いつから、こうしていたのだろうか?



日向の香りのする、温かな肩にもたれている。
ぼんやりと眼を開けると、視界に見慣れた部屋が映った。

八畳ほどの部屋の真ん中にはちゃぶ台が置かれ、麦茶の入ったコップの表面には水滴が浮いている。
アンティークな和棚の向こうには窓があり、外は雨だった。しとしとと、音もなく降り続いている。
―― なつめ堂?
間違いない。夏梨が通され、宿題をしていた居間だ。
今自分が置かれている状況が寝覚めの頭では理解できず、目は映像を映しているだけで意味まで辿りつけない。
ふと、何かに見下ろされているような視線を感じ、夏梨は棚の上に視線を転じる。

すると―― いた。
棚の上にきちんと両足をそろえ、両手をだらりと垂れ、夏梨を見下ろすように体を前かがみにした人形――
「ぎゃあああっ!!」
夏梨は次の瞬間、絶叫して後ろに飛び退いていた。とっさに後ろについた肘に力が入らず、カクンと折れる。
そのまま後ろに倒れ込みそうになった時、伸びて来た腕が夏梨の背中を支えた。

両手を後ろにつき、身を起こした夏梨の目に入ったのは、右耳を押さえて呻く日番谷の背中だった。
「っつー……人の耳元で、いきなりお前は……」
夏梨は、悲鳴が漏れ続けている自分の口を、両手で慌てて押さえた。
どくん、どくん、と心臓が激しく波打っている。
「え……あ、の、人形は? あたし……」
「人形? 何言ってんだ」
起き直った日番谷は、夏梨をいぶかしげに見やる。
「変な夢でも見たんじゃねぇのか?」
「ゆ……め?」
「人にもたれかかって熟睡しやがって」
日番谷は、ぐいん、と右腕を回した。ごきり、と嫌な音がする。

夏梨は、自分の掌をまじまじと見た。人形ではない、まぎれもない人形の手だ。
思った通りに指が動く。何度も動かしてみているのを、日番谷は気味悪そうに見た。
「人間でよかった!」
「……まだ寝ぼけてんのか? 全く……」
夏梨は思わず、ほーっ、と息をついた。とてつもなく怖い夢を見ていたような気がする。
わんわん泣いたことは覚えていて、喉の奥が焼きつきそうだった感覚が残っている。
肝心の夢の中身は、陽炎のように急速に夏梨の頭の中から、断片を残して飛び去ろうとしている。
「……って、待って」
「何だよ」
「あたし、あんたにもたれかかって寝てたの?」
「さぁ」
ストレートに尋ねると、はぐらかすのはずるいと思う。

夢を見ていたのか? 釈然としない思いで、夏梨はもう一度周りを見渡した。
確か、夏梨はあの人形の中に意識が閉じ込められていたのだった。
声もろくに出ず体も動かず、その上家にはもう一人の「夏梨」がいたはずだ。
詳しいことを思い出そうとすると、ぼんやりと遠のいてしまうが、まだ胸がどきどきと早く打っていた。
―― 「戻る方法がなかったら、俺のところへ来い」
不意に最後の日番谷の言葉を思い出して、恐怖ではない感情で、鼓動が一回、強く打った。
なぁんだ、あれも夢か。……ほんの少しだけ、もったいなかったかもしれない。少なくとも、もう少し「夢」の続きを見ていたかった。

「現実」の日番谷は、夏梨に背中を向けて何かやっている。夏梨は後ろから覗き込んだ。
「あたしの携帯電話? ……ていうか、どうなってんのこれ!」
机の上には、夏梨の真っ青な携帯が転がっていたが、問題はそれが壊れている、ということだった。
日番谷は死神には似合わない小さなドライバーを手にし、携帯を見事に分解していた。
「電源が入らなくなってるんだが、伝令神機と似たような仕組みだろ? これで直ると思うんだが」
眼を寄り目にしてボタンをいじくりながら、日番谷が言った。
「そ……う」
現段階では、直してくれてありがとうと言っていいのか、よくもバラバラにしてくれたと怒っていいのか微妙なラインだ。
というより、一体いつの間に、携帯電話が壊れたのか知らなかった。そもそも日番谷は、どうして夏梨の携帯が壊れていることに気づいたのか?
なつめ堂で、一度携帯を触ったが、その時には普通にメールが送れたのに。
―― そういえば、携帯がよく出て来る夢だった気がする……
ふ、とそう思ったが、具体的になにがあったのかは霧の中の出来事のようで、もう思い出せなかった。


