俺は、細い路地を抜け、路地裏に置かれた箱をひっくり返し、逃げ続ける。
ぜぇ、ぜぇ、と息が弾む。

「おや、誰かね、今走っていったのは」
あの声は、俺を育ててくれた人だ。
でも、目を合わせたらいけない。姿を見られてもいけない。
俺が誰か知られたら……分かってしまうから。
俺がもう、一番ではなくなってしまったことに。

全ての人の目から逃れたはずなのに。
背中の辺りに、誰かの視線を感じて、俺は走り続けた。
―― 「……草冠」
走って、走りぬいて、もう振り切っただろうと思い、俺は立ち止まる。
―― 「おい、草冠!」
聞き覚えのある声に呼ばれた気がして、今度こそ振り返る。
息を切らせて周囲を見回したが、大丈夫だ、誰もいない。
そう思ってホッと息をついた時……空に、蒼碧の瞳が、ぽっかりと浮かんでいるのに気づいた。


「起きろ、草冠!いつまで寝て……」
ハッ、と俺は目を見開いた。見慣れた茶色の天井。
そして、俺を至近距離から見下ろしていたのは――蒼碧の瞳。
それを視界に捕らえたと思った瞬間、ガバッと身を起こしていた。
「オイ……?」
少年の目が、驚愕に見開かれるよりも早く。その襟元をガッと掴み、押し倒していた。

少年の華奢な背中が、後ろの柱にぶち当たって、止まった。
ハァ、ゼェ、と弾む2人の息が、交差する。
「草冠……どうした」
それは、思いがけず静かな声。
その声に、俺の意識は一気に、夢から現実に引き戻された。
「冬獅郎……!」
顔を上げ、自分がまだ、冬獅郎の襟元をねじり上げ、押さえつけたままだということに気づく。


「す! すまない……!」
慌てて襟から手を放し、体を起こすのに手を貸してやる。
「びっくりしたぜ、いきなり掴みかかってくるから」
そう言って俺を見上げてくる冬獅郎の瞳に、警戒の色は微塵もない。
その穏やかな目を見て、心がきりりと痛む。嫌でも、さっきの夢を思い出してしまう。

「本当にすまない。嫌な夢を、見ていたんだ」
その蒼碧の瞳から、目を逸らす。
「気にしちゃいねえよ。お前は、トモダチだからな」
見上げると、冬獅郎は微笑んでいた。
「行こうぜ。試験が始まる」


***


真央霊術院も卒業前年ともなると、試験の回数が増える。
実際には、試験に名を借りた、護廷十三隊や隠密機動の青田買いだ。
そこでいい成績を残せば、卒業を待たずして、護廷十三隊に配属になることも多い。

「見ろよ、山本総隊長までいるぜ」
冬獅郎は、チラリ、と目で修練場の向こうを示して見せた。
ちょうど的の後ろにあたる場所だ。
そこに目をやると、確かに、白い髭を胸の辺りまで伸ばした老人が見えた。
その姿を見て、ぶる、と肩が震える。

他の生徒も似たり寄ったりで、死神勢の観客の多さに、固まっている者が多かった。
―― ここで、結果を出せば、死神になれる……!
横目で、隣に立つ冬獅郎を見下ろす。
長年ライバルと言われていたが、力の差が開いてきたこの少年に、追いつけるチャンス。


日番谷冬獅郎に会った時、初めは、憧れた。
「天才」と自分が言われるたび、違和感を感じた原因を見つけたと思った。
本物の天才は、ここにいる。そう思った。
そのときは、まだ知らなかったのだ。
天賦の才を持つものの近くにいる、恐ろしさを。


俺は、睨むように、修練場の先にある的を見やった。
結界によって護られた特殊な的だ。生半な攻撃ではビクともしない。
それを、どれだけ早く、どれだけ完璧に消し去ることができるか。
それによって、霊圧を測定するのだ。
護廷十三隊に入れる最低レベルで、十等霊威。
それを越えれば、護廷十三隊への道が開ける可能性があった。


