カタカタ、と音がする。 男と少女は、まだ書類整理を続けている。 ほぅ、と互いの息が白く染まった。 「ん?」 男の視線が、窓枠の向こうに向けられた。 「あっちにおるん、日番谷隊長とちゃう?」 「本当?」 少女は、パッと表情を輝かせ、傍にある脚立に伸び上がった。 「おと……いえ、日番谷隊長に間違いないです!」 再び言いよどみながらも、その声は少女らしく弾んでいる。それを見守る男が、表情を和らげた。 「『お父さん』でええで、もう。仕事は終わりにしたらよいやん」 「うーん、でも……」 少女は、脚立の上で振り返ると、まだ途中までしか片付いていない書架を見渡して眉間に皺を寄せた。 「仕事熱心なんは、日番谷隊長に似たんやな。少なくとも母親ちゃうわ」 ぷっ、と少女が噴出す。しかし、すぐにキョトンとした。 「……お父さんと、お母さんをご存知なんですか? でもあたし、人の顔覚えるの得意なほうなんだけど、あなたを見たことが一度もない……。 あ! もちろん、書類整理手伝ってもらったのは嬉しいんですよ? 困ってたから」 慌ててフォローしようとする少女を見て、男は口の端を持ち上げて、笑った。 「あんたのお母さん、『幸せ』か?」 「え?」 首をかしげた少女は、すぐに微笑んだ。 微笑むと、両頬に現れる笑窪が愛らしかった。 「ええ。お父さんはお母さんのこと大好きだし、お母さんもお父さんのこと大好きなんです。絶っっ対に、幸せだよ」 「……そか」 男は柔らかな口調でそう返すと、そのまま踵を返した。 「あ、あの! お母さんの、お知り合いですか? きっともうすぐ母も来るから……」 その背中に少女が駆け寄るが、背中を向けたまま、男は首を振った。 「……キミのお母さんに、伝えといてくれるか?」 「はい?」 きょとんとした少女を、肩越しに振り返った。 「髪が銀色で、目が細ぅて、蛇みたいに陰気に笑う男と会ったってな」 「へ? でも、おじさん全然そんな外見じゃないのに」 「分からんでもええ」 振り返ったその口元が微笑みというよりも、蛇の口元に入った亀裂のように見えて、少女は一瞬ぎくりとする。しかし、すぐに錯覚だと思いなおした。 「そや。キミの名前は?」 最期に、ふと思い出したように男が聞いた。 少女は、ふふっとあどけなく笑った。 「桃、です。日番谷桃」 「そか」 男は、扉を押し開ける。白い光が、薄暗い部屋を隅々まで照らし出した。 「絶対、幸せになれそうな名前やな」 *** 黄昏の時間を越えた瀞霊廷は、淡い闇に沈んでいる。 建物の屋根は墨色に。降り積もる雪は純白に。行き交う死神の死覇装は漆黒に、塗り分けられる。 瀞霊廷が水墨画に変わる、それはわずかなひと時。 ぽぅ…… と白黒の世界に、明るい朱色が灯される。 次々と家々に、どこか人肌にも似た明るい色の、燈がともる。物寂しいような、人恋しいような、そんな燈に、今宵も人が集まってゆく。 桃は、そんな建物の間を、小走りに駆けていた。 行き交う仕事帰りの死神たちが、言葉を交わしている。 「なんだぁ? 赤いモンがチラホラと……」 「山岸五席、ずっと遠征中だからご存知なかったんですね。クリスマスってもんらしいですよ。赤い靴下を軒下に吊るして、『願い』を書いた紙を中に入れておくんです。 そしたら、願いが叶うらしいですよ」 馬鹿な、と豪快な笑い声が通りに木霊する。 「平和だねぇ」 「平和ですよ。日番谷隊長の下で、戦争なんて起きるわけないじゃないですか」 「それもそうだな」 走りながら、ふふ、と桃は微笑んでしまう。 「お父さん!」 桃は、白い息を吐きながら、一番隊舎から出てきた日番谷に駆け寄った。 「桃か」 日番谷が振り返る。次期総隊長として、いつも冷静な表情を崩さない父が、自分を見た時にだけ頬を緩めてくれる表情が、桃は好きだった。 日番谷は穏かな翡翠を瞳に湛えたまま、屈みこんで娘と視線を合わせる。 「ちょうど良かった。迎えにいこうと思ってたんだ」 「え?」 どうして、と桃が尋ねる前に、蜂蜜色の輝きが桃の目の前に現れた。 「桃――!」 「お母さ……むぐっ!」 呼ぶ前に、その豊満な胸に顔を押し付けられ、桃はもがく。 「よせよ松本、桃が苦しがってんだろ」 日番谷がため息をつくと、桃をその右腕に抱き上げた。 「あー!! 松本って言った! もう仕事終わってるでしょ? 呼んでよ、ら♪ん♪ぎ♪くって」 「とっとと行くぞ、乱菊」 「間の♪がない!」 「しらん」 「どっか行くの? ねぇ!」 いつまで続くか知れないふたりの言い合いに、桃が割って入った。 「今日はクリスマスだから、現世に遊びに行くのよ」 乱菊の明るい青色の瞳が、きらきらと光っているのが綺麗だと思う。とっておきの愉しいことを思うときの表情だった。 「ほんと!? 嬉しい!!」 はしゃぐ桃を抱えなおし、日番谷が「氷輪丸」を抜き放った。それと同時に、現世への穿界門が三人の目の前に現れた。 鞘に刀を納めたとたん、乱菊が横からその腕にしがみつく。 「もぅ、甘えんな。子供がふたりいるみたいだ」 「いいじゃない、あたしもまとめて、もっともっとかわいがってくださいよ」 「まだ足りねぇのか?」 「あー! お父さん赤くなった!」 「ほんとだ! 赤くなった!」 「……断界においてくぞ」 輝く穿界門の向こうの世界に吸い込まれる、三人のシルエットはまるで影絵のように見えた。 ぱたん、と扉が閉まった後。三人の弾む会話だけがしばらくの間、聞こえている。 「ねぇ、桃。願い事、何がいい?」 「うーん。あたしはねぇ……」 …… 花の名 完
ここまで読んでくださった皆さん……大好きですヽ(●´w`○)ノ
[2009年 1月 21日(2010年 6月 14日改)]