ぐい、と頬をぬぐうと、ざらりとした砂が手の甲に触れた。
腕を伝った汗がぽたぽたと砂に落ちて濃い色を作ったが、あっという間に、何もなかったように元の白に戻る。
荒い息も、剣戟も、自分達の体さえも、全部砂の中に吸い込まれてしいそうだった。

一護は重みを増したように感じる刀を構え、背後を振り返った。
「……っ、大丈夫か、お前ら!」
「君に……心配されるほど、落ちちゃいないよ」
そんな減らず口を叩くうちは大丈夫だと、石田に言い返す気にはならなかった。
それくらい、石田は息を切らしていたのだ。ルキア、恋次、チャドも似たような状態だった。
「……懲りない奴らだ!」
刀を手に、斬りつけてきた破面に石田は間髪いれず矢を向けたが、放とうとする直前、指が滑った。
よく見れば、とっくに爪は割れ、指先は血で濡れていた。
「石田っ!」
巨体とは裏腹に、すばやい動きで飛び出してきたチャドが、体当たりで破面を吹き飛ばした。
破面の体は砂を転がったが、すぐに起き直る。構えなおした刃に鮮血が滴っているのに、一護は息を飲んだ。

「茶渡君、大丈夫か!」
倒れざまに斬りつけられたのだろう、チャドの右肩には、遠目でも出血がはっきりとにじんでいる。
「茶渡、石田!」
ルキアがとっさに駆け寄ろうとしたが、何体もの破面に行方を阻まれる。
「危ねぇ!」
恋次が斬魂刀を振い、破面を追い散らす。充血した目が一護を捉えた。
「一護、このままじゃ押し込まれるぞ!」
「退がれ!」
一護は声を上げ、恋次と並ぶ。そして、疲労が著しいほかの三人を背後に庇った。
すでに、二週間近く、ほぼ休みなしで戦い続けている。その上で、何十体もの破面に畳み掛けられる、この状態が長持ちするはずがなかった。

「絶対多数の敵を相手に、まとまるのは戦法として感心しないわ」
女王のような余裕を見せて歩み寄ってくるネリエルを、一護は睨みつけた。
さっきから、破面が一護達を襲うのを見守るばかりで、自分は手も下していない。
ネリエルの背後には、いままで倒した破面とは比べ物にならない数が、わらわらと湧き出してくる。

甘かったか。ようやく一護は、その考えにたどり着いた。
―― 「殺し合いになる、っつってんだよ」
戦いが始まる前、現世で日番谷が言った言葉を思い出す。
わかったつもりでいた。でも、心のどこかで、自分や仲間が死ぬ、ということにピンと来なかった自分がいた。

「……朽木さん、阿散井。君たち、まだ動けるね」
不意に、石田が二人を見やる。ルキアと恋次は訝しげに砂に汚れた顔を見合わせ、それぞれ頷いた。石田は、服の裾を細かく裂き、血がにじむ指先にきつく巻きつけながら続けた。
「このままじゃ共倒れだ。君達は、一旦瀞霊廷に戻って、助けを呼んでくれないか。……井上さんは、僕らの仲間だから、僕らが……」
その言葉は、二人だけでも逃がそうとする石田の気遣いだったに違いない。
しかし、石田の言葉は、袖白雪の切っ先をつきつけたルキアの無言によってさえぎられる。

「なんだ、仲間割れはみっとねぇぞ!」
破面たちがはやし立てるのが耳にも入らないように、ルキアは石田をキッとにらみつけたまま動かない。
「井上は私達の仲間でもある。それなのに、助けられもせずにおめおめと逃げ帰れというか。
馬鹿にしないでもらおう。戻るのなら、井上も、お前達も一緒だ」
疲弊しきっていると思えないほどに、凛と澄んだ声だった。それ以上の問答は不要だと、その声音がはっきりと物語っていた。
わずかにルキアは微笑むと、刀の切っ先を下ろす。
「そういうことだ」
恋次はこの期に及んでニヤリと笑うと、視線を前に戻す。

一護は、なんとも名前がつけづらい感情に、ぎりりと唇を噛んだ。
いつの間にか、傍にいるのが当たり前だと思っていた連中だった。まるで、空気のように。
でも、本当にかけがえのない仲間だ。今まで考えもしなかったことが、不意に胸に突き上げた。
こんなギリギリに追い詰められて、それを思い知るなんて。

