その日の夕方。炭治郎の案内で、実弥、甘露寺、玄弥、カナヲの総勢5人が高尾山の麓を歩いていた。
「わぁ、綺麗な紅葉」
甘露寺は鬼の討伐に来たことなど忘れてしまったかのように、無邪気に紅葉を見上げている。
街に生まれ育ち、担当地域も都市部の甘露寺にとっては、このような自然の中にいること自体が楽しいらしかった。
「ね。本当に綺麗だね玄弥君!」
ぱっと笑顔を玄弥に向けるが、玄弥は無表情のまま前を見据えて何も答えない。その耳の端が赤くなっている。
甘露寺にはその姿が、当然だが無愛想で怖く思えたのだろう。つんつん、と後ろにいた実弥を突っついて耳元で囁いた。
「玄弥君、私のこと嫌いなのかなぁ? 怖いよ」
「知るかよ……」
すかさず炭治郎がフォローを入れた。
「甘露寺さんが可愛いからどう返事したらいいのか分からなくて動揺してるんだね玄弥! そういう匂いだよ!」
「やっかましい!」
「やだ炭治郎君、そんなこと言われたら照れるわ〜♪」

「うっるせぇなぁ本当に……」
実弥はため息をつき、お前らに関わる気はないとでも言いたそうに、一同の先頭に出た。その背中が明らかに不機嫌だ。
他の柱が相手だったら恐らくキレている場面だが、不思議と甘露寺にキレたことは一度もない、と宇髄から聞いたのを炭治郎は思い出した。
呆れているのか、言ったところで何にもならないと思っているのかもしれない。
放っておけばどんどん先へ行っていなくなってしまいそうな勢いに、玄弥が慌てて追いかけた。
「待ってくれよ兄貴!」
「鼻の下伸ばしてるんなら帰れ」
「ちが……!」
振り返りざまに、伸ばした腕でゴチンゴチンと頭を殴られ、涙目で玄弥が黙った。
少人数だと、昨夜のようにあっさり負けて終わりになってしまう可能性があることから人数が増やされたが、
急遽加えられた玄弥に関しては実弥の八つ当たり要員といった意味合いが大きい。

「なんだかすいません。うちの義勇さんが……」
実弥と甘露寺も柱として忙しい身なのに、ジャンケンに勝ったという理由だけで担当区域でもないこんな遠い場所に借り出されたのだ。
思い返すと段々申し訳なくなってきて炭治郎が謝ると、
「なんだか、家族みたいでいいね。『うちの』って」
甘露寺が笑った。そして一番後ろにいたカナヲのところに行くと、楽しそうに話しかけている。
カナヲもにこやかに応じている。やがて二人でおしゃべりをしながら歩き出した。
鬼殺隊員には女性が少ないから、女の子のカナヲが珍しく一緒に居るのが嬉しいのだろう。

仲良く話しながら、既に夜の闇が迫っている山道を、いつの間にか実弥を追い抜いて先頭で進んでいく。
昨晩、炭治郎が義勇たちを見失ったあたりに差し掛かっていた。笑っていた甘露寺がいきなり立ち止まり、少し後ろにいた炭治郎は背中を打ちつけた。
「オイ」
すでに気配に気づいていたのだろう。実弥が後ろのほうで声をかけた。
「下弦の伍の前で、俺たちの名前を口にするな」
昨晩、名前を知られていた義勇が指名されたことを言っているのだろう。全員その場で頷いた。

「あ! 義勇さん!!」
闇の中で、真っ先に炭治郎が義勇の姿を見つけた。隣に村田も居て、二人とも三角座りをしている。
義勇は5人の姿を見ても、とっさに反応しなかった。ぬぼーとした表情でこちらを見ている。
座っている二人の隣に、二人の生身の身体が置かれているのがなんとも不気味だった。
「冨岡さん、陰気で素敵……!」
「辛気臭ェ。幽霊がお似合いだぜ」
甘露寺と実弥が同時に言った。
「二人とも、そんなこと言わないで!」
あれを助けるのかよ、と実弥はうんざりした表情だ。
「義勇さん、村田さん!」
炭治郎が駆けようとするが、なぜか足が動かず二人に近づけない。生者と死者の境界がそこにはあるようだった。

