部屋の掛け時計の秒針が、チッ、チッ、とかすかな音を立てていた。
遠くの方で車が走り抜ける音がするけれど、それ以外はなんの音も聞こえない。
障子からは、月の光がぼんやりと差し込み、畳の縁や布団の紋様を浮き上がらせている。

―― 眠れない。
 わたしは、首だけ動かして、障子の方を見やった。障子の片隅に、縁側に座った冬獅郎くんの後ろ姿が透けて見えた。右手を後ろにつき、左手を立てた膝の上に置いて、月を見上げている姿が瞼に浮かんだ。
 仕事で徹夜だから泊めてくれ。そう言われて是非もなく頷いた。この町の人間の中に潜んでいる「虚」の気配を追う事ができるのか、一晩試してみると言っていた。大勢の人間が起きている昼間よりも、夜のほうが虚の気配は追いやすくなるそうだ。わたしとしても、冬獅郎くんがいてくれたほうが安心できる。一人寝るのは心苦しかったから、布団を用意すると言ったけれど、仕事中なのに寝てられるかと一蹴された。彼は、決してわたしの寝室には入ってこないし、視線を向けることさえしない。そこまで気を遣わなくていいのにと言っても変わらない。ただ、こうやって障子を一枚隔てて近くにいてくれるのは、やっぱりわたしを気遣ってくれているのだろう。
 でも、その後ろ姿は、わたしに悲しい記憶も思い出させる。今から1年と少し前も、こんな風に冬獅郎くんが訪ねて来て、一晩過ごしたことがあった。後ろ姿も、座り方も、全く今とあの時は同じだったから余計思い出してしまう。

**

 あれは去年の春のことだった。いつもは季節の変わり目にやってくる冬獅郎くんが、春の初めには現れなかった。おかしいと思いながらも、彼のために準備したきものの埃を払い、たまには風を通して畳み直し、毎日待っていた。3月が終わり、4月になった。そして5月になる直前の夜、冬獅郎くんはふらりと店にやってきた。
「いらっしゃい、冬獅郎くん」
「ここは変わらねぇな」
 店内に入り、中を眺めまわしながら、冬獅郎くんは真っ先にそう言った。彼がずいぶん変わって見えることに、わたしは一目見て驚いた。外見は全く変わらない。髪型も体格も、黒い着物も同じだけれど、前にはない気配がまとわりついているように思えた。こんな言い方を彼にするのはおかしいのだろうが、まるで「死神に取り憑かれている」ような――忌まわしい、とすら言える影が、彼の周囲にわだかまっていた。
「どうかしたか?」
「いいえ」
 わたしは敢えて、何も言わなかった。ひとつ間違えれば深く傷つけてしまうほど、その時の冬獅郎くんが、脆く見えたからだ。

 「夜の見回りのついでだ」と、冬獅郎くんは言った。そして、一晩じゅうの仕事だからと、ちょうど今と同じように、寝ているわたしの部屋の外で、月を眺めていた。わたしはいつもと様子が違う冬獅郎くんに気を取られながらも、いつの間にか、うとうとと眠っていたようだ。
 何時間ほど経っただろうか? 誰かの鋭い悲鳴が、夜の静寂を裂いて唐突に響き渡った。一瞬でハッと眠りから叩き起こされるほどの声で、わたしはしばらく布団の上で、全身を強張らせたまま動けなかった。一体何が起こったのか、誰かが刺された? 襲われたのだろうか? そろそろと上半身を起こした時、断続的な低いうめき声が聞こえているのに気づいた。
「……冬獅郎くん?」
 今の悲鳴は、冬獅郎くんのものだったのだろうか? ただ確実に、うめき声は彼がいる縁側から聞こえてくる。いつだって冷静な冬獅郎くんが、呻くことはおろか、悲鳴なんて想像もつかなかったが―― わたしは襦袢の肩に着物を引っかけて、立ち上がった。

