夜一にとってみれば、猫の姿になってよかったと思うことは数多い。
その中でも偶然ながら、毛色が黒だったのは都合がよかった。
夏はともかく、とろとろとした弱い日差しが降り注ぐ縁側で、日向ぼっこするにはぴったりだ。
くぁ……と大口を開けて欠伸をすると、顎を座布団に押しつけた。
浦原商店では、ジン太とウルルがなにやら騒いでいる。
大方、ジン太がまた無体をやらかし、ウルルを困らせているのだろう。
「ひぇぇ!」
次いで、ジン太の悲鳴が木霊した。テッサイにぶら下げられているのがオチだろう。
その後は、心地よい静寂が広がった。時折店先を通る車の音が、眠りを誘うBGMのようだ。
まるで、「ヘイワナセカイ」のように。
平和ではないのは、良くないと思う。おちおち日向ぼっこもできないからだ。
しかし、突如空を走る雷光にも似た、消しきれぬ衝動を感じることもある。
何にも執着を感じぬはずの自分が、血の匂いだけは忘れきれぬなどと……
そんな野蛮な衝動は、この小さな猫の体にできればずっと、押し隠していたいものだ。
「夜一サン、ミルク飲みます〜?」
台所の方から、間延びしきった浦原喜助の声が届く。
こんな時になると余計思うが、この男ほど緊張感のない生物はこの世にふたつとおらぬ。
「要らぬ」
短く返す。しばらくして、ぺたり・ぺたりと裸足の足音が廊下から聞こえてきた。
予想通り縁側に姿を現したのは、家の中でも帽子を深く被り、鍔の奥から目だけを光らせた、最悪に妖しい男だ。
よっこいしょ、と年寄りくさい声をかけて、夜一の横に胡坐を掻いた。
胡散臭い割に人懐こい目で、顎を座布団にくっつけたままの夜一を覗き込んでくる。
「どうしました? 気持ちよく寝てるところ、起こしちゃいましたか?」
「浦原……お主、呑気すぎじゃぞ」
今の事態を分かっておらぬのか、と聞きそうになって、止める。
この男ほど現状を分かっている者はいないというのに、この体たらく。
これ以上言い募っても無駄なことは知っているから、返事は求めない。
「生きておるのか、おらぬのか……」
主語を飛ばした独り言に、浦原が視線を向けてくる。
「だいじょーぶでしょ。黒崎サンなら死んじゃいませんよ、まだ」
まだ、か。
夜一は、浦原の顔を見返した。
視線がぶつかりあうが、にこりと笑うその表情は胡散臭いばかりで、真情がうかがえぬ。
長い付き合いなのに、ただの一度足りとも、この男の心を覗いたと思ったことはない。
ただし、それを不足とも思っていない。そもそも、他人の心を理解することは不可能。
理解したと思うのは、他人に映る己の影を見、それを相手だと錯覚するのみ。
それならば、徹頭徹尾求めない。興味もない。
夜一は、自分自身をそういう女だと自覚していた。
***
「夜一さん、浦原さん! 虚圏へ行きたいんだ、入口を開けてくれ!」
たった一日前のことなのに、何だか遠いことのように思える。
唐突に、一護、石田、チャドの三人が、浦原商店へとやってきた時のことだ。
「どっから聞きつけて来たのか知りませんが、そんなの……」
いつものようにのらりくらりと浦原が返そうとした時、ダン! と一護が足で地面を鳴らした。
粗野に見えて、そのような態度をこれまで取ったことは一度もない。明確な焦りが、その態度にはにじみ出ていた。
「悪いけど問答してる場合じゃねぇんだ。早く、井上を助けてやらねぇと……」
「さわぐな一護。それでは藍染の思うツボじゃ。すぐに殺される、ということはありえぬ」
浦原の背後から姿を見せた夜一は、逸る一護をじろりと一瞥する。
「ついてこい」
くるりと背中を向けた夜一に、
「いいんですか?」
浦原が意外そうな声をかける。夜一はめんどうくさそうに返した。
「どうせ通すくせに、まどろっこしい問答は無用じゃ」
「言っておくがの。井上織姫を連れ去った破面に、勝てる者は死神にはおらんぞ」
地下空間で虚圏の入り口を前にして、夜一は明確に告げた。石田が眉間に皺を寄せる。
「でも……井上さんを取り戻せる可能性があるからこそ、僕達を虚圏へ行かせてくれるんじゃないんですか?」
「誰にでも犬死する権利くらいはある。そう思っただけじゃ」
ぐ、と石田が言葉に詰まる。夜一は、一護、チャド、石田の顔を順番ににらみつけた。
「本当に、行くのか」
聞くのはこれで最後だ。言外にその意味を含ませて、強い口調で言い放つ。