磨り足の足音が聞こえ、すぐに棗が襖をあけて現れた。
「どうしたの? ものすごい悲鳴が聞こえたけど……」
「ご……ごめん。変な夢見ただけ」
夏梨は赤くなって首をすくめた。喉に今も違和感があるほど大声で絶叫したのだから、家じゅうに響き渡っていたことは容易に想像できる。
店の外まで聞こえてなかったらいいけど……と恥ずかしかった。
「汗掻いてるわよ、大丈夫?」
着物の裾を整えながらしゃがんだ棗が、夏梨の額に手を当てる。
「微熱があるかもしれないわね」
「あ、大丈夫! ちょっと暑いだけだし」
夏梨は慌てて手を振った。心配そうに見下ろしてくる棗の表情が、何だか母親のようだった。
本当の母親は夏梨たち双子がほんの幼いころに亡くなったから、母親のような女性に優しさを示されると、どうしたらいいのか分からなくなる。
確か夢の中で、夏梨は棗が作った人形に心が入り込んだようになっていた。
その中で棗の無表情を「怖い」と思ったはずだが―― 今の穏やかな表情を見ていると、そう思ったのが信じられない気分だ。
「エアコン入れていいか?」
日番谷が尋ねた。
「いいわよ。というか、好きなように使っていいのに」
「電気代がかかる」
日番谷が真面目な顔で言ったので、棗は吹きだした。
「だんだん詳しくなってきたわね。それくらい、大丈夫だから」
棗はエアコンを手にすると、ピッ、と電源を入れる。すぐに、涼しい風が部屋に吹きこんだ。
「……実はあんたが暑かっただけだろ」
白いシャツの襟を広げて涼んでいる日番谷を、夏梨はじろっと見た。
ちらりとのぞいた白い首元に、荒削りの淡いグリーンの石をアクセントにしたアクセサリーが光っている。全体的に色素の薄い日番谷には、よく似合っていた。

棗は一旦奥に引っ込むと、すぐに麦茶を入れた硝子の器とお菓子を盆に乗せて戻って来た。
そして、携帯をまだいじくっている日番谷と夏梨を見比べて、いたずらっぽく笑う。
「冬獅郎くんの肩を枕にして眠り込んでたから、いい夢が見れると思ったんだけど」
「やっぱり! ていうか、なんで?」
日番谷に凭れた記憶なんてない。というよりも、いつのまに彼がここに現れたのかも知らない。
「夏梨ちゃんが座ったままうとうとしてる時に、冬獅郎くんが来たのよ」
半分に減ったコップに麦茶を注ぎながら、棗はくすくす笑った。
「冬獅郎くんがあなたの隣に座ったら、眠ってるのに吸い寄せられるみたいに、冬獅郎くんの方に倒れるんだもの。見ててドキドキしたわ」
ドキドキしたと言う割には、平然としている。
「だから、思わずその場を外しちゃった」
「外さなくていいから!」
思わず夏梨の声が大きくなる。それに被せるように、
「直った!」
日番谷が声を上げた。
「え、マジで?」
覗き込むと、まだカバーが外れ、複雑な電子版やコードが丸見えになった状態だが、電源は入っていてモニターに日時が表示されていた。
「ほんとだ! ていうか、これどういう状態だったのさ」
どういう風に壊れていたのか分からないのでは、どう直ったのかもわかりようがない。夏梨がそう言うと、日番谷は変な顔をした。
「バラバラになってたぞ。あの状態に気づかないってことはねぇと思うけど」
「え?」
夏梨は改めて携帯を見なおした。角の部分に、今まではなかった傷が入っている。しかも、決して小さくはない。
この部屋で使った記憶があるのだから、そのあと何があったのだろう。
「寝てる間にブン投げたとか……?」
「大丈夫か、お前。頭とか」
「うん……ってお前、失礼だろ!」
そう言いながらも、喉の奥に骨が引っかかったかのように釈然としない。
壊れた携帯電話。確か自分は少し前に、こういう光景を見た気がするが、思い出せない。