「……どうしたの」
 冬獅郎くんは、縁側の柱に体をもたせかけ、全身の力を抜いていた。立てた膝の上にうつ伏せになっていたが、わずかに覗く目は閉じられていたから、まだ眠りの中にいるのだろう。とすると、悪い夢でも見ているのだろうか。その首筋や腕に、びっしりと汗を掻いている。
「冬獅郎くん」
 そっと歩み寄り、その背中に手を置こうとした瞬間だった。今まで傷ついた獣のように唸っていた冬獅郎くんが、電流が流されたような突発的な動きで跳ね起きた。手負いの獣のようなギラギラとした瞳が刹那、わたしを射た。あっ、と声を立てるよりも早く、伸びてきた手がわたしの襦袢の襟元を乱暴に鷲掴んだ。避けるどころか、何が起こっているのか把握する時間すらなかった。力任せに後ろへ倒され、背中が激しく背後の柱にぶつかった。息が詰まる、苦しい。涙が目じりに浮かぶ。
 はぁ、はぁ、と互いの激しい息づかいが重なり合った。わたしに圧し掛かった銀髪が、月光に淡く輝いている。これは、悪い夢なのだろうか? 冬獅郎くんが、わたしを引きずり倒すなんて。
「と……冬獅郎、くん?」
 押さえつけられているのは胸元だけなのに、釘を打たれたかのように体を動かせない。これほど小柄なのに、私の体を玩具のように扱ったその力は、明らかに人間のものではなかった。背骨がぎしぎしと軋む音を、わたしは体の中に聞いた。涙に滲んだ風景の先に、冬獅郎くんの表情がぼんやりと見えた。唇は引き結ばれ、目元は自分が襲われているかのように、恐怖に見開かれている。わたしは、冬獅郎くんがこれほど追い詰められた表情をしているのを、はじめて見た。
 
 「このままでは、殺される」。わたしの本能が、そう告げていた。目の前の「敵」から逃げるようにと、抵抗するようにと。でもどうしてだろう、その時わたしは、どうしても目の前の冬獅郎くんを「敵」だとは思えなかった。これまで積み重ねて来た冬獅郎くんとの時間が、一瞬のうちにいくつも、いくつも胸をよぎった。わたしは、この人のことを愛おしいと思ってきた。それは、彼が変わろうが変わるまいが無関係な、わたし自身の気持ちだ。たとえ、彼がわたしを殺しても。わたしは彼のことを大切に思っている。手を、必死に冬獅郎くんに伸ばす。指先が震えた。
「大丈夫よ」
そんな泣きそうな顔をしなくても、大丈夫。冬獅郎くんの目が、大きく見開かれた。それと同時に、瞳に浮かんでいた涙が、一筋頬を伝った。
 伸ばした指先が、冬獅郎くんの目元に触れた。と思った時、わたしを押さえつけていた左の拳がほどかれ、力が抜ける。空気が肺に戻ると同時に咳がこみ上げて来て、わたしは何度も、何度もせき込んだ。咳をする度に、打ちつけられた背中が痛んだ。
「本当に……棗なのか」
 一体、わたしと誰を重ねていたと言うのだろう。涙の膜が張っている翡翠色の瞳が、いつもより輝いている。どっ、と音を立てて、冬獅郎くんはわたしから離れて座りこんだ。掌で、顔に浮かんだ汗をぬぐう。
「……すまねぇ」
 両手で目元を押さえ、冬獅郎くんはわたしに謝った。その様子があまりに痛々しくて、丸めた体が本当に小さく見えて、返す言葉を失った。

 わたしは、背中の痛みをこらえて立ち上がった。そして、冬獅郎くんの隣にしゃがみこむ。無言のまま、その右手を取った。今度は、初めのような激しい反応は返ってこなかった。代わりに、冬獅郎くんはわたしの手を無言で握り返した。その手は、その気になればわたしの手などは握りつぶしてしまうような力があるのだろうけど、温かさがじんわりと伝わる程度だった。彼は、全身を強張らせたまま、わたしの掌を自分の頬に押し付けた。そして、痛みの波を堪える病人のように、動かない。わたしも、かけられる言葉はなにも浮かんでこなかった。ただ掌を冬獅郎くんに任せ、そのまま隣に座ることしかできなかった。何があっても、人にすがることはない人だと思っていたから。苦しみが、血液のようにわたしの全身に流れ込んでくる。
「……何か話してくれ」
 やがて、冬獅郎くんは掠れた声で呟いた。
「気が狂いそうだ」
「……何があったの」
 この強い人を、ここまで打ちのめしたものは何なのか。傷口に再びナイフを入れるような行為かもしれないが、それでも聞かずにはいられなかった。でも、冬獅郎くんの返答は、わたしが想像したどんな答えとも違っていた。
「……簪」
「え?」
「前に、簪を譲ってくれたことがあっただろう。雛森にやれと言って」
「ええ、覚えてるわ」
「斬ったんだ」
「……え?」
「雛森を、俺がこの手で。あいつは、まだ目覚めない」
 わたしは茫然と、うつむいたままの冬獅郎くんを見下ろした。

