「氷輪丸か! どこだ」 日番谷が辺りを見回す。声は背後から聞こえてきたようだが、はっきりしない。 夜一は立ち上がってその場を見回したが、そこには凍てついた大地が広がっているだけだ。 「一体どこに……」 浦原に向き直りかけた日番谷の肩が、ビクリと痙攣したように動いたのはその時だった。 「誰だッ!」 鋭い一喝と共に、氷輪丸の柄に手をかける。 「日番谷っ、どうした?」 「分からねぇ」 返した日番谷の声は、わずかに掠れていた。 「誰かに見られてる気がしたんだ」 「何だ? これは……霊圧、なのか」 息詰まるような沈黙の後、浦原がぽつんと言葉を落とした。普段の飄々とした空気とは真逆の、素の横顔を見せている。 「霊圧、というよりも、これは」 夜一は言葉を引き継いだ。浦原と同じく、奇妙な気持ちに包み込まれていた。 その場に少しずつ広がっていたのは、霊圧と言うには余りにも静かだった。冬の朝のように冴え冴えとした静謐な空気が、その場を覆ってゆく。 「そこにいるのか」 日番谷が刀を抜き放つ。そして、何もいないはずの一角に、切っ先を迷いなく向けた。 一体どうしたのだ、と軽々しく問いかけられぬ空気が、その表情にはあった。辺りを油断なくうかがう瞳に、今まではなかった強い緊張が浮かび出ている。 「……これは面白い。気配が一箇所にわだかまってゆく」 浦原がゆっくりと呟き、日番谷が刀で指した場所を見やった。その頃には、夜一も感じ取っていた。 まるで寒月のような凛とした気配が、一箇所に凝り固まってゆくのが、精神を研ぎ澄ませれば分かった。 その部分が、陽炎のようにゆら……と揺らめき、人の姿を形作るのに、その場の四人は同時に息を飲んだ。 「……お前は、誰だ」 刀を正眼に構えた日番谷の目が、ゆっくりと見開かれた。 「……我の名は、氷輪(ひのわ)」 一瞬、人の声とは分からなかった。深い洞窟を風が吹きぬける音を聞くような、低い、かすれた響きだった。 あっ、と声をあげそうになった時には、そこには既に一人の男が佇んでいた。まるでずっと前からそこにいたような、自然さで。 それは、人間なら年のころ50代くらいの、初老の男だった。 生成りの着物を3枚ほどゆったりと重ねている姿は、まるで白い死覇装をまとっているかのようだ。首からは何連も連なる長い黒数珠をかけている。 まるで修行僧のようだ、と思ったのは、その服装もさることながら、男の醸し出す空気も原因だった。 口の脇や眉間など顔のあちこちに、彫刻刀で掘り込んだような、きっぱりとした皺が刻まれている。 それは老いというよりも、その男の雰囲気に断固とした意思を添えているように見えた。 ただ、殺意も敵意も感じない。穏やかな、と言ってもいい気配が、日番谷の緊張と比べて不釣合いに見えた。 切れ長で、二重の瞳がゆっくりと開けられる。濃い茶色の瞳が、日番谷の前にひた、と据えられた。 「氷輪……? お前は、氷輪丸なのか?」 暗闇で何かを探り当てるような、ためらいがちな言葉だった。氷輪と名乗った男は、涼しげに返す。 「そうだ。これが我の真実の姿」 男は淡々と答えると、一歩踏み出した。じゃりっ、と地面が鳴る。反射的に、日番谷は一歩下がった。 そして下がってしまった自分の足を、信じられぬように見下ろす。 やはりだ、とそれを見守っていた夜一は思う。 日番谷は緊張している。いや、これはもう「緊張している」というよりも…… 「力を手に入れたいか?」 不意に投げかけられた男の問いに、日番谷の肩がピクリと反応する。 「当たり前だ!」 男と対照的に、若々しい声だった。迷いを振り切るように、一歩大きく前に踏み出す。 「それならば我に勝利せよ。我がお前に力を貸せば……卍解をも上回る力を手にすることが出来よう」 「……それは、本当だな」 「偽りを言う理由がない」 「……そうか」 日番谷は自らの刀を、油断なく正眼に構えた。 「姿が変わろうが、中身は氷龍と同じなんだろ? じゃあ勝てねぇはずはねぇ」 この少年らしからぬ断定の仕方だ。聞いていた夜一がそう思った時。 男の口元が、にぃ、とつりあがった。 暴風のように唐突に、その男の気配が変わったのは一瞬のことだった。 「くく……はははははは!!」 さっきまでの静謐を一瞬で破壊し、狂ったように男は笑い出した。 「――っ!」 日番谷がその場から飛びのく。まるで突発的な火山の噴火のように、男の霊圧がいきなり跳ね上がったからだ。 