「それでは、始める! 一番手、天野佐助!」
「ハイ!」
張り詰めた声が、修練場内に跳ね返る。
50メートルほど先の的を狙う少年の手が、軽く震えているのを俺は捕らえた。
「君臨者よ、血肉の仮面・万象・羽搏き・ヒトの名を冠す者よ、焦熱と争乱、海隔て逆巻き南へと歩を進めよ……破道の三十一、赤火砲!!」
それは、一年目に習う、初歩中の初歩の鬼道。
しかし、ヘタに威力は強くても、難易度も高い技を使うよりは、確実かもしれない。

緊張しきっていた割に、その一撃は成功した、ように見えた。
でも……煙の奥から現れた的に、俺達は一様に、愕然とする。
的には、傷一つついていなかったからだ。
「ぺいっ!」
ざわめいた修練場内を静まり返らせたのは、山本総隊長の一言だった。
「甘い! 全くもって甘いわい。今のだと、百等霊威くらいか?一年からやり直せ!」

バカな……
今の一撃は、真央霊術院の中では、「優」をつけられるべき一撃だ。
全く、護廷十三隊は次元が違うとでも言うのか?


その、俺の焦燥を裏付けるように、級友達が、次々と入隊には程遠い成績をつけられてゆく。
「なーんだ、興ざめだな、今年の学生は」
死神たちから、そんな声が聞こえ……俺は思わず、そちらに向かって立ち上がった。
「草冠」
それを止めたのは、冬獅郎の一言だった。
「文句言ったところで、奴等は黙らねえよ。アイツらを黙らせられるのは……」
「十五番、草冠宗次郎!」
冬獅郎の声に、教官の声がかぶさった。
「分かってる」
俺は、冬獅郎に頷いて見せた。こんな時なのに、全く動揺していない。
「大したヤツだよ、お前は」
それだけ言い残して、的の前へと足を運んだ。


授業でお前と組むようになって、恐怖を覚えるようになるまで、それほど時間はかからなかった。
すぐに、夢に見るようになった。お前が、どんどん遠くに行く夢。
どんな夢よりも、お前が遠くに行ってしまうことが、辛かった。
だから。しがみついてでも、俺はお前の隣を、他のヤツには譲らない。
このテストで、きっとお前は、護廷十三隊への入隊が決まるだろうと思う。
この一番は絶対に、落せない。


スッ、と翳した手の先に、山本総隊長の顔が見える。
もう見るものは無いとばかりに、間延びした顔をしている。

「血肉の仮面・万象・羽搏き・ヒトの名を冠す者よ……」
言いなれたフレーズを唱える。両手を、まっすぐに的に向けた。
「蒼火の壁に双蓮を刻む 大火の淵を遠天にて待つ……破道の六十三、双蓮蒼火墜!!」
言い終わると同時に、蒼い炎が俺の両手から迸る。
それは、過たずに的に向かい……的のところで、炸裂した。

土煙が晴れた後を見た俺達は……同時に、歓声をあげる。
的には、破片に砕け散っていた。
「よくやったな、草冠」
小声で教官が言うと……声を張り上げた。
「草冠宗次郎、十等霊威!」
「入隊のボーダーに乗ったぞ!」
わぁっ、と周囲が沸く。


「皆、静粛に!」
場内に、教官の声が響いた。
「十六番、日番谷冬獅郎!」
その瞬間。水を打ったような沈黙が、その場を覆った。
的の向こうで、山本総隊長が座りなおすのが見えた。
死神たちが、ざわざわ、と言葉を交わす音が聞こえる。
「あれが、化物って噂の新人だぜ」
「本当にガキだな……」

やってきたのは、背筋の毛が逆立つような、緊張感。
日番谷が立ち上がり、落ち着いた足取りで、的の前へと向かう。
その場に立ったとき、その場を大声が貫いた。
「おーい! 冬獅郎!手こずるんじゃないわよ!」
「ちょ、ちょっと乱菊さん、試験中だよ……せっかく集中してるのに」
「この程度で乱される集中力じゃないでしょ。図太いし」
俺が見ると、金髪の長身の女と、黒髪で小柄な女が冬獅郎を見てた。
「松本……雛森」
冬獅郎の口から、2人の名が漏れる。
その名は、2人とも護廷十三隊の席官に違いなかった。

冬獅郎は、ふぅ、とため息を着いたらしかった。
そして、チラリ、と的に目を走らせる。
それは、耳を澄まさなければ聞き取れないほどの小声。
「雷吼炮」
その瞬間、あたりがまばゆい光に包まれた。
俺達は全員、耐え切れなくなって目を閉じる。