いちはやく、一護が一歩踏み出した。
「……夜一さん。悪い。俺たちは……」
「……馬鹿者、儂に謝る必要はない」
頭を掻き、匙を投げる。すまねぇ、と笑った一護の無邪気な笑顔が、脳裏に焼きついていた。
***
「後悔、してるんですか? 黒崎サン達を行かせたことを」
馬鹿な、と夜一は一笑しようとした。後悔など、自分には無縁な感情だ。
しかし、そう聞かれるような表情をしているということだろう。
「……確かに、一護達だけでは勝算はないじゃろう。だから儂は敢えて、一護に穿界門の存在を伝えてはおらんかったのじゃ」
「……でも、黒崎サン達は来た。隊長しか知らないはずなのに。どなたでしょうね口を割ったのは」
確かに、と思う。
秩序の遵守を何よりも重んじる死神の社会において、模範たるべき隊長がそれを破るなど、普通ではない。
それなのに、自分はどこかで「それ」が起こるのを待っていた。
「時代は変わる。死神も、変った。一護を無駄死にはさせぬじゃろう」
死神が動かねば、一護は死ぬ。動けば、可能性が出てくる。
鉄壁とも言えた「死神の掟」。それを守るなら死神は動かない。しかし今回、頂点である隊長格が一人、その壁を越えた。
「……来たようじゃの」
祈るなど自分らしくないと夜一は思う。身を起こし、後ろ足で立ち上がる。
立ち上がりきった時には、姿を人型に変えていた。
こんないい女の全裸を見ても、赤面さえしないこの男は、変人だと思う。
居間に脱ぎ散らしてあった服を、手早く身につける。
人型を手にした浦原を振り返り、頷いた。
浦原と共に、巨大な地下空間へと降り立つ。
そこですぐに目に入ったのは、銀色に輝く髪と、死覇装をまとった黒い背中だった。
隊長のトレードマークとも言える、隊首羽織は身につけていない。
しばらく本業を休むくらいの覚悟で、ここに来ているのだろう。
近づいてくるこちらの気配に気がつかないはずはないが、二人に背中を向けたまま、微動だにしない。
はっと胸を衝かれるほど、小さな背中だった。
きっと黒崎夏梨や遊子よりも、外見年齢は下。もしかしたら、一護たちとそれほど実年齢も変わらないのかもしれない。
少年……日番谷冬獅郎の視線の先には、宙に浮かんだ巨大な穿界門があった。
ちょうど一日前、一護たちが虚圏へ乗り込んだ入口だ。
ざっ、と砂を鳴らして背後に歩み寄った浦原が、話の続きのような軽い調子で、声をかけた。
「……気は焦るでしょうねぇ。見てみぬフリしますから、追いかけてみます? 虚圏は砂の世界だ、アナタの能力はきっと役立ちますよ」
そんなこと言って、本当に向ったらどうする気だ。夜一が口を挟もうとした時、少年の割に低いアルトが返した。
「大丈夫だ。氷雪系なら朽木ルキアが行った」
「でも朽木サン、席無しのヒラ隊員ですよ」
「あいつは弱くねぇ。場数を踏めば化けられる」
「それ聞いたら喜びますよ、朽木サン」
浦原は横に並ぶと、前を見つめたままの日番谷冬獅郎を見下ろして、ニヤリと笑った。
「ここで踏ん張る覚悟、出来てるみたいッスね」
ほぉ。
振り返った瞳に満たされた翡翠に、思わず息が漏れる。
擦れっからし揃いの隊長の中にいるとは思えぬ、底まで澄んだ色をしていた。
相手の心をも奥まで貫いてくるような彩(いろ)に、こちらの方が心を揺さぶられてしまいそうだ。
「ここに、斬魂刀を具現化する神具があると聞いた。それか?」
「うむ」
夜一は浦原が手にした白い人型を振り返り、頷く。
「お主の事情はざっくりと、総隊長から聞いておる。この道具に斬魂刀を突き立てることで、斬魂刀の具現化が可能。
心行くまで対話せい。多少暴れてもここは丈夫じゃ」
「ああ。恩に着る」
生意気盛りの少年らしい気質を、十二分に持った人物。
そんな噂が嘘に思えるほど律儀に、日番谷少年は頷いた。
「おぅ、危ないっスね」
すぐ隣にいた浦原が、とっさに後ろに下がる。不用意に突っ立っていた夜一も同様だった。
ただ、スラリと刀を抜き放ち、ゆったりとした足取りで歩いてきた、それだけだ。
しかし、それだけでも十二分に、人を圧する力があった。
姿は子供でも、三千人を誇る死神の頂点に立つ、現役の隊長。
完全な卍解を会得していなくとも、神具を使った時点での浦原や一護とは迫力が違っている。
「こりゃ、楽しみですね」
刀の切っ先が人型に突き立つ直前、浦原がニヤリと笑うのが見えた。