2月23日、午後。
木々を揺らす木枯らしの音に、日番谷はハッと目を覚ました。
真っ先に視界に映ったのは、粗末な木の板をつなぎ合わせただけの天井。
ところどころ隙間が開いた壁の隙間からは、身も凍るような冷たい風が吹き込んでいた。
わずかに見える外では、ちぎれた綿のような乾いた雪が舞っているようだった。
朝か昼か、夕方かも分からぬ、ただ薄暗い光が、うっすらと差し込んでいる。
―― ここはどこだ?俺はどうして・・・
体を起こそうとした瞬間、
「動かないで」
感情の伴わない声が、日番谷の動きを止めた。
その時になってやっと、日番谷は自分の喉元に突きつけられた氷輪丸の刃先に気づいた。
「・・・揚羽」
ピクリとも体を動かせないまま、日番谷は揚羽の顔を見上げた。
その顔は、驚くほどやつれていた。
体が一回り小さくなったように見えるくらいだ。
目の下には暗い影が差し、いつも笑みを湛えていた口元は、引き結ばれている。
日番谷は、目だけを動かして自分の状況を見て取る。
床の上に藁や萱を敷き詰めた上に、ずっと寝かされていたようだった。
体の上には、隊首羽織がかけられている。
胸の傷には、包帯が巻かれているらしかった。
―― コイツ、俺を助けたのか・・・?
「バカよね、ほんと」
その日番谷の心の声を聞いたかのように、かすれた声で揚羽は呟いた。
「父親じゃなく、仲間じゃなく、あんたを助けるなんて。
みんなに手をかけるなら、絶対に容赦しないって・・・戦いの前には思ってたのに。あたし自身がもう、わからないよ」
日番谷は、氷輪丸の刀身にスッと手をやり、切っ先を自分の首からずらす。
そして、胸の痛みに顔をゆがめながらも、何とか上半身を起こした。
揚羽は、抗うことも手を貸すこともせず、ただぼんやりと日番谷を見守っているだけだった。
「戦いは・・・どうなったんだ?」
日番谷が気を失ったのは、大勢が決してからだった。
しかし、あれから死神がどうなったのか、天道教がどういう末路をたどったのか、記憶はぷっつりと途絶えている。
「殺されたわよ」
揚羽の声音は、ゾッとするほど平坦だった。
床に向けられた揚羽の視線は、日番谷の顔の上を、まるで風景の一部のように通り過ぎた。
「殺されたのよ、全員。あたし以外ひとり残らず」
揚羽の細くなってしまった腕が、ゆっくりと氷輪丸を床に戻した。
怒りを納めた・・・というよりも、それに意味が見出せない、そんな素振りだった。
ぼんやり、と揚羽は日番谷の顔を見て・・・そして、焦点が突然、日番谷の顔に合わせられる。
「なんで・・・?」
その表情が、初めて感情をあらわす。揚羽は日番谷の顔を凝視した。
「なんで、あんたが泣くの・・・?」
日番谷は、視線を下に落とすと、唇をかみ締めた。
凍りついたように動かない二人の間で、まるで唯一の生き物のように、涙が、床に落ちた。
反射的に揚羽の腰が浮いた。
そして、日番谷の胸倉を掴み、ぐっと持ち上げて自分の顔の前に突きつけた。
力の入らない首がガクリと後ろに倒れ、水滴が散った。
「死神が・・・あんたがやったんでしょ!殺したんでしょ!あんたに泣く権利なんて無い!」
ガッ!と無意識のうちに、床に転がしていた氷輪丸の柄を握り締めていた。
「今すぐここから出て行って!でないと殺すわよ!!」
「・・・そうしろよ。それで気が済むなら。何度だって刺せばいい」
ぴたり、と揚羽が動きを止めた。
「本気で言ってるの・・・?」
そして、唾を飲み込む。
反らした喉を、血糊がくっきりと残る胸元を見る。
刺す?
殺すのか?
あたしが?
