その世界には、黒と白しかなかった。
闇の中、天の怒りのように、体を叩きつける雨。
愛した男の大きな掌が、私の背中に回されている。
いつか、その太い腕に、思う様抱きしめられたい。
生まれて初めて、そう思った相手だった。

「ありがとよ。心は……ここにおいてゆける」

あぁ。
そんなことを言わせるために、こんな結末のために、私は貴方を愛した訳じゃない。
こんな結末のために、死神になった訳ではないのだ。
海燕殿の胸を、深々と貫いた私の刃。
音も立てず、その体が地面にくず折れる。
「あ……あ」
私は、自分の手のひらを見つめた。
血に濡れたはずの掌は闇の中で、漆黒に見えた。
血の紅にすら染まらぬ、漆黒の闇。
「ああああ!」
泣き喚きながらも。
全てはお前のせいだという、冷たい声を聞いていた。


***


薄闇の中で、私は目を開けた。
胸はどくどくと波打っている。
これが、ただの悪夢だったらよかったのに。
でも、これは。
「現実だ……」
つぶやく声は、かすれていた。
冷たい畳を踏み、鏡の前に正座すると、青ざめた、どこか見慣れぬ女の顔が映っている。
あれから、私は笑っていない。泣いてもいない。憤りも、悲しみもしない。
感情をむける相手を、失ってしまったから。
海を軽やかに飛びぬける燕を、墜としたのは私。
私はこれからの人生を、死体のように生きていたい。


その日の午後、私は流魂街の外れにある、深い森の中を駆けていた。
あちこちに、焼け焦げた跡があり、樹齢何百年も経つであろう大木が、真っ二つに割れていた。
雷電を操る虚がここにいる、という浮竹隊長が手に入れた情報に、間違いはないのだろう。
「朽木、大丈夫か。病人みたいな顔で……休んでも構わないんだぞ」
ここに来る前、心配の色を隠しもせずに、私を見た浮竹隊長を思い出す。
「海燕を失ったお前は変わった。虚と見ると、徹底的に倒そうとするだろう」
「任務を遂行しているのみです」
そう返した私を見返した、浮竹隊長のもの言いたげな顔。
せめて同行者を、という声を振り切り、ただ一人でこの地に足を踏み入れた。

森の中心部分で、足を止めた。
木の幹と言わず、地面と言わず、緑の苔に一面に覆われた地だ。
木々の隙間から、淡い日の光が差し込んでくる様は、まるで深海のようだった。
竹筒に入れた水を、一気にあおると、喉に水が零れ落ちた。
ふぅ、と水をぬぐった瞬間。
「!」
ゾクッ!と背筋が粟立った。反射的に刀の柄に手をやっていた。

―― 虚か?
振り返った先には、ぽっかりと口をあけた、洞窟があるばかり。
ヒタ、ヒタ……と、小さな足音が耳を澄ますと聞こえてくる。
「……物騒だな」
日の光を浴び、洞窟から出てきた少年の髪が、銀色に輝いた。
驚くほど鮮やかな、翡翠色の瞳が、まっすぐに私を捉えていた。
漆黒の死覇装に身を包んでいるところからして、子供ながら同業者か。
「ばっ……馬鹿者! どうしてこんな所にいる?」
驚いた分、大きな声が口をついて出た。
「どうしてって」
「この場所は危険だ。すぐに立ち去れ!」
少年は、私の言葉におびえた様子も見せず、それどころか驚いたようにさえ見えなかった。
その代わりに、すぅ、と右手があがる。人差し指が、私の背後をピタリと指した。
「そういう虚がいるからか?」

え?

「その気配」を感じ取るには、一瞬の間を要した。
感じ取るとほぼ同時に、私は地面を蹴り、少年のほうに跳んでいた。
私よりも一回りは小さい肩をつかみ、少年を庇って地面に転がった。
ダン!!
さっきまで私たちがいた場所に、巨大な足が振り下ろされた。

身の丈5メートル以上の、虫のような顔をした虚が、私たちを見つめていた。
唾液が滴る舌が、チロチロと真っ赤な口からはみ出している。
その体には、白い光……稲妻がはじけているのが見えた。
―― どうしてだ……なぜ、気がつかなかった?
刀を抜き放ちながら、私は虚と向き合った。
改めて向かい合えば、その虚に、霊圧を消すなどと言う芸当が出来ないのは一目瞭然なのに。

「……強いぜ。この虚」
傍らの少年が、虚を見て呟いた。
「少年、お前は隠れていろ。この虚は私が倒す」
「でも、お前よりもこの虚は……」
「絶対に手を出すな」
私は、自分を見上げてくる少年の顔を見返した。睨み付けた、といってもいい。
年長者として少年を助けなければ、という気持ちはもちろんあったが、
それよりも強く、この虚を徹底的に倒したい、と願っていたのは、確か。
私の気配に尋常ではないものを感じ取ったのか、少年が下がった。
「虚は……絶対に許さない。私が倒す」
私は虚に向かい、刀を正眼に構えた。


