2月14日は、まるで春のような柔らかな風が吹く日だった。冬の間閉じっぱなしだった窓を開け、乱菊は隊首室で一人、ソファーに寝転がってくつろいでいた。こんな春の陽気に働けなんて、本能に反したことは体に毒だと思う。
心地よい眠りに連れて行かれそうになったとき、コンコン、とドアがノックされ、乱菊は寝ぼけ眼で上半身を起こした。
「んー? ネム? どしたの」
「勿忘草が出来ましたので、お届けにあがりました。遅くなって申し訳ありません」
「ん? あーーー」
乱菊は、大きく欠伸をしながら、立ち上がった。
「いーのいーの。なーーんの問題もなかったし」
緩みきった乱菊にもハイ、と律儀に返すと、ネムは懐にしまっていた小さな硝子瓶を取り出した。その中には、3分の2ほど明るい水色の粉末が入っている。隊首室の中に入ってきたネムの視線が、ふと隊首席の前で止まった。
「……これ、勿忘草、ですか?」
置こうとした隊首席の上には、すでに勿忘草そっくりの硝子瓶がひとつ、置かれている。その中身は残り少しまで減っていた。
「あ、違う違う。これはただのあたしのお香よ」
乱菊はそう言って隊首席の前まで回ると、紛らわしいわよね、と笑いながら、中身をぱっと窓の外に放った。穏やかな勿忘草の香りが宙を漂い、その場の空気を更に春めかせた。
その頃、冬獅郎は空座町へと足を運んでいた。ジーンズに膝丈のトレンチコートを羽織り、足早に街を歩く。
「そりゃま、そうか」
あのビルの前の通りに行こうとしたところで、道路が封鎖されているのに気づいて足を止める。ビルがひとつ半壊したのだから、騒動にもなるだろう。いないと分かっていながらも、昨日の朝真由子をもたれかからせた壁に視線をやる。
―― なにやってんだ、俺は……
ヒマな身でもないのに。その場から踵を返そうとした時、聞きなれた声が聞こえた。
「えー、いいじゃん一人なんでしょ? カラオケとか行こーよ」
「一人じゃないんですよ?」
はんなりとした優しげな声。問い返すような独特の語尾。はじけるように冬獅郎は、背後を振り返った。その視線の先で、栗色が軽やかに揺れた。
屈託なく、笑っている。ひとりじゃないということは、待ち合わせなんだろう。幸せそうだと、彼女の過去を知っていてもそう思う。そして、ナンパしてきた男に、背を向けようとする。その表情を、冬獅郎は魅入られたように見つめていた。
「ねえ、待ってって」
背中を返そうとしていた真由子の腕を、ナンパしていた男がつかもうとした時。ズイ、と長身が2人の間に差し込まれた。
「くどい」
翡翠色の瞳に睨まれ、ヒィ、と男が奇妙な音を喉から搾り出す。ただ、それは一瞬のこと。冬獅郎はまるで偶然間に立ったかのように、そのまま歩みを止めず通り過ぎた。しかし、それはその男をひるませるには十分だった。妙な愛想笑いを浮かべ、また雑踏の中にまぎれてゆく。
真由子の存在を、隣に感じる。おそらく、自分が間に割って入ったことにすら、気づいていないだろう。二人の体が交錯し、すれ違う。
―― これでいいんだ。
冬獅郎は、スッと瞳を閉じた。
「冬獅郎くん?」
その言葉が、冬獅郎の脳裏に、スローモーションのように響いた。まさか、と呟く心とは裏腹に、体は勝手に振り向いていた。すぐ目の前にあったのは、笑みを顔中に広げた、真由子だった。
「やっぱり来てくれたね。待っててよかったーー!!」
周りの人が振り返るような大声でそう言うと、冬獅郎の隣に並んだ。
「あれっ、フリーズしちゃった。とうしろうくーん」
「な……んで?」
おかしい。真由子の中で、自分を初めとする死神の記憶はすべて消去されているはずなのに。頭の中で、あらゆる可能性がぐるぐると回る。
「あっ、あの変な力はなくなったよ? 冬獅郎くんがしてくれたんだね、ありがとう」
「き……おくは」
「カンペキに覚えてるよ!」
私、物覚えいいし。ていうか、昨日のことだもんね。そう言って笑う真由子の顔を見て、文字通りくらりとした。
「まー・つー・もー・とー……」
彼女が渡して寄越した「勿忘草」。何か妙だと思ったが、あの後酔いつぶされてうやむやにされてしまったことが、鮮やかに思い出された。ニセモノだった、ということか。
「イラネーこと、しやがって……」
呟いた冬獅郎の腕に、かすかな感触。下を見れば、真由子が腕を取っていた。
「お一人なら、あたしとバレンタインデー、過ごしませんか?」
イタズラっぽくその目が光っている。
―― まあ、いいか。
冬獅郎は苦笑すると、その肩に腕を回した。
隣に並んだ小さな肩と、また来る明日を想おう。
泣きたいくらいに、それを幸せと思えた。
春までは、あと一歩。
Forget Me Not fin.