「歌が聞こえるね」
甘露寺が周囲を見回し、一点で視線をとめた。昨日と同じ樹上に、炭治郎は下弦の伍の姿を見つける。
「また会えたね、炭治郎君」
思い切り名前も知られている。
「あら! 可愛い女の子。一緒に遊ぼうよ」
甘露寺がにっこりと笑った。
「遊んでどうする」
「不死川さんは弟さんと一緒に見てて。はないちもんめ似合わなさそうだし」
「誰がやるかァ」
柱ふたりがボソボソと言い合っている。甘露寺は炭治郎とカナヲを指差した。
「私がジャンケンするから。二人も一緒に来て」

実弥が一瞬刀に手をやり、引き抜こうとして諦めたのを炭治郎は目の端に捉えた。
やはりここは下弦の伍の領域に入ってしまっており、実弥でも斬れないのだ。
それならばと殴りかかりそうだったが、それをやらなかったのが意外ではある。
女の子の姿だからと手加減はしなさそうだから、ルールを逸脱することで二人が戻らない可能性を考えたのだろう。

となれば、仕方ない。炭治郎とカナヲは顔を見合わせ、甘露寺の隣に並んで手をつないだ。さすがに少々気恥ずかしかった。
実弥と玄弥は二人で後ろに並んで立ち、なんとも言えない表情でそれを眺めている。

対する下弦の伍は、たった一人。しかし実質では後ろの義勇と村田も仲間になるのだろう。
「じゃあ、とりあえず……義勇さんが欲しい!」
甘露寺は義勇を指差した。良かったですね、と炭治郎がほほえましく思う向こうで、「まだ帰れないの俺……」と村田が泣きそうな声を出した。
下弦の伍は、にっこりと笑って炭治郎を指差してきた。
「炭治郎が欲しい!」
やっぱりそうなるか。そもそも炭治郎しか名前が割れていないのだ。
「私が行くわ!」
甘露寺が自信たっぷりに前に出、炭治郎とカナヲはその背中を見守った。甘露寺と下弦の伍が「ジャンケンポン! あいこでしょ!」と大声でジャンケンするのが聞こえてきた。
ふわ、と後ろで実弥が欠伸をした。

やがて、甘露寺が振り返った。その表情が半泣きになっている。
「炭治郎君ごめん、負けちゃった……」
もう一度実弥が欠伸をした。
「ちょっ、ちょちょっと! 待っ……」
言い終わる前に、ばたりと炭治郎は後ろに倒れた。
「炭治郎!」
駆け寄った玄弥がスライディングでその身体を受け止める。
「……来てしまったか」
気がつけば、義勇と村田に間を挟まれていた。下弦の伍の小柄な身体の向こうに、甘露寺たち4人の姿が見える。甘露寺がごめん! ごめん! と炭治郎に向って手を合わせている。
甘露寺は慌てて実弥を振り返った。
「ど、どうしよう不死川さん! 炭治郎君取られちゃった!」
「だから! 名前を呼ぶなっつってんだろうが!」
実弥が下弦の伍を見やった。下弦の伍はにっこりと笑った。
「不死川が欲しい」
「いい度胸だてめぇ……」
実弥が立ち上がった。童女を威嚇するヤクザのようで、到底正義役には見えなかった。

その隣を、カナヲがスッと通り抜けて下弦の伍の前に立った。
「私がやります。私は目がいいから、ジャンケンに負けたことがないんです」
にこっと笑みを浮かべて、下弦の伍と向きあう。
「じゃあ私は……炭治郎が欲しい」
心なしか炭治郎の顔が赤くなった。果たして、勝負は一回でついた。カナヲがチョキ、下弦の伍がパー。炭治郎の目には二人が同時にジャンケンしたようにしか見えなかったが、
動体視力が異常に優れているカナヲにとって見れば、相手が何を出すのか見抜くのは簡単なのだろう。
ここにきて、しのぶがカナヲを同行させた理由が分かった。

カナヲは下弦の伍を見返した。
「ルール通り、炭治郎を返して」
下弦の伍は、炭治郎、義勇、村田を順番に見た。その目に、見る見る間に涙が溜まっていく。
「やだ」首を横に振った。
「いやだいやだ! また一人になっちゃう! そんなのイヤ」
「返して」
カナヲが言い募る。
「そんなに返して欲しいなら、『これ』どうぞ」
下弦の伍が、涙を浮かべたまま口角を上げる。
「カナヲ!」
炭治郎が一声、叫んだ。

