と、いうわけで、黒崎一護は黄昏の迫る雑踏へと踏み出した。
色の趣味が良い。重厚でどこかレトロな灰色のジャケットの下に、女が好むような思いがけない、明るい色のシャツを着ているのが妙に様になっていた。嫌味でなくさらりと身につけた青っぽいネクタイがジャケットから見え隠れしている。ざっ、ざっ、と革靴を鳴らしながら、息も切らさず一息に、長い坂道をあがってゆく。空座町全体を見渡せる小高い丘にある、小さな喫茶店。人通りも多い場所にあるその店が、一護のお気に入りだった。ガラスの嵌ったドアに手をかける直前、一護はキッと振り返り、黄昏が下りてくる、街の景色を一望した。この掌に収まりそうなほど小さな景色の中に、家族がいる。きっと今頃、急にいなくなった自分を探しているだろう家族が。


 「おにいちゃん! おにいちゃん? ドコ行っちゃったのかなぁ? ねえ夏梨ちゃん!」
 一護の部屋のドアをそっと開けて、中を覗き込んだ遊子はあっという間に心配そうな顔になった。薄暗くなった部屋に足を踏み入れると、開きっぱなしになっていたカーテンを閉める。もともと物の少ないその部屋は、部屋の主がいなければますます無機質に見える。
「大丈夫だって。ちょっと外出ただけだろ? すぐに戻ってくるって」
その声に振り返ると、夏梨がドアの枠に手をかけて、遊子をまっすぐに見ていた。
「うん、でも……」
表情を曇らせた遊子を見て、夏梨は軽くため息をついた。これは一兄が悪い、そう思いながら。
 一護は最近、家を空けることが多くなった。しかも、数時間どころでなく、何日も何日も連絡さえつかないことがある。それなのに、ある日何事もなかったかのようにひょいと帰ってきたりする。どこに行っていたのか、何をしていたのか。それを尋ねても、片っ端からはぐらかしてしまうのだから始末が悪い。一護の死神姿を見ている夏梨には、大体の事情は察しがついているのだが……何も分からない遊子は、不安が増して当然だろう。
「どうしよう。またしばらく戻ってこなかったりしたら……」
案の定遊子はそう言うと、心細そうな表情でうつむいてしまった。
「……今日はそういうんじゃねーよ。すぐ戻ってくるって」
「なんで分かるの?」
問われて、一瞬夏梨は言葉を詰まらせる。
「……勘、だけどさ」
空とぼけた表情でそう言うことしかできない。「危険な霊圧を周囲に感じないから」なんて遊子に言っても、しかたない。
「晩ごはん、までには帰ってくるかな」
「帰ってくるって」
そう請け合いながら廊下へ戻ろうとした時、背後に佇んでいた大きな人影に、夏梨は鼻先から突っ込んだ。
「おぉ夏梨、抱きつきたいなら思い切りおいで!!」
「邪魔だ、親父」
いつから立ってたんだこの親父……と思いながら、夏梨はにべもなく言い放った。
「お父さん、お兄ちゃんが!」
「んー?」
泣きそうな顔で走り寄ってきた遊子の頭に、一心は大きな掌を置いた。遊子の言葉に言葉をとぎらせ、軽く視線を泳がせる。窓の向こうに黄昏に眼をやって、ぽつりと言った。
「大丈夫、すぐに戻ってくるさ」
その声音に、夏梨は思わず父親の顔を見上げた。きっぱりした皺がいくつか走った一心の表情は、いつになく柔らかい。自分や遊子には見せない顔だった。どこか温かく、どこか懐かしそうな。じゃ、その視線の先は……そう思った時、一心はいつもの笑みを浮かべて二人を見下ろした。
「じゃ、今日は久しぶりに焼肉にするか! 一護のヤツ、戻ってこなかったら悔しがるぞ!」
「ホントか?」
「じゃああたし、肉買ってくるね!」
そう言った遊子は、弾んだ声で付け足した。
「お兄ちゃんの分も、いっぱい買ってこなくちゃ」


 カラン、とドアが開き、カウンターから馴染みの声が迎えた。
「おぉ、一護くん! 来てくれたのか、久しぶりだな」
「うぃっす、マスター」
猟師のように日焼けした顔を人懐こくほころばせた初老の男が、一護を見て明るい声を上げた。一護は軽く手を上げて、それに応える。
「いつもの奴でいいかい? それをホットで」
「あぁ。オープン席でもいいか?」
クイッ、と立てた親指を外に向け、一護がマスターに問うた。マスターは聞くなり苦笑する。無理もない、もう季節は十一月なのだ。夕暮れ時となると空気はグッと冷え込んでくる。
