翡翠色の水に、小さな銀色の波が立つ。漣は琥珀色の浜に打ち上げ、砂が零れ落ちる。
透き通った湖の中には、魚影がいくつも見えた。遠くの方で、群れになった鳥がすいっ、と湖に滑り降りるのが見える。

雛森桃は、さっきからずっと、絵筆を手に白いキャンパスに向かっていた。
稽古の帰りなのか、白い単衣に黒の袴を着て、単衣には桃色の羽織を引っ掛けている。
湖をみつめるまなざしには、戯れというには真剣な光が宿っている。

ぱらぱらっ、と不意に雨粒が零れ落ち、雛森は顔を上げた。
数十メートルもある木々の大きな葉が、天から降っていた雫に天然の音楽を流す。
空はキーンと青色に晴れ渡り、雨が降るような雲はまるでないにも関わらず、だ。
日光に照らされながら落ちてくる雨粒は、まるで光のカケラのように見える。
「もう、日番谷くんたら、やる気があるのかないのか、わかんないわね」
そう言いながらも、その声は楽しげだ。

さえずっていた鳥達が、不意に豆を散らすように雛森のところに飛び降りてきたのは、そんな時だった。
肩に、腕に、膝に、つぎつぎと止まる。
「……虚圏の鳥は、人を怖がらないのね」
独り言を言った雛森の絵筆の先にも、ひょいと一羽が止まってしまう。
雛森は苦笑し、絵を描くのを中断した。と、その表情が不意に強張った。


「……ずいぶん優雅なモンじゃねぇか、死神様はよ。虚圏くんだりまで来てお絵描きかよ」
「あなた、アパッ……、とかいう」
「とかいう、じゃねぇ。アパッチだ!」
そんなことを言われても、あちらの名前は覚えにくいのだ。
危険を察知したのか、雛森の周りにたむろしていた鳥が一斉に飛び立つ。
雛森は絵筆を下ろし、うねる木の幹の向こうから現れた、アパッチ、スンスン、ミラ・ローズの三人と向き合った。
あの戦いから、丸二年が経つが、この三人の顔は変わらない……が、三人とも片腕がないのが共通していた。

「やろうったってムダだぜ。お前、ボロカスに負けたのを忘れたのかよ」
傍に立てかけてあった斬魂刀に手をやった時、アパッチがあざけるような声を投げた。
「待ちなさい、アパッチ。ちょっと聞きたいことがあるんですの」
スンスンが、長い袖でアパッチをさえぎる。蛇のような感情の無い瞳で、雛森を見返した。
「この二年、異常に雨が増えました。おかげで、砂漠だったこの虚圏もジャングルのようですわ。
戦いもろくにできやしない。わたし達、皆迷惑しておりますのよ。それにしても、この木々の生長の速さは異常です。
ハリベル様は、この雨には死神の霊圧が混ざっているとおっしゃいました。……何か、心当たりがあるのではなくて?」
「……ここまでするつもりじゃなかったんだけど……」
雛森は、ちらと周囲の森を見回した。
確かに、二年間で木が数十メートルにも生長するなど、普通はありえない。というか、予想もしていなかったことだ。

「ハッ、破面と死神がのんびりお話もおかしいぜ。どけよスンスン!」
スンスンの袖をパシッと払い、アパッチが押しのけるように前に出る。
雛森は片膝をついた状態で斬魂刀を引き抜く。勝ち誇った表情で、アパッチが刀を振りかぶった――

「痛ぇっ?」

ビシッ、と何かに突き当たった音と共に、アパッチは刀を引いた。
まるで、鉄の壁に打ち当たったような反応だった。しかし、その場には壁のようなものなど何もない。
「アパッチ、気をつけな。そいつ、鬼道の達人だったはずだよ」
その場を見守っていたミラ・ローズが駆けつける。
「てめえ、結界はりやがったな!」
拳を押さえたアパッチは目を凝らし、あん? と声を漏らして動きを止めた。
「なんだこれ。冷てぇな」
目を凝らせば、一枚の氷の壁が、雛森と破面たちの間にいつの間にか張られているのだった。
光の加減で、キラリと青く輝くそれは、一ミリの分厚さを持っているとも思えなかった。

「こんなもん!」
アパッチが、力任せに拳で氷の壁を叩く。叩いた体勢のまま、固まった。
「どうした、アパッチ?」
「と、取れねぇ! くっつきやがった」
拳を何とか氷から引き離そうとするが、まるで接着剤でくっついたように離れない。
「はあ?」
パン、と掌で氷の壁を叩いたミラ・ローズの表情が引きつった。
「本当だ、取れねぇ! お前、一体何をした!」

