ひゅん、と耳元で風が鳴る。景色が、早送りのように飛び去ってゆく。
ぜぇ、ぜぇ、とルキア自身の息が風音に混ざる。乱菊が、日番谷を振り返った。
そして無造作に日番谷の襟元に手を伸ばすと、ひょい、と襟を広げて胸元を覗きこんだ。
「何すんだ」
不機嫌そうに、日番谷が乱菊の手を振り払い、襟元を正す。ちらりと見えた胸元には、くっきりと水仙の紋様が残っていた。
「やっぱり! まだ限定解除といてないんですか? 痩せ我慢にもホドがありますよ」
「隊長格がそうそう霊圧を解放できねぇよ。周囲への影響が大きすぎる。それに」
「それに?」
「二割の力でも結構戦えることが分かったからな。もう少し試してみたい」
あぁ、と乱菊がため息をついた。
「また悪いクセが出てますよ。血だらけで言っても説得力ありません、隊長!」
「うるせぇ。もう傷はふさがってる」
日番谷が右腕をぐるりと回して見せたのを見て、ルキアは驚いた。さっきまで、根元まで分断されかかっていたはずだ。
「最近卯ノ花に、治癒を習ったんだ」
ルキアが目を丸くしたのを見て、彼はなぜか仕方ない、とでも言いたそうな口ぶりで説明する。
えー、と乱菊が声を上げた。
「なんで黙ってるんですかぁ! 全然知りませんでした、いつの間に?」
「……四番隊に行く用事はあったからな。ついでだ」
しばらく空けて、ああ、と乱菊が歯切れ悪く返す。藍染の凶刃に倒れた雛森のことは、ルキアもすぐに思い浮かんだ。
瀕死の幼馴染を見て何もできなかった無力が、彼に努力を強いたのだろう。
「ンなことより、近いぞ。集中しろ」
日番谷は顎で先を示してみせる。確かに、あと15秒もあれば敵の居場所に辿りつくだろう。
「何とか踏ん張ってるみたいですね、一護と恋次。織姫も無事みたいですし」
ふん、と日番谷は鼻を鳴らす。
「俺に向かってあれほどの啖呵を切ったんだ、それなりに根性見せてくれねぇとな」
「た、啖呵?」
思わず顔が引きつる。日番谷を不機嫌にさせる何を言ったのか、一護なだけに分かったものではない。
「タイムアウトだ、構えろ。突っ込むぞ」
日番谷は無表情のまま続けると、氷輪丸を左手に構えた。
***
「月牙天衝!」
「狒狒王蛇尾丸!」
その場に降り立ったのと同時に響いたのは、一護と恋次の叫びだった。
「甘えっ!」
その直後に、聞きなれぬ男の声が響く。
「一護っ! 恋次!」
空中で足を止めた脇を、私より一回りは大きな漆黒の影が二つ、吹っ飛ばされて通り過ぎた。
目に姿を捉えることも難しいようなスピードだった。こんな勢いで背後の建物に打ち当たれば……
「縛道の三十七、吊星っ!」
いち早く乱菊が縛道を唱える。
吹き飛ばされた二人の体を、霊圧でできた白布のような物体が受け止める。ゴムのように収縮するそれは、建物にぶつかるギリギリのところで止まった。
「ぶわっ、なんだこりゃ?」
「今、口が、口が当たっ……」
「やーだ、勢いでチューしてなかった? 今」
吊星の外から覗き込んだ乱菊は、口元に手を当てて笑いを堪える表情だ。
「……てめぇら、死にそうにねぇな」
日番谷がうんざりしたような視線を投げると、少し離れた空中に佇む破面に、刀の切っ先を向けた。
ルキアは一歩前に出て、同じように刀を構える。
「……ワラワラ出てきやがったか。弱い奴ほど群れやがる」
薄い唇をゆがませ、その男が笑った。
「てめぇは?」