バシッ、と音を立て、稲妻が木の幹にはじけた。
静かな森の中に、光が明滅し、炎が地面を舐める。
「ちっ!」
私は、突きたてようとした刃を弾かれ、地面に飛び降りた。
―― 何という硬い体だ……
死覇装に燃え移ろうとした炎を、斬魂刀の一振りで消す。
私の斬魂刀、袖白雪は「氷雪系」の力を持つ。
物を燃やし尽くす力を持つ雷電の虚との相性は、決して悪くはない。
しかし……これほどまでの力を持っているとは。

「お前は弱いな……死神」
ぬらり、と開いた虚の口から、エコーがかったような声が放たれた。
おそらくあざ笑ったのだろう、その口角がわずかに上がった。
「……くそ」
ぎり、と柄を握る両手に力を込めた。
「強くなりたい……」
こんな虚、一撃でなぎ払っただろう海燕殿のように。
鬱々とした仮面の底で、あがく自分の体温を感じる。

シニタイ、シニタクナイ。
そんな終わりのない螺旋から抜け出したい。

「私は……強くなりたい!」
刀を振りかぶった、その時だった。
ひゅん、と虚の巨大な体が、軽々と跳躍した。
「何……」
振り返った私が見たのは、その巨大な拳を振り上げ、打ち下ろそうとする虚の姿。
そして、その先にいる、虚の拳よりも小さな少年の姿。
「ば――」
馬鹿者! 叫ぶ間もなく、私は少年の元へと走った。

「逃げろ!」
足がすくんでいるのか、微動だにしない少年に手が触れようとした時、目の前が暗くなった。
振り向いた私の眼前に、その拳が迫る。私はとっさに、目をつぶった。
「……なに?」
その数瞬が、十秒にも、一分にも感じ……私はふと、目を開けた。
襲いくるはずの衝撃は、来なかった。
振り返った私の眼に映ったのは……数センチ先に迫った拳。
そして、その拳を受け止めていたのは、その拳の百分の一くらいしかない、小さな掌だった。

「お前……」
少年の翡翠の瞳が、チラリと私を見やった。
「俺がやる」
だらりと下げた右手が、青白い光芒に包まれる……と同時に、恐ろしい霊圧が周囲を制した。
その光が、やがて一本の刃の形を作り始めた。

―― そうか。
その時になって私は気づいた。
ゾクリとして振り向いた先にこの少年がいたのは、気のせいではなかった。
そして、虚の気配に全く気づかなかったのは……虚よりも遥かに強い、この霊圧があったからだ。
「なに……」
少年の掌に触れられた拳が、一瞬のうちに氷に覆われた。
氷は腕を伝い、肩を覆い、瞬きをするうちに顔へと迫っていた。
「貴様……」
虚が拳を離した時、少年は手にした刃を軽く、その場で一閃させた。
「なに……ものだ」
刀が生み出した衝撃波。たったそれだけの動きで、ピシッ、と虚の体に、一本の線が入った。
そして、やけにゆっくりと、その体が血を撒き散らし、地響きを立てて、地面に倒れる。
虚の濁った瞳と、少年の澄んだ瞳が交差する。

「俺は、日番谷冬獅郎。」

―― なに?
その名に、私は瞠目する。
日番谷冬獅郎。それは、つい一ヶ月前、十番隊の隊長に就任したという者の名だ。
年若いとは聞いていたが、これほど幼さの残る少年だったとは。
虚の体がピクリとも動かなくなったのを確認し、少年は私のほうを振り向いた。

「失礼致しました。ひつ……がや、隊長」
私の呼びかけに、戸惑ったような顔をしたのは、一瞬。
「あぁ。大丈夫か」
すぐに「隊長」の貌になり、私を見返した。
「どうして、ここに」
「朽木白哉に頼まれた」
「……え」
思いもかけない名に、私の思考がとまる。
海燕殿を私が手にかけた後、兄様と私は、ほとんど口らしい口を利いていない。
兄様が、海燕殿を遠ざけながらも、どこか憧憬に似た瞳を向けていたのを、知っていたから。

「お前は朽木の妹で、浮竹の部下だろう。上官を失おうが、お前の役割は続いてるんだ。
一人でもお前を求める人間がいる以上、死ぬんじゃねえ」

ぶっきら棒な口調で、日番谷隊長が私に言った。
それは、もしも慰めだとしたら、なんと不器用な表現なのだろう、と思う。
それでも。その声は、迷い続けた私の心に、よく通った。
「……はい」
凍てついていた心に、ほんの少しだけ、光が当たる。
おそらく私は、微笑もうとしたのだろうか――

 
***
 

無機質な電子音に、私はハッと目を開けた。
そこは、薄暗く狭い空間だ。
その場所が、一護の部屋の物置の中だ、と気づくのに、しばらく時間がかかった。

―― なんだ、また夢だったのか……

寝ぼけながら、着信音を鳴らし続ける伝令神機を手に取った。
「もしもし! ルキアか。俺だ!」
聞こえてきたのは、恋次の声。私が完全に覚醒し切る前に、恋次は息せき切って告げた。
「日番谷隊長に、処刑命令が出たぞ!」
あぁ。
私は、また、悪夢の中なのか?
スルリ、と私の手から伝令神機が滑り落ちる。
「これも、現実か」
覚めない現実(ゆめ)に、私はどうすることもできず凍りついた。



fin. 2010/3/17(rewrite)