「この寒いのに、もうやってないよ。でもまあ、椅子とテーブルは出しっぱなしになってるし好きなの座りなよ」
「サンキュー」
コポコポ……と音を立てながら、茶色の薫り高い液体が宙を踊る。無心な表情でそれを見つめる一護の視線を感じる。マスターはカップを取り出しながら問う。
「どうしたんだい? なにか悩みでも?」
「えっ? いや、そんなんじゃねーよ」
「悩めるなんて、結構じゃないか」
なみなみとコーヒーを注いだマグカップをカウンターに滑らせ、マスターは微笑んだ。
「物思いはコーヒーを美味くする。そう思わないか?」
「そんな渋いこと、言えるようになりたいっス」
一護は、彼には珍しく、おどけたように肩をすくめた。おそらく、いつもは明るい真っ直ぐな少年なのだろう、とマスターは思う。ただここへやってくる時の一護は、きっと家族や友人には見せぬナイーブな表情をしている。いい家族、いい友人、いい生徒を演じるにはそれなりの努力が必要だ。こうありたいと思う自分と、実際の自分との落差に悩まない若者なんていない。いつか大人になり、理想と現実の自分のギャップを感じなくなったとき、このような店は一護には不要になるのかもしれない。
「……ゆっくりしていきなさい」
オーナーは、大きな掌でマグカップを持ち上げた一護に、そう言って笑いかけた。


 古びた椅子の背もたれにゆったりと身体を持たせかけ、一護は往来を見るとはなしに眺めた。ベビーカーを引く母親、子供と手をつないで、なにやら笑いながら行く父子。笑いさざめきながら歩いてゆく女子高生たち、ゆっくりと杖を突きながら歩き、夕焼けに足を止めている老人。雑踏が、好きだった。自分とかかわりのない人たちの笑い声や話し声の中に身を浸す時に感じる、どこか甘い孤独。家族が心配しだすことは分かっている。家族の下にもどろうと思う。でも同時に、腰をあげることがもったいないような。一護は、湯気をあげるコーヒーに口をつけた。
「いいなぁ。その口紅、次の週末貸してよ」
「いいけど。あんたには、まだ早いわよ。高校生なのに」
「いいじゃない、お姉ちゃんだって高校生くらいのとき、もうお化粧してたでしょ?」
二人の若い娘が、仲よさそうに、笑いながら歩いてくる。一護の前を通り過ぎたとき、妹のほうのマフラーの先が、一護の足に触れた。
「あ! ごめんなさい」
屈託のない表情で頭を下げた妹を見て、一護はとっさに頷くことしかできなかった。
―― 似てる。
肩まで届く程度の艶めく黒髪、大人びた口調や態度の癖に、黒目がちな大きな瞳があどけない、一護の良く知る少女。
「あのヒトかっこいい! そう思わない?」
「でもちょっと、ナイーブっぽいよ」
姉妹の会話に、我に返る。クスクス笑いながら去ってゆく背中に、一護は困ったように眉間にシワを寄せた。実際には、機嫌が悪くなったようにしか見えなかったが。
 コーヒーを見下ろしながら、思う。今更何を考えることがあるのか、と。
―― 「じゃあな、ルキア」
そう言った時、実にサッパリとした気持ちだった。悔いなんてなかったと断言できる。それならどうして、こんな気持ちになるのだろう? あれから、死神と顔を合わせたことは一度もなく、一護は普通の高校生としての生活に戻された。無我夢中で死神と命のやり取りをしたのに比べれば、なんという平和だろうと思う。決して楽しいなんていえなかったのに、全てが零に帰してしまうと、胸にぽっかりと穴があいた気分になった。
「……なーんか、つまんねーな」
そう、ひとりごちた時だった。一護の視線が、ふとコーヒーからそらされ、ゆっくりと坂を上ってくる人物に向けられた。


 初めは、老人かと思った。無理もない、ぱっと目に入った髪の色が、銀髪だったからだ。しかし、すぐに自分の先入観が間違っていることに気づいた。それは、まだ小学生低学年くらいの体格の少年だった。膝上まである茶色のダッフルコートに身を包み、銀髪の上にぽんと黒っぽいキャスケットをかぶっていた。その隙間から覗いた銀髪は、夕陽に照らされてオレンジ色に見えた。その翡翠色の瞳に気づいたとき、一護は思わずコーヒーを噴出しそうになった。
―― アイツは! 死神!?