「馬鹿じゃねえの」

涼しげな男の声が、その場に響く。
破面達が視線を向けた先、湖の上に着地するようにして、一人の少年が立っていた。
水面の上に、草履の先がわずかに漬かっている。静かに水紋が広がってゆく。
少年、というよりも。青年に一歩足を踏み入れたような外見だった。
身長は花車に見えるほど高く、まだ筋肉が追いついていない体つきをしている。
まるで湖の色を写し取ったかのような、翡翠色の瞳をしていた。

「氷に触れれば皮膚は離れなくなる。普通の氷の属性だろ、そんなことも知らねぇのか」
「てめえ、あの時の白髪のガキか!」
一瞬、二年前に見た少年の兄かと思った。
しかし信じられないほど大人びているが、外見といい声音といい、本人に間違いない。
「ただの氷なら、刀の一撃で割れないはずはないでしょう」
スンスンが進み出て、少年と向き合う。少年は肩をすくめて、スッと氷の壁に指先を向けた。
途端、壁が粉々に砕け散る。それは、尖った氷の刃となって、破面達を襲った。
もっとも、本気で傷つける気はなかったのだろう、戯れにまで押さえたスピードだった。
飛びのいた破面達を尻目に、少年は雛森に向かっていた。

「お前、人が働いてるのになにのんびり絵描いてんだ」
「あたしはこれが仕事なの。誰かさんがあたしに大怪我負わせたせいで、十二番隊に借金があるんだから。
絵を売ってお金稼がなきゃ、死神のお給料だけじゃ返せないのよ」
「涅もがめつい奴だな。とにかく、その金は俺が返すって言ってんだろ」
「でも、日番谷君には別の形で借りは返してもらってるし。でも、今日みたいにやる気がないんじゃ、考えちゃおうかな」
「やる気ってもう、こんな状態なんだぞ、これ以上やったら周りにも迷惑だろうが」

「な・ん・の・話・をしてやがるんだー!」
二人ののんびりとしたやり取りに、一番初めに沸点に達したのはやはりアパッチだった。
「やめろ、アパッチ」
ふ、と日番谷が会話をやめ、顔を上げる。
そして、急ブレーキをかけて立ち止まったアパッチの背後から現れた人影を見やった。
「生きてたのか、お前」
「ふん。お互い様だろう」
日番谷と、ハリベル。
二年のときを隔てて向き合った二人は、やはり同じ力を操るせいか、雰囲気が似通っていた。

ハリベルは、全くの無表情のまま、ゆっくりとアパッチの前に出る。日番谷は雛森の前に出た。
「……やはり、この二年の雨はお前の斬魂刀の仕業か」
「雛森が俺にそうしろと言ったせいだ。文句ならこいつが聞く」
「人のせいにしないでよ」
雛森がそっと日番谷を小突く。だってそうだろうが、と日番谷は口を尖らせた。
「俺はこいつに傷を負わせた。謝ったら、謝るのはいいから虚圏を砂漠から緑に変えろと言った。
だから氷輪丸で雨を降らせたら、勝手にこんなジャングルになったんだ。俺は知らねぇ」
「知らねぇって、お前のせいだろうが! 百%お前のせいだろうが!」
「よさんか、アパッチ。どうせ勝てん」
「何を言うんですかハリベル様! こんなふざけた野郎、あたしが……」
「破壊するのも、殺すのも簡単だ。しかし生み出すのは遥かに難しい。
ひとつ、生み出す力があるのなら。その百倍のものを破壊できる。その男が手にしているのは、そういう力だ」
「百……」
アパッチが言葉を止めた。そして、周囲を見渡す。
今やこの限りなく広い虚圏で、緑が眼に入らぬ場所などなくなっている。

「……苦労したぜ。少しでも気持ちが荒ぶれば、創った命など一瞬で破壊されてしまう」
ハリベルはふと、二年前の光景を思い出す。
あの時の日番谷の刀には、憎しみしか乗っていなかった。
それを変えたのは……隣にいる、あの少女か。

「……戦わぬのか」
「もう十分戦ったろ」
雛森を助け起こし、立ち上がらせた日番谷の瞳に、もう焼け付くような怒りはない。
「俺達みたいな死神に、言われたくもねぇだろうが。息災でな」
ハリベルたちが何か言う前に、二人の姿はもう掻き消えていた。
ばらばらっ、と音を立てて、大きな雨粒が破面達の上に降り注ぐ。
一陣の涼しい風に、ハリベルはふと、眼差しを和らげた。