下弦の伍の背後の何もない空間から、突然巨大な鬼が何体も現れ、一気にカナヲに襲い掛かった。
小柄なカナヲでは、避けることはできても到底力では太刀打ちできない。
はっ、とカナヲが身構えた瞬間、間髪入れずにカナヲと鬼の間に割り込んだ実弥が、鬼を両断した。
「下弦の伍じゃなきゃ普通に斬れるみてぇだな」
「不死川さん、周囲の鬼は私が! カナヲちゃんをお願い」
甘露寺が鞭のように刀をしならせ、鬼を追い払った。

「ちょっと! ジャンケンに勝ったら指名した仲間を返してくれなきゃ困るよ! そんなのルール違反だよ!」
甘露寺が片手を腰に当て、片手で刀を握ったまま下弦の伍に怒る。下弦の伍は、それを聞いてにこりと笑った。
「分かった、次はそうするね。じゃあまた、不死川が欲しい」
「しつけぇな……オイ」
「はい。私は炭治郎が欲しい」
カナヲが前に出た。
「あなたも大概しつこいね……ジャンケンポン!」
さっきの状況からして、カナヲが負けることはないと思われたが、しかし。
「……それ、何?」
下弦の伍の手を見て、カナヲが首をかしげた。グーともチョキともパーともつかない手になっている。
「これは、グーとチョキとパー同時出し! だから何出してもあたしの勝ちだよ」
「……え」
「汚ねぇぞこの鬼! って、兄貴!!」
怒鳴りかけた玄弥が、ばたんと倒れかけた実弥をまたスライディングで支えた。


「……不死川も来たのか」
義勇が無表情で実弥を見上げた。気づけば、死人側のほうが人数が多くなっている。
「あっちは完全に何でもアリじゃねぇか! 元はと言えばてめぇが間抜けだから……」
「ちょっと待って! 待って! 斬ったら義勇さんが死んじゃいますから!」
もう死んでいるのだが、義勇に刀を振りかざした実弥の胴体にしがみつき、必死に炭治郎が止めた。
「……?」
ふと気づいて、実弥は自分の刀を見やった。
「そういや刀が使えるんだったなァ」
刀を下げ、ゆらりと下弦の伍に歩み寄った。

「オイ。くだらねぇ遊びはここで終了だ。全員あっちに戻せェ。戻さねェと今すぐぶった斬るぞ」
全員戻したら少し後でぶった斬るつもりだ、聞いていた炭治郎は震えた。
実弥の迫力に、下弦の伍はじりじりと背後に下がった。
「そこの下弦の伍の人! 言うこと聞かないと本当に斬られちゃうわよ!」
鬼を全て斬り伏せた甘露寺が声をかける。まぁ、言うことを聞いたところで斬られそうではある。
悪役はどっちなんだろう、と炭治郎が思った時、実弥が刀を大きく振りかぶった。
「さ、実弥さんちょっと待って――」
下弦の伍が悲鳴をあげ、炭治郎が咄嗟にとめに入ろうとした時、ふっ、と視界が揺らめいた気がした。

あれ、と頭を振って顔を上げた時、玄弥の姿が目に入った。
「炭治郎! 生き返ったのか!!」
玄弥は炭治郎と目が合うなり、ほっとした顔をした。炭治郎の隣に横たえていた実弥に視線を走らせたが、まだ目を覚ましていない。
炭治郎が慌てて視線をやると、義勇と村田の霊は消え、代わりにごろりと転がされていた二人の体がピクリと動いたところだった。

「……俺も戻さねぇと、今すぐ斬るぞ」
実弥が目を細めて、下弦の伍を見下ろした、その時だった。
実弥の羽織の袖を、後ろから誰かが引いた。ついさっきまで、誰もいないはずだった。
炭治郎たちからは、実弥の体の陰になり、誰か小さな人影がいることしか初めわからなかった。
下弦の伍よりも更に小さい手だけがはっきり見える。背丈も実弥の腰くらいしかない。実弥が振り返った。

「だ、誰だ?」
炭治郎と玄弥が伸び上がって目を凝らす。
そして、実弥の態度の変化は劇的だった。固く握っていた刀が手から落ち、カシャンと音を立てて地面に弾んだ。
空いた両手で、その人影の小さな両肩を掴んでかがみこんだ。
「須磨……!」
その両腕をすり抜けるように前に出た人影が、実弥の首にしがみつくのが見えた。
それはまだ小さな、せいぜい2歳か3歳くらいの女の子だった。