こんな独特な外見を、見間違えるなんてことはない。無心な表情で眼下の町並みに目をやっている彼は、こちらには気づいていない。いつもの黒い着物、白い羽織姿に比べるとあまりに全てが違っているから目を疑ったが、間近に迫ったその姿は、やはり。
「と……冬獅郎?」
名を呼ばれた少年が、弾かれたように町並みから視線をそらせ、一護のほうを見た。目が合うと、さすがに向こうも意外だったのか、大きな目が見開かれる。あまりにも澄んで蒼いその色に、一護はとっさに言葉を失った。
「……そうか。お前はここに住んでいるのか」
いち早く納得して頷いた少年は、笑顔を見せるでもなく、無表情のまま一護を見返した。できのいいガラス玉のように意志を通さぬその翡翠に、一護はどう返すべきか、戸惑う。
 日番谷冬獅郎。たった一ヶ月前に出会った死神の一人。こんな子供のような外見だが、護廷十三隊十番隊隊長を務める重鎮である。ルキアを助けるため瀞霊廷に攻め込んだ時、この少年も敵だったはずだが、不思議と敵という気持ちで見たことはなかった。一度も刃をかわさなかったどころか、ルキアの処刑を止めるため独自に動いてくれたと後で聞いたからだろうか。
「傷は、いいのか」
言葉を探した一護は、ふと思い出して日番谷に問うた。藍染に斬られ、瀕死の重傷を負ったと聞いていた。
「いつの話だよ、もうとっくに治ってる。それに、お前だって重傷だったろ」
確かに。肩をすくめた一護に、日番谷は若干さっきよりは興味のある視線を寄越した。
「お前は、何やってんだ?この寒いのに」
「何、ていうと……」
一護は口ごもる。物思いにふけっている、なんて何となく言いたくなかった。「何もしていない」としか言えない。
「なんだ? それ」
返事は特に期待していなかったのか、日番谷は視線をそらすと、一護が手にしているマグカップの中身を覗き込んだ。その、濃い茶色い液体を見て、眉を顰める。
「……泥水?」
「な、わけねーだろ!」
確かに、瀞霊廷でコーヒーを見たことはなかったが、泥とは心外だ。そういえばルキアがカレーを見て「泥がかかっている」と言っていたことを思い出す。
「すわれよ、冬獅郎」
「日番谷隊長と呼べ」
途端に不快げになった日番谷に、自分の向かいの空いた椅子を指差した。
「コーヒーおごってやる」
「いらねーって。そんな泥水」
「いいから!」
強引に肩を押して座らせると、日番谷が不満を言う前にドアを開け、店内に入った。


 「おまちどーさん」
その声と共に差し出されたコーヒーの表面を、日番谷は真剣な表情で見下ろしている。
「いや、そんな毒じゃねーから」
一護がコーヒーを飲むのを見て、日番谷も無言で、マグカップを同じように口に運んだ。途端……
「あちっ!」
ちょっと舌を出したまま、弾かれたようにコーヒーから顔を離す。口元に手をやったその表情が、びっくりするほどに幼く。
「おい! そんな笑うな!」
日番谷の顔が赤くなっているのは、きっと夕陽のせいじゃないだろう。
「いや、猫舌って知ってたら注意したんだけどな。熱いの苦手か?」
「熱いもんは何でも苦手だ」
「そーかそーか、悪かったな」
確か、日番谷は氷雪系の力の持ち主だと聞いていたから、熱いものが苦手でも、そうおかしくはないと思う。
「……お前、俺をガキ扱いしてねーか?」
「してねーよ、別に。お前俺よりずっと長生きなんだろ?」
「ずっとって程でもねーけどな」
そう返して、コーヒーに息を吹きかけている日番谷を、一護は見返した。その外見から生きてきた年月を図ることは不可能だ。
「おめー見てると、妹を思い出すってのはあるな」
「は?」
「背丈が似たようなもんなんだ」
それは日番谷の気に入る返答ではなかったらしい。日番谷は押し黙ったままコーヒーをちびちびと口に運んだが、向き合っていてさっきのような気まずさは感じなかった。ややおいて、口を開いたのは日番谷のほうだった。
