半日後。日増しに長くなる日が沈むころ、夜一は浦原商店に戻った。駄菓子屋「浦原商店」は、ガラス戸が開いているくせに無人だ。商売っ気がないにもほどがある。しかし、店がそっちのけになる理由は分かっている。「閉店」の札を下げると、すぐに地下空間へ足を向けた。

 地下空間は、頬を刺すような冷え冷えとした気配に満ちていた。この二週間、日番谷と氷輪がひたすら戦いを続けているためだ。今も、金属音が何度も鋭く響き渡っていた。
「戻ったぞ、浦原」
 巨大な岩の上で胡坐を掻いている背中に声をかけた。いつもの作務衣の上に半纏を羽織り、マフラーで完全防寒している姿は、とても元十二番隊長とは思えない。おぉ、と能天気な声を上げて振り返った。
「おかえりなさい。どでしたか? 氷輪サンの名前、死神名簿にありました? ……おや、どうしたんですかそのクマ」
 バーン、と夜一が岩の上に投げ出した、5冊ほどの分厚い名簿を見て、おやおや、と困った風でもなく首をかしげる。
「それは機密書類でしょうに。持ち出したらドヤされますよ」
「瀞霊廷が滅びる滅びない言ってる時に、名簿くらいなんじゃ。ケチケチするでない」
 ふわぁ、と大っぴらに欠伸をしながら、浦原の隣にどすっと腰を下ろした。
 
「居眠りしてたんじゃないですかぁ?」
 名簿の一つを手に取りながら、浦原が笑う。
「したが、ちゃんと調べたぞ。儂にこんなことを二度とやらせるな」
「日番谷隊長に言ってください。おおもとは彼なんですから」
 そう言いながらも、浦原はぺらぺらと名簿をめくった。虫眼鏡でないと見えないような小さな字が、延々と続いている。一瞥するなり、うわぁ、と子供のような声をあげた。
「こりゃすごい。これを作った人は、全部見ようなんて輩が現れるとは思ってなかったんですよねぇ。これ、まさか全部」
「目を通すわけがないじゃろう。過去千年の、副隊長以上の死神だけじゃ。あの実力を見ろ。雑魚など見たところで始まらぬ」
 死神といえども、永い時間の中でゆっくりと年を取り、やがて死ぬ。あの氷輪という男は人間で言えば、40代から50代程度。千年生き、外見年齢が70代の総隊長よりも年上ということはないだろうから千年以内に絞った。それでも、千年もあれば該当する死神は約300名にのぼる。その中で、氷雪系の力を持つ副隊長以上の男は約20名。決して珍しくはない力ということになるが、氷輪の名前はおろか、彼に匹敵しそうな力量の者もいなかった。

 名簿をあっさりと投げ出した浦原は、ふぅむ、と唸った。
「しかし、死神でなければ何だと言うんでしょうね? 死神以外の者が鬼道を使うなんて聞いたことがない。おもしろいですね」
「おもしろいものか。面倒くさいだけじゃ」
「アナタの人脈からは何か洗いだせなかったんですか? 行ってきたんでしょ? ご本家」
「あの婆、矍鑠としておったわ」
 夜一は顎に掌をつき、眉根を寄せる。
「言っておくがな。確かに行ったが、別件じゃ。ちと確かめたいことがあってな。だが……」
 一緒に調べれば良かったか? 一瞬そう思ったが、いくらなんでも、とその可能性を打ち消す。
「だが、何ですか」
「……」
 夜一はちらりと浦原を見やった。胸の奥に浮かんだ考えを伝えたら、どう反応するだろうかと考えてみる。
「……やめたやめた」
「なんなんスか」
「それより。日番谷のことじゃが、幼いころ刀のことを『氷輪』と呼んでいたらしいぞ」
「……へぇ」
 あからさまに話題を変えたのに浦原が気づかなかったはずはないが、軽く頷いただけだった。遥か向こうで、二つの影がぶつかり合い、次の瞬間に飛び離れるのが見えた。

「そりゃおもしろいですね。日番谷サンなら、こっちへ来てからの記憶は明確にあるでしょうに。彼がアタシ達に何かしら隠していることがある、と考えてもいいんスかね」
「それはどうかの。嘘をつく理由がない」
 日番谷が何よりも優先して強くなろうとしていることは間違いない。そんな時に、メリットがないどころか、力を解明するには障害になりかねない嘘をつくとは思えなかった。それに日番谷のあの性格からして、例えどんなことであれ、嘘をつくタイプではなさそうだ。

 ぐいん、と夜一が身を起こした時、眼下の岩にジン太とウルルの二人が腰掛けているのに気づいた。
「おい二人とも、ほどほどにしておけよ! 戦いに巻き込まれたら怪我で済まんぞ」
 しかし、前にのめるようにして戦いを見つめているジン太には届かない。
「すげえ、勝てるんじゃねえか、今度は!」
「なに?」
 浦原と夜一は、同時にジン太が指差した方を見下ろした。