日番谷の懐で、聞いたことがあるメロディーが鳴った。日番谷が伝令神機を取りだして耳に当てる。
「阿近か、珍しいな。……は?」
ちらりと夏梨を見て、話しながら廊下へ出て行き、襖をピシャリと閉めた。
夏梨には聞かせたくない、仕事の話なのだろうか。となればもう帰ってしまうのかもしれない……
物足りない気持ちで、夏梨は携帯のカバーを閉めた。置きっぱなしになっているトートバックに入れる。
「はぁ? そんな話聞いたことねぇぞ。協力してやってもいいけど……高くつくぞ」
廊下から途切れ途切れに、日番谷の声が聞こえてくる。
何だか相手の弱みを握って脅しているように聞こえるが、大丈夫だろうか。
聞き耳を立てる夏梨をよそに尚も話していたが、不意に声が途切れる。すこし開けて大きめの声が聞こえた。
「棗! 用ができたから帰る。長居したな」
「あら。もっといてくれたらいいのに」
ぱたぱたと棗の足音がして、居間の襖をあけて二人が戻って来た。
「いい買い物もしたしな」
夏梨が眠っている間に買ったのだろう、何枚かの着物がきちんと畳まれ、雨の日用のビニールのカバーを掛けて置いてあった。
「気に入ってもらえて良かったわ。いっぱい着てあげてね」
「ああ。また来る」
たぶん無意識のうちに微笑みを浮かべて話を交わしている二人を見ていると、まるで長年連れ添った男女のようだ。
なんとなく居づらさを感じた時、
「お前はどうすんだ?」
日番谷が夏梨を見下ろしてきた。
「う……ん。あたしも帰る」
まだ頭がボーッとしているが、夏梨は立ち上がった。時間を見ればもう7時近い。そろそろ帰らないと家族が心配するだろう。
「じゃ、夏梨ちゃんをお家まで送ってあげてね」
棗は一旦奥に引っ込むと、すぐに青い傘を一本持って戻って来た。大人でも使えるくらいの大きなものだ。
日番谷は礼を言って受け取り、さっさと先に歩き出した。靴を履いて立ち上がると、ちらりと振り返る。
「早く来い。置いてくぞ」
「なんでそんなエラそうなんだよ」
素直じゃないんだから、と棗がくすくす笑う。今の言葉は、どちらに発せられたものなのだろう。
分からないが、二人とも視線を逸らした。


棗に見送られ、暖簾を下ろした店の外に出ると、もう辺りは薄暗かった。
片側を空けてくれている日番谷の隣に、そっと滑り込む。とたんに、傘に当たる雨の音がバラバラと降って来た。
傘が青いせいで、日番谷が着ている白いシャツも、うすい青色に染まっている。雨は嫌いなのに、少しワクワクした。
「こんな雨になるって天気予報で言ってなかったのか? 傘も持たねぇで」
「う……ん」
実際、中学校から帰宅した時には傘は持っていたのだが、帰宅してすぐにケイゴに綺麗になっただの、
大人びただのヤイヤイもてはやされ、イラッとして家を再び出た時には忘れていた。
ただ、そのあたりの経緯を日番谷に話すのはなんとなく気が引けて、夏梨は話を変えた。
「あんたこそ。天気には敏感なはずなのに」
「……あぁ」
日番谷は曖昧な返事を返す。その返し方に何となくピンときた。
「ひょっとして、死神の格好で帰るつもりだった? だったら傘、いらないもんね」
「そのつもりだったが、オマケがついてきたからな」
「オマケってあたしかよ!」
オマケだろ、と軽く返した日番谷が、ふと気づいたように夏梨をまじまじと見下ろして来た。
「ていうかお前、死神に傘はいらないって知ってたのか?」
「え?」
夏梨は一瞬首をかしげる。
「うん。何かでそう思ったはずだったんだけど、何だったっけ」
「朽木ルキアからでも聞いたか?」
「うーん……」
二人の背中が、雨の中で遠くなっていく。


***


無人になった「なつめ堂」の今の中で。
棚の上におかれた人形がカタカタと、音を立てて動き出した。






carnation. Endless


ブログ40,000HITS記念に、先着1名様で募集したリクエスト企画、やっと完結しました(汗
智さんからのリクエストで、「なつめ堂シリーズで、夏梨と棗と日番谷くんのほのぼの話・夏梨と日番谷の距離ちょい近め
でお届けしました。素敵なリクエストありがとうございました^^
切香より愛をこめて。

2012/6/30