「須磨……? そんな、まさか」
玄弥が身を乗り出して、食い入るようにその女の子を眺めた。
見ている間にも、実弥の周りにもう一人、あと一人、と小さな子供が増える。
男の子と思われる二人は、玄弥と髪型がそっくりだった。
「就也。弘。こと。貞子……」
次から次へと兄にしがみつく子供たちの姿を、玄弥は愕然として見つめていた。
実弥の表情は見えなかった。しかし、逞しい腕を全員に廻し、固く抱きしめた。
「玄弥……あれは」
「俺たちの弟と妹だよ。ずっと前に、死んだんだけど……」
死んだのは間違いない。そもそも、あれから何年も経っているのに、現れた5人のきょうだいは死んだ時のままの姿だった。

実弥から少し距離を置いた下弦の伍が、口を開いた。
「その子たち、初めからずっといたよ。死んだから見えるようになったんだね」
「ずっと……?」
存在を改めて思い出したかのように下弦の伍を見返した実弥の声は、掠れていた。
改めて、自分にまとわりついた弟妹たちを見返した。
「お前ら、あれからずいぶん経つのに成仏してねぇのかよ……」
「だって! 実弥兄ちゃんと玄弥兄ちゃんと離れたくなかったんだもん!」
「心配だったんだもん!」
えーんえーんと泣く声を聞いて、甘露寺が大粒の涙を目に浮かべている。

起き直った義勇と村田が、一体何事だという目で実弥たちと下弦の伍を交互に見ている。
「ねぇ。どうするの? あなたを戻してもいいけれど、そしたら、この子達がまた見えなくなるよ」
「……」
実弥が明らかに返答に詰まった。それを聞いた弟妹たちの泣き声が大きくなる。
「イヤ! そんなのイヤ! やっと抱っこしてもらえたのに……」
「お願い実弥兄ちゃん、戻らないで!」
幼い子供達だから無理もないのだろう、嫌々と全員首を横に振り、しがみついて離さない。

「ねぇ、成仏できないなら、ちょっと送っていってあげて、三途の川で戻ってくるとか、できないかなぁ? かわいそうだよう、そのままじゃ……」
甘露寺が言った。
「そんな停留所にちょっと送ってくみたいな感じにできますかねぇ?」
村田は怯えながらも突っ込みを入れる。
「一緒に渡ってしまうかもしれないな。いや大丈夫なのか、『不死川』だから」
「義勇さん、適当なこと言っちゃ駄目です!」
思わぬ事態におろおろしつつも、炭治郎は玄弥を見上げた。
「……どうなると思う?」
「まずい」
玄弥は青い顔をしている。
「絶対にまずい。兄貴は弟妹のワガママを断ったことねぇんだよ……」
そして、兄を見やる。
「に……兄ちゃん?」
呼び方が子供の頃に戻っているあたりに、動揺が伺えた。

実弥はハッと振り返った。そして物言いたげに玄弥を見返した。それを見た玄弥は焦った。
「ちょっと! 何その顔! 駄目だから! 戻ってきてくれよ頼むから! お願い!!」
「あ! 玄弥兄ちゃん!!」
「玄弥兄ちゃんもこっちにおいでよ!」
気づいた弟妹たちが、一斉に玄弥に手招いた。
「待って玄弥! ミイラ取りがミイラになるって!」
ふらり……とそちらに近づきそうになるのを、慌てて炭治郎がとめた。

その姿を見て、呆然さめやらぬという表情だった実弥の顔が、急に我に返った。
そして、下弦の伍、玄弥、他の隊員達、弟妹……と視線が順番にめぐり、やがて大きなため息をついた。
黙って、その場で立ち上がる。弟妹達を見下ろした。
「ごめんな。兄ちゃん達はまだそっちへ行けないんだ」


***


「不死川さん、玄弥君、みんなもかわいそう……7人もきょうだいがいて、下の子が5人も亡くなってるなんて」
甘露寺は持ってきたおにぎりを頬張りながら、滂沱の涙にむせんでいる。
「……しかし、この場をどう収める? 事態はあまり変わっていないぞ」
義勇がその場を見渡した。