 冬獅郎くんがそのあと、ぽつりぽつりと話してくれたのは、心も凍てつくような話だった。雛森、という幼馴染が、尊敬していた上司に胸を貫かれ、裏切られたこと。冬獅郎くんはその裏切りがどうしても許せなかったこと。隊長生命を賭けても、その男、藍染を殺すと決めたこと。それなのに、藍染を殺すつもりで渾身の力を込めて突きこんだ刃は、大切な幼馴染を貫いていた。「どうして?」涙を浮かべてそう問うたのを最後に彼女の意識は途切れ、未だに生死の境をさまよっていると。
「毎晩、眠れないんだ。眠ったと思えば夢を見る。雛森だと思って近づいたら実は藍染で斬り殺されたり、藍染だと思って斬りつけたら雛森だったり。延々と、同じ夢ばかり見る。今も……一瞬、棗の姿が藍染に見えたんだ」
「……どうして、さっきから自分の頭を叩いてるの?」
「え?」
 冬獅郎くんは、自分の頭を何度も叩いていた拳を止め、今初めて気づいたように見下ろした。その表情を見て、わたしは慄然とした。彼の眼は、わたしを見ていない。今自分が言ったこともしていることにも、理解していないように見える。まるで夢から覚めて、また別の夢を見ているような顔をしていた。もしかしたら彼は、もう狂気の中に一歩足を踏み入れているのではないか?
「……まだ、狂えない」
わたしの不安が分かったのだろう、答えた冬獅郎くんの声は苦しげだった。
「許してもらおうとは思ってねぇ。ただ、あいつが助かるのを見届けるまでは、まだ、狂えないんだ」

 いっそ、狂ってしまいたいとでも言いたそうな答えだった。一体、どんな言葉をかけたら、苦しみを少しでも和らげることができるのだろう。必死に自分の中に言葉を探したけれど、探すは探すほど、自分には何もできないことを思い知らされた。わたしは今の今まで、冬獅郎くんが悩みを抱えながら、この店に来ていたことすら見抜けなかったのだから――わたしは背中の痛みも忘れて唇を噛んだ。
 
 あの鈴蘭の簪を冬獅郎くんに譲った日のことは、はっきりと覚えている。あれは何十年も昔に、入院していた娘さんのお見舞いとして贈られたものだった。その娘さんの病は癒え、無事結婚して子供も産み、老いて品のいいおばあさんになってから、わたしのお店にこの簪を譲ってくださったのだ。「病気がなおって丈夫になれる、御利益のあるおめでたい髪飾りですよ」と言って。そのエピソードを聞いた冬獅郎くんは、「雛森」というひとにと、簪を持って帰ったのだ。その後お金を払ってくれたから、簪は彼女のもとに渡ったのだと思っていた。
 その簪を見下ろしていた時の、冬獅郎くんの瞳が目に浮かぶ。きっと彼女のことを考えていただろうその時、どんなに優しい横顔をしていたか――
「……なんで、泣くんだ」
 ぼんやりと、冬獅郎くんが顔を上げた。だってこれでは、あまりにも、あまりにも――

 
 冬獅郎くんが、わたしの涙に何を思ったのかは分からない。しばらく放心したようにわたしを見上げていたが、不意にわたしの手を離した。そして、何かを振り切るように立ち上がる。
「もう、ここには来ない」
 突然の宣告だった。
「そうしないと、俺はいつか棗を――」
 切羽詰まった響きが、その声に籠っていた。続きの言葉は発せられず、冬獅郎くんはそのまま行ってしまおうとした。その袖を、わたしは捕まえる。放してしまったら、きっともう二度と会えない。
「……放せ」
「嫌よ」
「聞いてなかったのか! 俺は、大事な女を手に掛けるような男なんだぞ! お前も――」
「殺すの?」
しん、と、沈黙が二人の間に落ちた。冬獅郎くんは、感情も露わに私を睨みつけて来た。
「死にたくなければ――」
「それで気が済むんなら、どうにだってすればいいわ!」
 わたしの大声に、冬獅郎くんの肩がびくりと震えた。
「今、独りになっては駄目よ。ここにいて」
「棗――」
「ここにいて」
 懇願ではない。命令するくらいの強さで、わたしは繰り返した。そうしなければ、冬獅郎くんを連れ戻せない。でも本当は、祈るような気持ちだった。