「……ふぅ」
一番初めに声を漏らしたのは、山本総隊長だった。
「やれやれ、せっかく伸ばしておったのに。髭が焦げてしまったわ」
「的は!」
俺は、慌てて身を乗り出して……きょろきょろと、辺りを見回した。
「的なら、消し飛んだ」
いつの間にか、学生達の列に戻ってきていた冬獅郎が、サラリと言った。

詠唱破棄して尚、この威力。
俺達が固唾を呑んで見守る中、教官は顔を紅潮させ、叫ぶように言った。
「日番谷冬獅郎、三等霊威!」
あたりが、歓声に包まれる。当然だ、三等といえば、副隊長クラスだ。
「ちょっと、シロちゃん! まだこっち、シビれてるよ〜」
悲鳴のような声に顔を上げると、黒髪の女のほうが、痺れを取るためか、手をパンパン叩いていた。
「悪ぃな」
それを見返した冬獅郎の声が、イタズラをした子供みたいに見えた。
そして。
俺と冬獅郎以外に、入隊資格者を出すことなく。試験は、終了した。


***


その日の、夜のことだった。
「日番谷冬獅郎はいるかな?」
襖の向こうから声がして、俺は立ち上がった。
同室の冬獅郎は、疲れたのかスースー寝てしまっていた。

「はい」
襖を開けた俺は、ぽかん、と目を見開いた。
そこに立っていたのは、一番隊副隊長、雀部長次郎その人だったからだ。
「日番谷は不在か?」
「はい」
俺は反射的に、嘘をついた。

「それでは、君にこれを託す。入隊受諾書だ、くれぐれも大切に扱うよう」
「は! はい!!」
俺が緊張しきってそれを受け取ると、副隊長は、少し表情を和らげて、俺を見下ろした。
「今回の試験で、通ったのは日番谷だけだ。お主も、日番谷には劣るとはいえ、努力次第で光る。精進せいよ」
「は……い」
うつむいた俺の表情を見ることなく、副隊長は身を翻し、廊下の奥に消えた。


「……」
襖を閉めることも忘れ、俺は、その受諾書に視線を落したままでいた。
―― 「日番谷には劣るといえ……」
その、副隊長が残した言葉が、耳によみがえる。

俺は、対等だと……思ってたんだ。
でも、もしかして、いつからか、そう思うのは俺だけだったのか?

俺の手にした受諾書の向こうで、無邪気な顔で眠る、冬獅郎の顔が見えた。
「君……臨者よ」
気づけば、口に出してしまっていた。一旦滑り出した言葉は、止まらない。

「血肉の仮面、万象……」
焼いてしまえばいい、こんな受諾書。
俺を置いて……お前だけ、涼しい顔して、高みに行こうなんて、許すものか。
汚い自分自身の気持ちに辟易しながら、これまでの違和感が滑り落ちていくのを感じる。
いい子ぶって、いいライバルだなんて言ってても、心では違うことを考えていた。
その蒼碧の瞳がこちらを向くたび、ささくれだった気持ちを、更に荒立てられる気がしていた。

いくら平静でいようとしても、自分と比べて、イヤになるのだ。
そして、自分をこんな思いにさせる少年に対して、ドス黒い気持ちを抱くようになっていった。
俺がやったことを知れば、冬獅郎は俺を、許さないだろう。
それでもいい、と思った。
これ以上お前に距離を開けられるくらいなら。お前と二度と会わないほうがましだ。

焼いてしまえばいい。全てを。
受諾書を握る手に、力が篭る。
その時、ふと頭をよぎる声が聞こえた。
―― 「俺達、トモダチだ」
それは……何度となく、言われ続けていた冬獅郎の言葉。

ライバルではなく、トモダチ。
お前は……知っていたのか。ずっと昔から。
俺がお前に追いつけなくなる日が来ることを。
ライバルでいられる時は限られていても、トモダチなら、ずっと変わらずにいられるから。

気づけば、手の中から、受諾書は滑り落ちていた。
畳にすべったそれに手を伸ばすこともできず、俺は畳に手を突いて……泣いた。


fin. 2010/3/17(rewrite)