「何……っ!」 笑声に反応するように、地面が地割れを起こす。割れた地面からは次々と氷の塊が噴出してくる。 ピシッ、という音に顔を上げると、大気中に跳ね上げられた岩が一瞬で凍りつくのが見えた。温度が、急速に下がってゆく。 吹き付ける烈風に、夜一は顔を腕で庇った。 「痛っ……」 庇った腕に鋭い痛みが走り薄く目を開けると、腕が見る見る間に凍りつくのが見えた。 「ここから離れましょう。凍死なんて旬じゃない死に方はゴメンです」 夜一の腕を、背後から浦原が引っ張る。 「バカヤロウッ、早く下がれ! 浦原、四楓院!」 斬魂刀を眼前に構えた日番谷が、前に降り立った。さすが氷雪系の力を操るだけあって、全く凍りついてはいない。 「この場は俺が押さえる。だから――」 そこまで言った時だった。男が、日番谷に向って指先を向けたように見えた。 「ひつ――」 浦原が呼びかけようとした刹那、日番谷の頬が血を吹いた。 「……っ?」 頬を流れる血をを拳で乱暴に拭うと、男に向き直る。そして自分に向けられた指先を、信じられぬように見返した。 閃光が走ったようにしか、夜一の目にも見えなかった。 「屈服させる、俺が押さえる、とさっきから聞いていれば……誰が、誰を?」 男の瞳の奥に潜んでいる狂気が、露になる。 「くだらぬ冗談を言っておると……殺すぞ」 どういうことだ、と浦原が口の中で呟くのが分かった。 「日番谷隊長、本当に逃げた方がいい。……あの男、アナタより遥かに強い。いや、この場の誰も、あの男に勝つことなんてできない」 「お前らだけで逃げろ」 日番谷は間髪入れず返した。 「あいつを呼び出したのは俺だ。俺が始末をつける」 逃げろ、と言うことは。日番谷にも分かっているのだ、このどうしようもない実力差が。 「お主も退け! ここで犬死して零になるよりはマシじゃ!」 夜一は小さな肩をガッと掴んだ。この男を倒すのが力を得るのに必要だというなら、それは時期尚早ということだ。 だが、何年も修行を積めば、いつか匹敵する力を身につけられるかもしれない。しかし、日番谷はその手を振り払った。 「今だって零と同じだっ!」 爛々と輝く翡翠の瞳が、夜一に向けられた。 「破面からソウル・ソサエティを護れねぇなら、今の力は『零』なんだ。強くなる道があるのに、背を向けるなんてできるか!」 「馬鹿者が……」 こんな顔をする奴を、止めるだけ無駄だということは一護の時に学習している。 自分たちにできるのは、男が本気で日番谷を「殺す」つもりなら、それを阻止することのみ。 「ソウル・ソサエティを護る、か」 ざっ、と足音が響き、一斉に身構える。 「死神は皆、そう言う。美しい言葉だ」 気づけば、その腰には一振りの刀を帯びていた。 ―― 氷輪丸! その刀は、日番谷が構えている刀と瓜二つ。軽々と、慣れた手つきで鞘から引き抜く。 「ただし、そんな綺麗事を言っているうちは、我は絶対に倒せぬ」 「綺麗事、だと?」 「死神の矜持は、『終わらせる』ことだ。敵を殲滅(せんめつ)し、あるべきものをあるべき場所に収める、それだけだろう? お前の中から我が『見てきた』風景は、いつもそうだった。お前には違うものが映っていたのか?」 「違う」 夜一は、思わず日番谷の背中を見つめた。 「俺はそんなものは見ちゃいない。いつだって終わらせるためじゃなく、続けていくために……始めるために、俺たちは戦ってきたんだ」 この少年は、根はとても優しいのかもしれないな。こんな時なのに、夜一はそう思った。 戦う理由には、常に手が届く場所にいる誰かの姿が、透けて見えるようだ。 「……浦原。絶対に日番谷を死なせてはならんぞ」 「承知してますよ」 「ふん……」 男はむしろ満足そうに、笑みを広げた。しかし、その瞳から見える殺気はどんどんと増している。 「我は、お前のそういう甘さを嫌いではない。だがそれでは、我には決して勝てぬ」 「やってみなきゃ、分からねぇ」 向き合った二人が同時に体勢を低め、氷輪丸を向け合う。まるでシンメトリーのように、二人の動きは瓜二つだった。 「言葉で語る場面は終わりだ。かかってこい」
この話に書いてある設定は、何も信じないでください第一弾。 原作では、氷輪丸の本体は龍の姿で、人型ではありません。 もちろん、ヒノワなんて名前でもありません。普通に「氷輪丸」です。 本気にしちゃいやんっ、なのです。
[2009年 5月 10日]