 冬獅郎くんはしばらく無言だったが、急にその全身から、ふっと力が抜けた。力尽きたかのように、その場に座り込む。ほっとしたとたんに、庭で虫が鳴く声が耳に戻って来た。世界が、急速に音を取り戻す。時間としては短かったのだろうけど、わたしには永く感じた。我に返ると同時に、背中の痛みが蘇って来る。わたしはそっと、肌蹴た襟元を直した。
「……手、放してくれ」
 そう言われて、袖を掴んだままだったのに気づいた。離そうとしたけれど、今度は指が強張ってしまって動かない。指を離そうと、逆の手で一本一本引き剥がした。すると、わたしとそれほど変わらないほどの大きさの掌が、わたしの背中に乗せられた。ふわり、と背中が温かくなり、痛みがじんわりと和らいでいく。
「……これも、死神の力なの?」
「そうだ。……ごめんな」
 その声は、いつもの冬獅郎くんに戻っていて。わたしはほっと息をつく。こんな風に、誰かを癒すこともできるのだ。

「……ねぇ。どうして、死神になろうと思ったの?」
 そのあとで交わした会話を、わたしはその後たびたび思い出すことになる。
「……なんでだったか」
 冬獅郎くんは思いもかけないことを聞かれた、という風に、目をしばたいた。膜がかかっているかのように、その目に前のような生き生きとした強さはない。でも、狂気は去っていた。
「元々俺は、自分が生きて行くことしか考えてなかったのに。家族みたいな奴らに出会って、俺の他にも人がいるんだと気づいて……松本に死神になれと言われて、気づいたら隊長にまでなってた。周りには、死神は天職だとか言われたが、とんでもねぇ。経緯に、俺の意思はなんもねぇよ。気づいたら勝手に、そうなってたんだ」
 これほど長く話すのは、彼にはめずらしい。ゆっくりとした口調だったけれど、言葉を選んでいるその様子から、本当にそう思っているんだと分かった。気づかず勝手にそうなったというなら、それこそ天職だろうと思うけれど、彼は自分の意思で選んでこその天職だと思っているらしい。自嘲気味に言い終わると、彼はわたしを見た。
「なんで笑ってるんだ?」
「いいえ。なんか、少し分かるなと思って。立場はぜんぜん違うのに」
「……棗こそ、なんで今の仕事をやってるんだ?」
「着物が好きで、着物を売ってお金を稼いで、成功したかったから」
「棗が?」
 冬獅郎くんは怪訝な顔をした。今のわたしが、お金を気にしない商売のしかたをしていることは気づいているだろうから、違和感があるんだろう。
 
 子供のころのわたしは、自分のことしか考えてなかった。更に言うなら、可もなく不可もない人たちの中で「何者か」になりたいと思っていた。陰で、誰かを支えることに心血を注いでいる人――祖母や母のような人を、歯がゆく思っていた。一度きりの人生、どうして他人の犠牲になって、自己実現をしようとしないのだろうと。当時のわたしは、何も分かっていなかったと思う。わたしは、襦袢の上にまとっていた古い羽織に手をやった。死んだ祖母が結婚してから死ぬまで大切にしていた形見だ。
「このお店を始めたころのわたしは、早く一人前になって成功しなきゃって気負ってた。結果的に、きものを『商品』として……お金を得る手段としてしか見れなかったわたしを、何人ものひとが叱ってくれた。わたしには自分のきものを託せないと、怒って帰って行ったひとも最初のころはいたの。売りに来てくれたひとは皆、きものはそのひとの人生の片割れだって教えてくれた。きものを手放す時の淋しそうな顔、そして受け取る人の幸せそうな顔―― 感情抜きに、きものを手にする人はいないわ。今は、きものを次の世代に受け継いでゆくこと、そして受け継ぐひとが幸せになることを願って毎日仕事をしてるの。それができるなら、わたしは成功しなくたっていい。わたしは、大切なひとや物に出会って、変わった。初め目指してたものとは違うけど、自分のことがどうでもいいと思えるほどの何かを見つけたの」