「・・・できないよ」
カラリ、とその手から刀が転がり落ちた。
はぁ、はぁ、と荒げた二人の呼吸が、引き合うように狭い空間に木霊する。
揚羽は、光が消えたように曇った、日番谷の瞳を見据えた。
「なんで、こんなことが出来るのよ。
平和に生きてた人たちを殺すどんな正義が、この世に在るのよ。
天道教の人達はね。皆、力弱くても他の皆の光になれるよう精一杯生きていたのよ。それなのに何で」
太陽と名乗り、近づきすぎて、その翼をもがれた。
そんな結末は、哀しすぎる。
「・・・お前の父親が言っていた。
何も自分達が光となるために、天道と名乗ったわけじゃないと」
黙っていた日番谷が、ゆっくりと口を開いた。
「光になるには、あいつらは穢れすぎた。そう、あいつは言っていたんだ。
昔自分達がやった『あること』を、絶対に許すことができないと」
「あること・・・?」
「それは、お前だけが知らない」
日番谷は、そう断じた。
「・・・あんた。父様から何を聞いたの?」
「俺は聞いたんだ。じゃあなんで、天道なんて名乗るんだって」
日番谷は瞳を閉じる。
もうこの世のどこにもないその口元の動きを、思い出そうとする。
「『何も自分達が光となるために、天道と名乗ったわけじゃないんだ。
揚羽をほんの少しでも光に近いほうへと、押しやりたかっただけなんだ。
そのためだったら、引き換えに自分達が、二度と戻れない闇に堕ちてもかまわない』」
甘んじて死を受け入れたのは、彼らに信じるものがまだ残っていたからだ。
そしてそれを、清十郎は最後の夜に、日番谷に託した。
「『太陽でいてくれ、揚羽』」
そんな言葉俺が言っても、伝わるはずが無いだろうが。
日番谷は、あの時そう言った。
自分で言えばいいだろうが。
そういった日番谷に、あの男は静かに微笑んだだけだった。
そして言った。「頼むぞ」と。
揚羽が無表情が凍りつき、床に視線を落す。
ゆがんだ口元から、吐息のような声が・・・すぐに、嗚咽が漏れた。
「重いよ・・・」
それは、一旦涙を見せたが最期、二度と止まらないんだとでもいうように。
必死に喉の奥に慟哭を押し込めようとしていた。
日番谷は無言で、揚羽に手を伸ばす。
その頭を、ぐっと自分の肩に押し付けた。
「バカ・・・ね。あんただって泣いてるじゃない」
温かい涙が、日番谷の肩を濡らしてゆく。
日番谷は、微動だにせずに、揚羽を抱きしめ続けた。
その痛みを、少しでも分け合えるように。
2月28日。朝。
日番谷は、旅支度をする揚羽の姿を、何となく見つめていた。
本調子には程遠いが、歩くくらいなら支障はないくらいに、その体は回復していた。
「どうすんだよ、これから」
日番谷の声に、揚羽は微笑を浮かべて振り向いた。
痩せてしまってはいるが、その顔に数日前にあった影は、薄らいでいる。
「天道教が没落してから、この辺りはやっぱり治安が悪くなってるみたい。あたしは、あたしの出来ることをやるわ」
「できることって、何だよ」
「あたしは踊り娘よ?暗い時だから尚更、踊ってみんなを笑わせるの」
「変わらねえな、お前は」
日番谷は、口角を上げて揚羽を視る。
揚羽は、帯をキュッと締めなおしながら続けた。
「母様の反対は凄かったわよ、最後まで。
でもきっと母様なら、心の底では、踊り娘になることを認めてくれてたとあたしは思ってる」
日番谷は、それを聞いて、一度だけ深く頷く。
自分を育ててくれた祖母も、死神になりたいと言い出した時、自分が1人きりになるのが分かっていても、認めてくれた。
―― お前が、ばあちゃんのために何かをがまんするのが、一番つらい。
そういってくれた時の穏やかな表情を思い出す。
家族なら。死がふたりを分かつとも、その言葉はいつまでも届き続けると思いたい。
「だから・・・」
揚羽は日番谷に歩み寄ると、手にしていた錫杖を日番谷に手渡した。
「なんだ?」
「預かってて」
あっけに取られた表情の日番谷を、揚羽は微笑んで見下ろす。
「あたしは、もう二度とこの錫杖を使わない。踊り娘として、みんなが幸せになれる方法を探すわ。
だから、冬獅郎に持ってて欲しいの。あたしが誓った証拠として」
「あぁ」
日番谷は錫杖を受け取ると、揚羽に視線を戻す。
「聞かないんだな。お前の父親の過去を」
「聞いたって言わないでしょ」
即座に揚羽はそう返した。言葉に、以前のような機転が戻ってきている。
「それに。父様やあんたが言わないのには、きっとそれだけの理由があるはず。だからあたしは聞かない」
「・・・そうか」
揚羽の瞳に浮かんだ労わりにも似た感情に、日番谷はかすかに顔をゆがめ、うつむいた。