 ひときわ大きな金属音と共に青い火花が散り、交差していた二人の身体が飛び離れた。ざっ、と確かな重みを地面に響かせた氷輪とは異なり、ふわりと岩の上に着地した日番谷の足音は全く聞こえない。刀の切っ先を互いに相手に向けたまま、にらみ合う。息も切らせていなかった。氷輪が地を蹴り、一気に間合いを詰める。彼の長身から繰り出される刃は、まっすぐに日番谷の頭を狙う。
「霜天に座せ……」
 一旦中空に退き、その一撃を交わした日番谷が氷輪丸を片手で携え、身体の前でくるりと一回転させた。刀の軌跡が円を描く。
「氷輪丸!」
 同時にその円が青白く発光し、中から牙を剥いた氷龍が躍り出た。中空にとどまる氷輪に至近距離から襲いかかる。さすがに氷輪もまともに受けられなかったか、瞬歩で姿を消した。攻撃対象を失った氷龍が地面にぶつかり、氷のかけらが大音響を立てて飛び散る。
「次から次へと、よく新技を思いつくものだ」
「当たらなきゃ意味ねぇ」
 その返事は、氷輪の背後から返された。氷輪が振り向くと同時に、背後で待ち構えていた日番谷にぶつかる。
「ちっ!」
 振り向きざまに、氷輪が刀を一閃させる。続けざまに膝蹴りを胴に放った。日番谷は氷輪の膝を足の裏で軽く受けると、そのまま背後に飛び、ふわりと地面に着地した。
「ほぉ……」
 見ていた夜一は目を見張る。氷輪の実力は見たところ、初めて会った時と変わっていない。一方で、日番谷の変化は目覚ましかった。二週間前なら、10秒間斬り結ぶので精いっぱいだったのが、ここ数日は数十分間戦い続けても、まだ決着がつかないことも増えていた。
「霊圧が上がっておる、ということか……?」
「そう見えますけどね。多分、総量は変わらないですよ。より上手く引き出して、自分のものにしているようですね」
「ようやく乗りこなしてきたということか」
 二週間前は、自身の霊圧という暴れ馬にまたがっているように見えた。氷輪はいわば日番谷にとっては「鏡」。鏡と向き合い続けることで、自身の力の扱い方を覚えてきたか。

「『瞬歩』なんぞ、どこで覚えて来たんだ」
 刀を肩に担いだ日番谷は、髪が少し落ちてきていることを覗けばいつもと変わらない。着物の袖から覗く二の腕に、はっきりと筋肉の筋が刻まれている。食べる時と寝る時以外は戦い続けたのだ。若さも手伝って、その体つきが傍目にも分かるほど変わってきていた。
「お前があずかり知らぬ、遥か昔のことだ」
 そう返した氷輪の表情が、涼しげというよりも穏やかに見えて、おや、と夜一は思う。どうやら変わったのは、日番谷だけではないようだ。
「……死神としてではなく、か?」
 日番谷の口調はさりげなかった。
「なぜそう思う」
「過去の氷雪系の死神は全員把握してる。その中に、お前ほどの実力者はいねぇ」
「っと、待たんか」
 思わず夜一が口を挟んだ。日番谷と氷輪が振り返る。名簿を振りかぶった夜一が岩の上に立っているのを見て、日番谷は方をすくめた。表情が乏しいため分かりづらいが、慣れて来た夜一には「しまった」と彼が思っているのが分かる。
「儂を数時間、死んだほうがマシなほど退屈な目にあわせておいて、名前はない? なんじゃそれは!」
「……それをお前に頼んだのは浦原だろ」
「それを! 知っておって、黙っておるとはどういうことじゃ?」
 あからさまに怒りをぶつけると、日番谷はわずかに身を引いた。
「……万一のためだ。記憶なんて絶対じゃねぇし」
 ほっおう、と夜一は口元をひきつらせた。

 場外乱闘でも始めるか、と夜一が思った時、二人のやりとりを他人事のように見ていた氷輪が、
「……行くぞ」
 と刀を構える。それと、キレた夜一が名簿の一冊を投げつけたのは同時だった。
「氷龍旋尾!」
 一閃させると同時に、巨大な氷の刃が打ち出される。振り返った日番谷は、その時点ではまだ避けられただろう。しかし彼は飛んできた名簿を受け止めることを優先させた。
「っと!」
 名簿を空中で掴み取り、氷輪を振り返ろうとしたが、時すでに遅し。あっという間に、日番谷の全身は巨大な氷の中に飲み込まれた。
「ああっ! あいつ、呑まれおったぞ」
「機密名簿を護って死ぬなんて。隊長の鏡です」
「まだ死んどらんわ。だがあれでは息が……ン?」
 突然、日番谷がを氷漬けにしていた巨大な氷塊が、粉々に砕け散った。破片が周囲に飛び散り、全員顔の前に腕をかざした。
「ちょ……大丈夫なのかよ」
 ジン太が目を剥き、ウルルは短い悲鳴を上げて掌で顔を覆った。氷雪系の使い手が、氷塊もろとも粉々になるのは考えづらいが……目を凝らした浦原が、
「残像だったんですねぇ。いませんよ、氷の中に」
 のんびりと呟いた。
 