 自分よりも大切なものを知ることを、幸せだと思うか不幸だと思うかは人それぞれだろうけど、わたしは前者だった。自己実現に人生を賭けて、一徹に目標を追い続けて、死ぬまでにそれを果たすのもいい。でも、同じ目標を追い続けたということは、一生そのひとが変わらなかったということでもある。大切なひとに出会い交わる中で、わたしの思考や人生が変わって行くのに、流れるように身をまかせているのもいいじゃないか。今はそう思っている。
 
「……自分のことがどうでもよくなるくらい、か」
「あなたも、それをとっくに見つけていたんでしょう? ……あなたは、間違ってないわ」
 わたしがそう言うと、冬獅郎くんは不意をつかれた顔をした。自分のことしか考えていなかったという冬獅郎くんが、家族を得て、その人たちを護りたいと思ったこと。乱菊さんに会って、強くなりたいと思ったこと。そして、その家族が傷つけられた時、自分が今までに作り上げて来た立場を捨て、命を賭けても彼女のために戦おうとしたこと。その経緯が、わたしには目に浮かぶような気がする。
「俺は、間違えたさ」
「後悔してるの? 自分より大事な誰かを見つけたことを」
「わからない。……ただ、もう一度、刀を握れる気がしねぇ」
 冬獅郎くんはうつむき、自分の掌を見下ろした。
「でも、許されるなら、もう一度死神として戦いたい。そして今度こそ――あいつを護りたい」
 自分の意思でなく死神になったというのなら、あの時がはじめて、冬獅郎くんが本気で死神でいたいと自分で思った瞬間ではなかっただろうか。狂気の一歩手前のどん底にいながら、それでも誰かを護りたいと語る彼を見て、新しい涙が浮かんだ。本当に強い人だと思いながらも、その強さが切なかった。
「絶対、大丈夫よ」
 わたしには、そう言うことしかできなかった。
「……また、ここに来ていいか?」
 しばらく黙っていたら、そんなことを言われた。彼には珍しく、おずおずとした口調だった。さっき、「二度と来ない」と言い放ったことを思い出したらしい。わたしは、その銀髪を撫でた。
「もちろんよ」
 そして、寄り添って夜明けを迎えたのだ。わたしに凭れてうとうととしている冬獅郎くんの銀髪に、朝日が差し込んだ瞬間をまじまじと覚えている。

 もう一度、死神として誰かを護りたいと、冬獅郎くんは言った。
 今、いったいどういう気持ちで、苦しむ一護くんを見ているんだろう。
 少なくとも、今の一護くんの気持ちは、痛いほどにわかっているはずだ。


**

「……背中」
 突然、声をかけられた。一年三か月前の記憶に完全に浸っていたせいで、言葉が耳に届くのが遅れた。
「えっ?」
「背中。あれから、痛むか?」
 どうやら、あの時と同じ状況で、過去のことを思い出していたのは、わたしだけではなかったようだ。
「あの時治してくれてから、一度も痛んでないわ」
 もう、完全に目が冴えてしまった。わたしは布団の上に置き直り、襦袢を直してから立ち上がった。
 
 昨日、雨が降ったからか、せまい庭のどこかで蛙が一匹だけ鳴いている。ぽちゃん、と音がしたから、玄関先の水瓶で金魚が跳ねたのだろうか。静かな、月の綺麗な夜だった。わたしがお茶の準備をして縁側に出ていくと、冬獅郎くんは驚いたような顔をしてわたしを見た。
「髪、長えな」
「ええ、ずっと伸ばしてるから」
 髪のことを言われるとは思わなかった。いつもは結いあげているわたしの髪は、ほどくと腰くらいの長さになる。急須とお湯呑を置いたお盆を二人の前に置き、わたしは縁側に腰を下ろした。涼しい夜風が頬を撫でてゆくのが心地いい。襦袢一枚きりで髪がたなびくのを感じていると、昼間にはない、解放的な気分に浸される。髪が風で冬獅郎くんの方に流れ、彼は指先で髪に触れた。
「ごめんなさい」
 身を引くと、彼は微笑んで首を振った。
「眠れないのか?」
 その表情のままわたしを見返してくる。こんな大人びた優しい表情は、前は見なかったものだ。
「眠らないの」
 月桃茶を薦めると、冬獅郎くんはふぅん、と言いながらお湯呑を受け取った。
 