さきほどまで義勇と村田が転がっていたあたりに、実弥と弟妹がいた。
イヤだイヤだと泣き喚く子供達を一人ずつ膝に乗せ、話をしていた。
話の内容はこちらまで聞こえてこないが、しゃくりあげていた子供たちは、やがて一人ずつ、こくりと頷いていた。
そちらにはまだ行けないと、言い聞かせているのだろう。それは見ているだけで、胸が詰まるような風景だった。
これほど辛抱強く、穏やかに話をする人だと思わなかった。炭治郎はそれを見ながら思った。
自分も長男で弟妹を亡くしているが、皆ちゃんと成仏できているだろうか。
できていなかったとしたら、こんな風に諭せるだろうか。どうしても、自分と重ねてしまう。

玄弥に話しかけようとして、その表情を見てやめる。
兄もあちらに行ってしまうのではと心配そうにしていた玄弥だが、今は目に涙を浮かべていた。
本当は、玄弥こそあちらに行きたいのだろう。

ひっく、ひっく、としゃくりあげる声が、いつしか樹上から聞こえてきていた。あの、下弦の伍だった。
「一人は、一人はイヤだよう……」
「……君の家族は?」
炭治郎が木の下まで歩み寄り、優しく訊ねた。
「死んじゃったの。あたしだけ、鬼になっちゃった……」
「それなら……俺の妹と、同じだ」
禰豆子。今炭治郎が生きる理由になっている妹を思い出す。
「そこにいても、家族には会えない。家族と同じ場所に行くべきだ」
義勇が静かに歩み寄った。
「炭治郎。送ってやれ。……不死川。時間だ。もうすぐ夜が明ける」
その言葉に、実弥は振り向かなかった。しかし、空が少しずつ白み始めていた。

下弦の伍は、うなだれたまま地面に飛び降りた。
「……兄貴を戻してくれるか」
玄弥の問いに、小さく頷いた。
「……ごめんね。痛くないから」
干天の慈雨。水の呼吸だけが持つ、鬼を苦しめずに頚を切ることができる技だった。
頚を落とされる瞬間、下弦の伍はふ、と視線を中空に向けた。
「あ……」
微笑んだ。そのまま頚が落ち、体は風に乗って霞みのように消えた。
「……どうして最後に、笑ったのかな」
「きっと家族が迎えにきたんだよ」
甘露寺が目の涙をぬぐった。カナヲが、どこか悲しそうな顔で、下弦の伍が消えた後をずっと見つめていた。

うーん、と唸る声がして見下ろすと、地面に横たえられていた実弥の手がぴくりと動いていた。
きょうだいと共にいる実弥の体が、すぅ、と薄くなる。
「兄貴!」
玄弥が呼びかけ、実弥は振り向いた。その背後で夜明けの光が差し込んだ。

玄弥はその時、実弥の背後に、一人の女性が現れたのをはっきりと見た。
その表情は、光の影になってよく見えなかった。その輪郭は、玄弥がよく知っているものだった。
細い手が伸ばされ、目の前の実弥の白い髪を、ふわりと撫でた。
「母ちゃん!」
気がつけば玄弥は叫んでいた。実弥が後ろを振り返った瞬間、母の姿はふっと掻き消えた。
がばっ、と玄弥の隣で実体を取り戻した実弥が起き上がる。
さっきまでいた場所を見つめたが、そこにはもう、明るい日差しが差しているだけだった。


***


「本当に、ひでぇよ兄貴は」
小春日和の中、7人はのんびりと帰路についていた。さっきから玄弥がずっと、先へ行く兄の背中に文句をぶつけている。
「あの時、完全に弟妹たちと俺を天秤にかけてたろ!」
「うるせぇな……」
実弥が振り返らずに返したが、その声は珍しく疲れ切っていた。

その背中を見ながら、どうしてあの時、母は消えてしまったのだろう、と玄弥は思っていた。
殺さざるを得なかった息子、殺されざるを得なかった母。きっと母は、誰よりも兄に言葉をかけたかっただろうに。
でも……母を見てしまったら、そして母に請われたら、実弥はここにはいなかっただろう。そんな気がした。
実弥にとって、母は今でも、最愛の人に違いないだろうから。

「……大丈夫だよ。きっと母ちゃんが、みんなを連れていってくれているから」
実弥に追いつく。兄の頬には、涙の跡が残っていた。



update: 2019/12/03