もうじき去る自分に何か言おうとしているのに、きっと言葉にならないのだろう。
むくれた子供のようにも見えるその表情に、揚羽からふっと笑みがこぼれた。
額にかかったその銀髪を指で払う。
怪訝な表情で自分を見上げた日番谷の顔が近くなり――
揚羽は、日番谷の額にポツンと唇を落した。
ポカン、と目と口を見開いた日番谷の顔を見て、思わず声を立てて笑い出す。
「なかなか見事な男っぷりだったわよ、あんた」
そのまま立ち上がると、くるりと日番谷に背を向けた。
「おっ、おい!揚羽!」
そのまま戸口から外に出ようとした揚羽に、日番谷が慌てて声をかける。
「何か、俺にできることはないのかよ!」
「そうね」
揚羽はちょっとだけ振り返る。
「また会える?」
「当たり前だ!!」
即座に返した日番谷の声に、無邪気な笑みを返す。
傷の癒えた右手を上げて空中でヒラヒラ、と振り、入り口の戸を引きあけた。
光あふれる外の景色は白く、旅立つ揚羽の姿は、額縁に入った絵のように日番谷の脳裏に焼きついた。
同日、午後。
日番谷は、天道教の跡地へと辿り着いていた。
寺院は見るも無残に燃え尽き、大黒柱でさえ、その原型をとどめるのみだった。
辺りは煤であふれ、風が吹くたびに黒く舞い上がった。
転がっていたはずの死体は、恐らく死神たちが埋葬したのだろう。どこにも見当たらなかった。
あいつらは・・・
聖人じゃなかったし、だからといって悪人でもなかった。
ただ、仲間を想い、娘を想う、自分たちと同じ人間だった。
人生にたった一度、許せないことがあったくらいでこんな結末を迎えるような・・・
そんなバカな生き方を貫いた、ただの人間だった。
「俺だったら・・・」
日番谷は無意識にそう呟いて、自分の声に我に返ったかのように黙り込んだ。
しばらくして、わずかに首を横に振る。
真摯な瞳で自分の言葉を聞いた、清十郎の表情がチラリと頭をよぎっていた。
それ以上思いつく言葉もなく、日番谷は歩みを進めた。
その時、その視線がふと、少し離れたところに見える背中を捉えた。
―― アイツは・・・
日番谷は、歩みを止めず、地面にしゃがみこんだその人物の後ろまで歩み寄る。
「砕蜂。何をしてる」
日番谷がここに来たことをとっくに気づいていたはずの砕蜂は、声をかけられても尚振り向こうとしなかった。
―― なんだ?
日番谷は砕蜂の背中越しに、地面を覗き込む。
かすかに桜色がかった、名前も知らない小さな花が一輪。
焦げ付いた地面の上に、手向けられていた。
「もう、花が咲いていたのだ。春が来るのだな」
その声音は、日番谷がこれまで聞いた砕蜂のどの言葉よりも、穏やかだった。
そして肩越しに振り返った砕蜂の瞳が、日番谷の持つ錫杖に吸い寄せられた。
「その錫杖。あの娘の霊圧が強く残っている。・・・逃がしたのか」
立ち上がった砕蜂の眼前に、日番谷は無言で錫杖を突きつけた。
「あいつは、天道教が遺した最後の希望なんだ。絶対に、殺させない」
無言のまま、日番谷と砕蜂は見つめあった。
―― ボロボロだな。
一瞥して砕蜂はそう思う。
着物の胸の部分には穴が開き、乾いた血で固まっている。
足元すらおぼつかない状態で自分と遣り合って、勝てるはずもないだろうに。
それでもこの男は、一瞬の迷いもなく戦おうとするのだろう。
―― 「死神の役割は、人を護ることだろ」
数日前、日番谷が怒鳴ってよこした言葉が、耳に蘇った。
その想いが、一旦回りだした歯車を、最後の最後で止めたのかもしれない。
「・・・砕蜂隊長」
沈黙を破ったのは、近くに止まっていた黒揚羽だった。
「北流魂街B1457地区に野盗が出現、街を襲っています!」
「分かった。私がでる」
日番谷は、不思議なものを見るような視線を砕蜂に向けた。
「砕蜂?」
「貴様とやりあうだけ時間の無駄だ、ということは既に学んでいる」
相変わらずの無表情でそういうと、砕蜂は日番谷に背を向けた。
「初めから言っているとおりだ。北流魂街は必ず護る。それが私の役割だ」
ちらり、と足元の花に目を落す。
そして、砕蜂は瞬歩でその場から姿を消した。
ひとり、その場に残された日番谷。
ひゅうっ、と冷たい風が吹き抜けるが、その風の中には、かすかに花の香りも混ざっているようだ。
今は最も寒い時期だが、春はもうすぐ傍まで近づいている。
願わくば、またあの娘が軽やかに舞える季節がくるよう。
かすかに微笑むと、日番谷は瀞霊廷の方角を見る。
そして強い瞳で、その一歩を踏み出した。
bleach in flame fin.