「万策尽きたようね」
ネリエルが四人を無表情に見下ろす。そしてこともなげに続けた。
「投降しなさい」
その言葉に、耳を疑った。今までの経緯を見れば、当然殺しに来るものだと思っていた。
「どういうことだ!」
石田の問いに、
「勘違いしないで」
ぴしゃりとネリエルが返した。
「人質に使うためよ。死神の出方が分らない以上、むやみに殺すのは得策ではないから」
どうする? 思わず、四人は顔を見合わせる。
この状況で戦い続け、四人全員が生きて突破するのは絶望的な状態だ。
捉まった振りをして、力を温存したほうが可能性は、あるのか。
あの虚夜宮の中に幽閉されれば、織姫に近づくことも出来る。

「バカか。敵は殺す、それだけだろうが!」
いきなり、野卑な声が砂漠を貫いた。全く聞き覚えのない声に、一護は声が聞こえたネリエルの背後を見やる。
その人影が見えた途端、ぞうっ、と背筋が粟立った。
岩場の向こうから歩いてきたのは、まるで挿絵で見た死神のように、三日月型の巨大な刃を担いだ男だった。黒髪は肩より長く、肌の色は蝋人形のように白い。酷薄な笑みが、その頬に浮かんでいた。
「新手、かよ」
どうやら、ネリエルと同じレベルらしい。ということは、十刃か。一護は刀を手に、一歩前に出た。

「……ノイトラ」
仲間に向けるとは思えない険しい視線を、ネリエルはその男に向けた。
「もう一度言うわ。今、この死神達を殺すのは得策ではないわ。なぜなら……」
ネリエルの言葉は、さえぎられた。
「そういう、てめえの甘っちょろいところがムカつくんだよ!」
ノイトラと呼ばれた男が、寸分のためらいもなくネリエルに向かって、その三日月形の鎌を振り上げたからだ。

ネリエルはあらかじめ予想でもしていたのか、驚いた表情は見せなかった。
危なげもなく、巨大な槍を自分の前に翳すと、鎌の一撃を受け止める。
しかし、その勢いは殺しきれなかったか、その花車な体は大きく背後に吹き飛ばされ、砂の上に着地した。

「さてと。邪魔はいなくなったぜ」
ゆっくりとノイトラが歩み寄る。破面達は、恐れをなしたように彼に道を譲った。
ノイトラの細く釣りあがった双眸が、順番に死神たちを捉える。そして、一護と目が合ったところで、止まった。
「てめえが一番強ぇのか?」
吹き付けてくるような殺気。それが、ノイトラを見た途端に戦慄した理由だった。
まるで、肉食獣と向き合っているようだ。

「……俺がやる。下がってろ」
「一護!」
ルキアに呼ばれたが、どこか遠くから聞こえた気がした。
きぃん、と耳鳴りに似た音が、聞こえている。
視界には、刀を構えたノイトラしか見えない。
冬の朝の冷たい空気のような、純粋な殺気が頬を打つ。
―― こいつを、倒さなければ。一歩も前に進めねぇ!
覚悟を決めた瞬間、耳鳴りのような音は、消えた。
絶対的な静寂。心のどこかで、それが心地いいとも思う自分がいた。

「……井上はどこだ」
一護の静かとも言える問いに、ノイトラはゲラゲラと笑った。
「なんだてめえら、本気で人間一人のためにここまで来たのかよ、くだらねぇ。
もうとっくに、藍染の奴が殺してんじゃ……」
目にも留まらぬスピードで、一護が手にした刃を横一文字に引いた。
同時に、ノイトラは背後に素早く飛びのく。
しかし、その頬には一文字の赤い線が刻まれた。すぐに、鮮血が頬をぬらす。
「……そんなツラもできんじゃねぇか、死神」
長い舌で頬を流れる血を舐めとり、ノイトラは愉悦に近い表情を浮かべる。

―― 何を、ためらってたんだ、俺は。
ゆっくりと右手の掌で、顔を覆う。
こいつらと同じ姿になることに、迷いを感じるなんて。
俺は第一に人間で、第二に死神なんだと。それ以外の何者でもないはずだと、もう一つ現れた自分の貌(かお)を、恐れていた。
でも、どんな姿になっても、俺は、俺だ。
掌の下に、冷たい仮面が触れる。死神の時よりも獰猛な霊圧が、全身から放たれるのを感じる。

「……任せたぞ、一護」
その声に、思わず振り返る。仮面の奥から見返すと、ルキアのいつもと変わらぬ瞳があった。
「おう」
頷くと、目を剥いたノイトラに向き直る。
「な……んだ? その仮面。てめえ、破面か?」
「どうでもいいだろ、そんなこと」
凶暴ともいえる力が、腕に、漆黒の刃に集まってゆく。
「……斬月」
そう、俺は月を斬る。そして、世界を闇に堕とすんだ。
振り下ろした刃は、闇色の衝撃波を生み出す。ノイトラの体を、あっという間に呑みこんだ。