「スキだらけだぜ」
 たん、と音を立てて、日番谷が氷輪の懐に飛び込んだのは、その刹那。間合いに入ったどころか、身体がぶつかりそうな至近距離である。斜め下から横薙ぎに刀を払う。
「『月牙天衝』!」
 霊圧の刃が、氷輪の胴体に炸裂する。堪えられず、その体が背後に吹っ飛ぶ。地響きを立てて、背後の岩に激突した。
「……威力はいいが燃費はよくねぇな」
 着地した日番谷が、刀を肩に担ぐ。少しだけ息を切らせていた。その左脇に、名簿を抱えている。ほぅ、と浦原が目を丸くした。
「他人の技を放つなんて、なんでもアリですね。さすがに、本家には及びませんがやってみようと思うところがすごい」
「氷龍旋尾と似てるんでな」
 ふわり、と降り立った日番谷の周囲に、バチッと霊圧が弾ける。風が吹いたかのように土が巻き上げられた。
「霊圧の磁場、か」
 夜一はそれを見て呟いた。何度か見たことがある。高まる霊圧が頂点にまで達した時、その中心点である死神の周りに現れる現象だ。
「卍解の前兆でもあるらしいですが……あなたの場合、どうでしょうね」
「どうだかな」
 卍解を会得するためにやって来た割には、さりげない返答だった。そういえば、不完全とはいえ卍解はできるはずなのに、初戦以降は一度も見せていなかった。

 日番谷の視線の先に、土煙の中でゆらり、と立ち上がった氷輪の輪郭が見えた。氷輪はひゅっ、と手にした刀を横に振る。同時に生み出された氷の矢が、日番谷に向かって放たれた。日番谷は土煙の向こうの輪郭を見据えたまま、あぶなげなく攻撃をかわす。土煙の中の姿に刀を向けた瞬間だった。日番谷の肩を、刀の峰がトン、と打った。全く反応できなかった日番谷が、泡を食った表情で振り返る。
「……残像とはこのように使うものだ」
 おぉ、と浦原が声を漏らす。ずっと観察していたはずの夜一にも、いつの間に残像を作りだしていたのか全く分からなかった。見ていてもぞくぞくする……全く惚れ惚れするほどに、その実力に底が見えない。氷輪は無造作に切っ先を上げると、刀の峰を肩に担ぎ、戦いに関心をなくしたように背を向ける。
「もう終わりかよ」
 日番谷が、どことなく不満そうな声を向ける。ちらり、と氷輪が振り返る。
「まだまだ本気で相手をするには足りぬ」
 その返した視線に、もう殺気は感じられない。

 負けん気が強い日番谷のこと。あからさまに力不足を指摘されれば、反発するものだと思っていた。しかし日番谷はひとつ息をつき、刀を鞘におさめた。よく見れば、その腕や頬には擦り傷が覗いている。遠ざかる氷輪の背中に視線をやる日番谷の視線に、夜一は見慣れぬものをみたような気持ちになる。仲間に向ける信頼とは違う。部下に向ける威厳とも、もちろん違う。「憧れ」と言ってしまうと、それも違うように思える。
「……日番谷」
 何となく、ずっと見て居られないような気持ちに駆られ、夜一は日番谷に歩み寄る。日番谷は、さっきまでずっと氷輪を見つめていたのを忘れたように、夜一に振り返った。
「……悪かったな、名簿のこと。人の記憶はあいまいだ、念のため確認したほうがいいと思ったんだ」
 一応、悪いとは思っていたらしい。夜一は頭を掻いた。
「もう、どうでもいいわ」
「松本と話したか?」
「心配はいらぬ」
 夜一をわざわざ瀞霊廷まで行かせた本当の理由は、乱菊の様子を知りたかったからだろう、と踏んでいる。
「……次からは自分で行け」
 自然と、ぶっきらぼうな口調になってしまう。日番谷は首を振った。
「強くなって戻ると、松本に約束した。まだ会わせる顔がねぇよ」
「馬鹿だのう」
「あぁ?」
 日番谷が胡乱な顔をする。馬鹿だのう、ともう一度口の中で呟く。
 
 自分が二週間前と比べて、段違いに力を上げているのを気づいていないのが一つ。乱菊の本心を分かっていないのが一つ。日番谷が強くなろうがなるまいが、彼女にとってそれは最重要ではないというのに。親の心子知らずか、と苦笑しかけて、心の中で言いなおす。いや、女心は男には分からない、ということか。
―― まだ子供なのに、罪な男じゃ。
 そう思うが、口にはしてやらなかった。



* last update:2012/10/11