「じゃ、こんなとこで何、油を売ってんだ。家族が待ってるんだろ?」
「……あー」
ぼやけた返事を返した一護を、日番谷がチラリと見た。何を聞くわけではないが、その瞳が何らかの答えを促しているような気がして、一護は言葉を継いだ。
「……ルキアは、元気か?」
「は? 何だ急に」
いきなり話題を変えた一護に眉を顰めながらも、日番谷は律儀に頷いた。
「以前通りだ。先週から十三番隊にも復帰してるらしい」
「この空座町の担当になることは、もうねえのか?」
「車谷がいるからな。それは無い」
日番谷の応えはこれ以上ないほど、簡潔だ。
「そっか」
口元に微笑を浮かべた一護を、日番谷は見返した。
「会いたいのか?朽木に」
ぐ、と一護は言葉に詰まった。
―― 簡潔すぎるぜ……
この歯に衣着せぬ言い方は、やっぱり子供に近い感性だと一護は思う。
「んー。会いたいっていうか」
一護は、残ったコーヒーをぐっと飲み干した。
「たまに思うんだ。あのまま瀞霊廷に残って、死神になったらどうなってたんだろうって」
「どこかの隊に即配属。経験を積めば隊長になるだろうな、お前なら」
日番谷の応えは、よどみない。
「隊長のお前にそれ言われると、なんかウレシーな」
「お前の実力は、誰もが認めてる。才能があると思うぜ、噂を聞いただけでも」
淡々とした言い方だが、逆に妙な気遣いやおべっかでないことが分かる。一護は、それを聞いたとき、少しだけやるせないような顔をした。
「確かに。こっちにいるときよりもよっぽど、瀞霊廷にいるときのほうが自然だったんだ。人間より、死神でいるときのほうが生きてる感じもするし。瀞霊廷から現世に戻ったら、もう瀞霊廷には行けねーかも知れねー。だからちょっと、悩みもしたんだ。戻るかどうか」
その思いは、現世に戻って弱まるどころか、むしろ強まっていた。とんでもないことを考えると、自分でも思う。一護はやっぱり、死神であるよりもいい兄でいたかったし、息子でもいたかった。友人も大切だし、それに変わるものなどないはずだった。そうでなけばいけないと思っている。それでも毎晩、瀞霊廷の夢を見る。戻りたくてたまらなくなる。……そんなとき、一護はひとり、家を離れるのだ。家族の顔を見ると、違和感を感じるのが怖くて。
「……ンなことより。お前こそ、なんでここにいるんだ?」
これ以上深い考えに落ちる前に、一護はまだコーヒーと格闘している日番谷を見返した。
「……あぁ」
日番谷は初めて、歯切れ悪い返事を返した。しばらくあさっての方向に視線を泳がせていたが、
「何だよ?」
身を乗り出してきた一護に観念したかのように、コートのポケットに手を突っ込んだ。そして、小さな瓶を取り出すと、一護にそれを突き出してきた。
「なんだ、コレ? アロマオイル?」
それは、コーヒーも知らない日番谷にしては、あまりに意外な所持品だった。人差し指くらいの高さの小瓶には、ピンク色のパッケージが取り付けられ、中には透明のオイルが1ミリくらいだけ残っていた。
「桃の香り……」
よく売っている「ピーチの香り」よりかは、和風で落ち着いた香りだ。どこをどう見ても、現世で手に入れたものだろう。和風なものしか置いてない瀞霊廷でこういうものがあるとしたら、お香くらいのものだろうから。「?」を並べた一護の表情に、日番谷はしぶしぶ、といった口調で説明した。
「お前も知ってるだろ。藍染にやられて寝たきりになってる、五番隊の副隊長がいるって」
「あぁ。それは聞いたけど」
「俺の幼馴染なんだ。死神になる前は、一緒に暮らしてた」
「そう……なのか」
家族、みたいなものなのだろう。日番谷の表情が、その時影が差して見えた。幼馴染であり、家族だった少女が、重傷を負ったまま、目を覚まさない。それがどれほどのことなのか、一護には想像すらつかなかった。だから、黙って相槌を打った。下手に同情しようものなら、逆に失礼にさえ思えたから。
