡れた手ぬぐいをパン、とはたきながら日番谷が言った。
砕蜂は、そんな世帯じみた日番谷をイヤそうに見つめた。
「お前の今回の任務に、隠密として参加せよと命じられたのだ」
「それを伝えに来たってことか。丁寧にどうも」
「私には、お前のように隠れながら、ついていく趣味は無いからな」

氷輪丸を手にした日番谷が、ちら、と砕蜂を一瞥した。
無言でその刀を一振りすると、それは一気に中指くらいの長さにまで縮小する。
それを、帯前に織り込みながら、日番谷は返した。
「俺には、お前みてえに助っ人が来たところで、イラつく趣味はねえんだ」
ムッ、と今度は砕蜂が黙り込む番だった。

ふぅ。
乱菊はため息をついて、肩を潜める。
この二人は、いつもそうなのだ。
顔を合わせれば言葉を戦わせるだけの仲。しかも無表情で。

二人の関係が固まる、決定的なきっかけとなったのは、とある事件……
北流魂街で、二人が初めて共闘した時にさかのぼる。
―― まだ根に持ってるとは。頭のいいヒトはねちっこくてイヤねぇ。
そう思ったが、さすがに口に出すのは控えた。
根が単純な乱菊には、この二人の応酬は、見ているだけで肩がこるのだ。

日番谷は帯を締め直すと、乱菊の方へ歩いてきた。
「九十番地区『流架(ルカ)』に今から侵入する。ついてこい、松本」
「ハッ!」
その場に不動になり、自分よりも遥かに背の低い隊長を見下ろす。
しかし、日番谷が自分よりも大きく、大きく見えるのは、何気なく歩み寄るこんな時だった。

「先に往(い)っているぞ」
その日番谷の背中に、砕蜂が声を投げつけた。
振り向きもせず、日番谷が返す。
「あぁ。頼むぞ」
その言葉に、思わず乱菊が砕蜂を見やったとき、もう砕蜂の姿はどこにもなかった。

「……頼む、なんて。あたし言ってもらったことないですよ。隊長」
「頼めないからだ」
きわめて簡潔に、日番谷は理由を述べた。がっくり、と乱菊は肩を落とす。
「冗談はどうでもいい」
冗談? どこが?
乱菊が聞き返す前に。日番谷は軽くため息をついた。
「気にいらねえ理由だが、こればっかりは断れねえ」
「……そうですね。あたしも、本気でやりますよ」

こんなこと、絶対に放置できない。
子供を、権力あるものが金に任せて売買するなんて。
「分かってる」
日番谷はその、翡翠の瞳を翳(かげ)らせ、頷いた。


***


「砕蜂隊長!」
砕蜂が二番隊隊舎に戻ると同時に、隠密機動の一人が、砕蜂に駆け寄った。
「第一陣が、流架に潜入成功。報告がここにあります」
「あぁ。ご苦労」
渡された紙をパラパラとめくった砕蜂の顔が、見る見る間に険しくなる。
「これは……三隊を投入したのも、頷けるな」
「人身売買組織の長は、『流架』と名乗る銀髪の男。この男に霊圧はありません。
しかし……その右腕の力は、霊圧だけは隊長格に迫ります」
「……真か? それは」
にわかには信じられない。
しかし、隠密機動は険しい表情のまま、頷いた。

「側近の名前は白刃。流架よりも、要注意人物です」
「……。シラハ?」
説明を聴きながら、しばし考え込んでいた砕蜂が、不意に顔を上げた。
「ご存知の名前なんですか?」
「……イヤ」
砕蜂は、すぐに首を振った。
「知っている者の名に似ていただけだ。その者は、すでに死んでいる」

直接言葉を交わしたわけでも、長い間一緒にいたわけでもない。
知り合ってからわずか30分後、砕蜂の刃によって命を落とした、とある女の名だった。
……たった一瞬に、真紅の鮮烈な記憶を自分に残し、逝った女。
砕蜂は軽く目を閉じたが、すぐにその隠密機動を睨みつけるように見た。
「第二陣、流架に向かえ!私も出る!」
凛とした声が、二番隊舎に響き渡った。