「いい香りだな」
「あの生葉を煮立てたものなの。原産はここよりもずっと南の国よ」
 わたしは庭の隅にある、大きな笹の葉に似た葉を指差した。暗がりの中でもはっきり緑だと分かるほど艶々している。冬獅郎くんがなにげなく口元に運んで、「熱っ!」と言っているのを聞いて、思わず噴き出す。
「猫舌だったっけ」
「ぼうっとしてた。……って、笑いすぎだ」
 笑った理由は、半分はおかしかったから。あと半分は、ほっとしたから。あれから、一年三カ月という時間は、冬獅郎くんにとって、長い長い時間だったはずだ。どこにも逃げられない心の痛みに、ずっと耐え続けてきたに違いない。でも会う度に、冬獅郎くんは少しずつ、薄皮を剥ぐように変わって行った。怪我の後に傷痕が残り元の肌には戻らないように、元の冬獅郎くんに戻ったとは言わない。でも、前に見せなかった柔らかな表情を見せるようになっていた。
 
 冬獅郎くんが指先で、流れてきたわたしの髪に手慰みのように触れている。あるかないかの、ほんのわずかな感触に、わたしは目を細めた。
「……棗は、俺が怖くないのか。……あんなことがあったのに」
 黙っていると、不意にそんなことを聞かれた。
「また、あんなふうにわたしを襲うの?」
「まさか」
 冬獅郎くんは弾かれたようにわたしを見た。
「じゃあ、もう終わったことよ。もう、大丈夫なんでしょう?」
「また、棗に叱られたくないからな」
 似合わない言葉が漏れたから、思わず笑ってしまう。彼に大声を上げた日のことが、遠く思い出される。
「ああいうことを言うとは思わなかった。命が惜しくないのかよ?」
 言われて、考えをめぐらせる。確かにあの時は、「殺される」と確かに思った。それでも、自分の身を護ろうとは思わなかった。
「……生きていると、自分の命よりも大切だと思うことに、たくさんめぐり合うものよ」
「まためぐり合ったのかよ?」
「ええ。あなたに会った」
わたしたちの視線がぶつかった。あの時、ふたりで交わした会話が胸をよぎったのは、冬獅郎くんも同じだっただろう。

全身が痛かったし、唐突に襲われたショックもあったけど、そんなことはどうだってよかった。
そんなことより、あの時は目の前で苦しんでいる冬獅郎くんのことが心配で、何よりも愛おしかった。

「棗は優しいな。……いや、強いのか」
どちらもかな。そう呟くのを聞いて、わたしは首を振った。
「冬獅郎くんはいつも成長してる。先へ先へと行こうとするけど、わたしはここにいるだけだもの」
冬獅郎くんなら、たとえば10年先は今よりももっと認められているだろうと確信できる。どんな飛躍が彼を待っているんだろうと楽しみでもある。でもわたしは、きっと10年経ってもこのお店の店先に座り続けているような気がする。彼は微笑んで首を振った、そして、わたしを見つめてきた。ああ、あの目が戻ってきた。その目を見て思う。吸い込まれてしまうような深い青。意思をたたえた、強い瞳だ。
「ここに来れば、いつも棗がいる。それを思うだけで、あのころの俺がどれほど――」
 そこで言葉を切って、冬獅郎くんはわたしをもう一度見つめた。
「……棗は、二度と傷つけない。誰にも傷つけさせない」
 大事な言葉は、ちゃんと目を見て伝えてくれる。わたしは彼のそういう態度がとても好ましいと思うし、胸を押されたようにドキリとした。
「じゃあ、見ていてね」
「なにを?」
「わたしがまっとうに生きて、お婆さんになって死ぬまで」
 そう言うと、冬獅郎くんは少し、さびしそうな顔をした。


2012/9/22