「ソイツが気に入ってた香りが、コレなんだ。だから」
「俺、これどこで売ってるか分かるぜ」
「ホントか?」
日番谷が、初めてちょっと大きな声を出した。通り過ぎる人たちの視線が寄せられ、日番谷はちょっと肩を縮める。日番谷の言葉を途中で遮ったのは、わざとだった。あまりにも、言葉に感情がこもっていたから。「枕元に置いたら、目覚めるかと思って」そんなひとことを、言わせたくなかった。一護は、一瞬胸を突いた痛みをごまかすように饒舌になる。
「割と人気商品だからな、何度か見たことがあるんだ」
「そうか……頼む」
残りのコーヒーをぐいと飲み干し、立ち上がった日番谷を見て、一護は苦笑する。少しでも早く、買ってもって行ってやるつもりなんだろう。病床の幼馴染のために、コーヒーすら知らないような異界の少年が、アロマオイルを探しに当ても無く現世に来るなんて。マグカップを二人分カウンターに戻しながら、一護はひとり、微笑んだ。同時に、どうして自分が誰にも言わなかった迷いを、日番谷に打ち明けたのかも分かった気がした。


 クリスマスイルミネーションがともり始めた街を、一護と日番谷はすり抜けるように歩いてゆく。通りには人があふれ、車道の両側の並木には青白い電飾が飾りつけられている。一護は歩きながら、何度も足を緩めなければいけなかった。日番谷には全てがもの珍しいらしく、しょっちゅうあちこちで足を止めて何かに見入っていたからだ。
「おい黒崎、なんで木に灯りがついてんだ?」
「なんでこんなに人が多いんだ? みんなドコに住んでんだ?」
「なんで犬が服を着てんだ?」
律儀に質問に返しつつ、やっぱり子供だ、と一護は日番谷を見返した。その反応は、街に慣れた妹たちよりもよっぽど子供らしい。何年も昔、ことあるごとに質問してきた妹たちを思い出す。日番谷の表情は変わらないが、その眼がいきいきと、楽しそうに輝いているのを見て、一護はそう思った。さりげなく人ごみから庇ってやらないと、さっさと歩くほかの人々にぶつかってしまいそうだった。
「ホラ、この店だぞ」
「……どうやって入るんだ」
「自動ドアをしらねーのかよ……」
どうやって開いたんだ、と自動ドアに釘付けになっている日番谷の腕をひっぱり、一護は店内に足を踏み入れた。この調子じゃ、いつまでたっても目指すものにたどり着きやしない。
「あった」
「桃以外もいろいろあるぜ。梅とか、桜とか」
「桃でいい」
日番谷は迷い無くそう言うと、棚の上の「桃」のアロマオイルをいくつか手に取った。その時の、どこか寂しそうな日番谷の横顔に微笑が浮かんだのを、ちらりと一護は見てしまった。とたん、ぎゅっと胸が痛んだ気がした。眠り続ける幼馴染の枕元にこれを置き、その香りに包まれながら、彼女の寝顔を見下ろす日番谷。その風景が、瞼に迫るように思えたから。一日でもはやく、幼馴染の少女が目覚めてくれればいい。一護は、祈るような気持ちでそう思った。
「なっ、なんだよ」
いきなり、キャスケットの上からぐしゃぐしゃと頭を撫でてきた一護を、日番谷は睨み上げた。ずれた帽子を直しつつ見上げると、一護は隣の棚から、マフラーを選んでいた。
「んー、やっぱり深い緑か蒼が似合うよな、お前」
日番谷の前に緑と蒼のマフラーを吊り下げるように置き、日番谷と見比べる。
「は? マフラーなんて買いに来たんじゃ……」
「俺が買うんだよ。それより緑か蒼、どっちがいい?」
「俺は……」
「俺・が・買・う・ん・だ」
しつこく言ってやると、日番谷はしばらく押し黙った。
「……蒼」
「その心は?」
「緑は仕事を思い出して、嫌だ」
当然一護は、日番谷の隊首羽織の裏地の色を思い出さずにはいられなかった。顔を見合わせて、思わず笑う。