「グリムジョー・ジャガージャック。NO.6だ」
その答えに、問うた日番谷の眉が潜められる。一桁なら、十刃ということか。
グリムジョーと名乗った男の髪は、まるで水彩画のように淡く、透明感のある青色だった。
上半身には何もまとっておらず、その腹には拳が入りそうな大きさの穴が開いている。
肌の色は真っ白で、両目の下の黒い隈取が酷薄な印象を与える。
その青い瞳が、獲物を見つけた野獣のような獰猛な輝きを放った。
「気をつけろ。あいつマジで強ぇぞ」
恋次が、背後からぐいとルキアの肩を掴み、ささやいた。
「分かっておる」
「そっちの敵は、倒せたんだな」
「ああ、問題ない」
頷いてチラリと横に並んだ恋次を見やる。こめかみから血が滴り、腕や死覇装のところどころに血がにじんでいるが、重傷ではなさそうだ。
しかしその横顔には、隠しきれない緊張が張り付いていた。戦いの場数を踏んでいる、普段の恋次には珍しい態度だった。
値踏みするように、グリムジョーが一人ずつの顔を見渡してゆく。ちっ、と舌打ちした。
「強え奴からと思ったが、面倒くせぇ。一番手前にいる奴から殺す」
その瞳が、ルキアに据えられる。
「ルキア、さがれ!」
恋次が大声を出すと同時に、前に躍り出た。
「恋……!」
目の前に広い背中が立ちふさがると同時に、鈍い音が響く。
ぐっ、と恋次が息を押し殺し、呻いた。体をくの字に曲げる。
恋次の腹を殴りつけたグリムジョーが、次の拳で恋次を横に弾き飛ばす。
「まず一人!」
顔に向かって振り上げられた刃に、視線が吸い寄せられる。
ルキア! と叫ぶ一護の声が遠くに聞こえた。
何を考える間もなく、左にかわす。その肩越しに、斜め上から三日月型の小型の刃がかすめ飛ぶ。ジャラッ、と鎖が鳴った。
金属質な音を耳元に残すと、グリムジョーの振り上げた腕に鎖が巻きつく。
「綴雷電!」
日番谷の声に、振り返る。いつのまに始解したのか、日番谷が氷輪丸の柄尻に取り付けられた鎖で、グリムジョーを拘束していた。
その鎖に、白い雷電が走り、グリムジョーに向かう。
「こんなもんが効くかよ!」
一喝して振り払おうとした時。
「月牙天衝!」
下から放たれた一撃が、その場の空気を断ち切った。
鎖に拘束されていた分、初動が遅れた。その一撃は、グリムジョーの腹を直撃する。
さすがに堪えられなかったか、その体が背後に大きく弾き飛ばされた。
「ルキア! 冬獅郎! 大丈夫か」
「てめぇの一撃が、氷輪丸の鎖をぶった切らなければな」
日番谷は、月牙天衝に断ち切られた鎖を睨みながら言った。柄尻に手をやり、残りの鎖を取り外すと、中空に投げる。
建物の屋根を蹴り、中空で静止した一護が日番谷を見……すぐに目を剥いた。
「悪ぃ……ていうかお前、大怪我してんじゃねぇか! 戦えるわけねぇだろ、そんなん……」
皆まで言い終わる前に、ぱしんっ、と背後から一護の頭をはたく。
「いてーな、ルキア! そんなことのために瞬歩使うな!」
「馬鹿者。敵を目の前にしていながら、弱点をわざわざ大声で言うな」
「ぐっ……でもよ」
一護が声を落とす。
「でも、も何もない。ここは戦場なのだぞ!」
一護は、ルキアを見やった。次いで、日番谷に視線をやる。
痛みなどまるで感じないように、平然とした表情でグリムジョーを見据えている、その横顔を。
「……俺がやる」
一護はぐい、と前に出た。
* last update:2012/10/10