 「金はこれだけしかないんだが、足りるか」そう言って一万円札をバラバラ取り出した日番谷に、店員が眼を丸くしたり。一護が慌ててそれをフォローしたり、というようなことはあったが、5分後には二人とも、また路上のひとになっていた。ただ、日番谷は片手に小さな袋をぶらさげ、その首には温かそうな蒼いマフラーを巻いていた。日番谷は、街歩きがよほど気に入ったのか、一護の先をぶらぶらと歩いている。どこへ向かっているのか当てはないのだろうが、一護は黙ってその後をついて歩いていた。
―― ホント、弟ができたみたいだな……
ふとそう思った時、家族への後ろめたさがすっかり消えている自分に気がつく。今顔を合わせても、もう辛い気持ちにはならなくていい。そんな気がした。
「礼をしなきゃな。お前のおかげで、随分早く目当てのものが見つかった」
「いらねーよ、別に」
しかし、日番谷ひとりでコレを探していたら、一体いつ見つかるのだという感じではあったが。
「そういうな。眼には眼を、歯には歯を、だ」
「……それ、ちょっと使い方違うぞ」
「黒崎。ちょっと考えれば分かることだと思うが」
不意に日番谷は、くるりと振り返って一護をじっと見つめてきた。
「家族とずっと変わらず暮らせるなんてことは絶対にねぇぞ」
その言葉は……まるで何かに頭をぶん殴られたかのように、一護の頭に響いた。いつ目覚めるかもしれぬ「家族」を待つ日番谷に対し、自分が打ち明けた悩みの無神経さが、分かったから。
「わ、悪ぃ……」
俯いてしまった一護に、日番谷は歩み寄る。その口元が微笑んでいるのを、一護は目の端に捉えた。ぽん、と二の腕の辺りを叩かれる。
「後ろ。お前の家族だろ。霊圧が似てる」
「へ?」
慌てて振り向くと、通りの向こうに身間違えようも無い、一心と夏梨と遊子の姿が見えた。買い物をしていた帰りなのだろう。3人ともビニール袋を手に下げていた。遊子が笑い、夏梨が怒ったような表情で一心を見上げ、一心はおどけたような表情をしている。その会話の中身が聞き取れるようで、一護が顔をほころばせたとき、一心が振り向いた。
「おー、このバカ息子が! どこほっつき歩いてんだ、帰るぞ!」
「あー、お兄ちゃん!!」
遊子がぴょん、と大きく跳ねて、一護を見て顔一杯で笑った。
「おー。今そっち行く!」
手を振ってそう応えて、一護はふと気づいた。「霊圧が似てる」と日番谷は言った。だとすればきっと日番谷は、めくらめっぽうに歩いていたわけではなく、家族のほうへ一護を導いていたに違いないのだ。そこまで考えた一護は、ひとこと付け加える。
「あ、それと、コイツも家に連れていくから!」
しかし、その言葉に、通りの3人は眉を顰めた。
「コイツって?誰」
「へ?コイツだよ」
振り返るなり、一護はぴたり、と動きを止めた。慌てて周囲を見渡すが、そこにはただ、行きかう人々がいるだけ。あの銀髪は、もうどこにも見えなかった。
「一兄! 早く!」
「あ、ああ」
夏梨の声に、一護はなおも辺りを見回しながら、諦めて横断歩道を渡った。
「ちくしょ。礼も言えなかったじゃねーかよ」
そう、ひとりごとを言いながら。


 通りの向こうで、3つの背中に、ひとつが加わる。すぐに栗色の髪の少女がその手を取り、すかさず父親らしい黒髪の男が、荷物のひとつを持たせるのが見えた。ブツブツ言っているのだろう、でも一護は一番重い袋を取り、3人の中に混じって歩き出す。
「……」
日番谷は、それを向かいの百貨店の屋上に立ち、見下ろしていた。その口元は、あるかなしかの笑みに彩られている。ヒュウッ、と吹き抜けた木枯らしに、首をすくめた。そして、一護に贈られたマフラーを巻きなおし、去りゆく4人に背を向けた。
「……どうか、できるだけ長く、そのままで」
永遠にそのままはありえない。少しずつ家族は変わってゆきバラバラになり、いつかは完全に絶たれる。その運命からは百パーセント逃れられぬ。だから運命の受け手たる自分達にできるのは、祈ることだけなのだ。この何気ない幸せが、一日でも長く続きますように、と。