微かな耳鳴りを自覚したのは昨夜、就寝前の自室でのことだった。
 雪も降らないほど冷え込んだ夜で、空にはどこか金属性の輝きを持つ月の姿がある。この耳の症状が出た翌日の朝は、冬一番と言われるほど冷え込むと決まっていた。そして同時に、体調不良、という別の症状をも連れて来る。

 白哉は行燈の炎を吹き消すと、闇の中で息をついた。翌日の体調不良が予測できるのは、病弱だった亡父が同じ体質だったからでもある。父親は、この病気を悪化させて若くして死んだ。同じ血が流れる白哉も、父ほど重篤ではないが同じ症状を幼いころ発症した。元々、死神の修行を始めたのも体質改善のためだった。結果的に厳しい修行のなかで病状はほぼ収まった。しかし非常に寒い日などは稀に症状がぶり返すことがある。しかしこのことは、義妹のルキアですら知らされていなかった。特に命にかかわるものでなければ、伝える必要はないと思っていたからだ。知っているのは、白哉を六番隊隊長に任官した総隊長と、古くから朽木家に仕えている清家だった。そして……

「朽木隊長! おはようございます」
 六番隊の隊首室に入ると同時に、恋次が立ち上がり頭を下げる。部屋の中だと言うのに、その息は白かった。挨拶はいつものことだが、一瞬恋次の視線が白哉の上で止まったのを見逃さなかった。
「ああ」
 淡々といつものように頷くと、恋次は何か言いたそうに口を開きかけたが、すぐに閉ざした。今日のような日は上官は体調がすぐれないことを、恋次は経験から悟っている。そのうえで、何かない限りは特に気遣いの言葉をかけてくることもない。詮索されるのを嫌う白哉の性格を、よく分かっている。
「それより恋次。その書類はどうした」
 隊首席に腰を下ろした白哉はまず、恋次の机の上に溜まった書類の山を見やる。恋次はすまなそうに首を垂れた。
「……う。昨夜残業したんですが、それでも溜まってしまって。すみません」
「早く私に回すように」
「はい!」
 決してさぼっている訳ではなく、それなりに懸命にやっているのに溜まるのだから、ある意味余計深刻だ。
 十一番隊にいたころから、恋次は他の副隊長候補と比べて体力は群を抜いていた。その一方で事務処理能力や鬼道の能力にはかなりの難があったのだが、その長所短所を踏まえたうえで、敢えて白哉の部下に据えられたという経緯がある。体力面で一抹の不安がある白哉を、恋次なら補えると見越した総隊長の采配だった。


 午前中は、何事もなく過ぎた。問題は、午後二時過ぎにやってきた。
「……流魂街に、破面だぁ? 本当か、それは」
 恋次は、第四席からの報告に片方の眉を跳ね上げた。実直そうな顔をした四席は、少し戸惑ったような表情だ。
「正直に申しあげまして、我々三席以下には破面との戦闘経験がありません。そのため確証はないのですが……ただ、虚よりは格段に霊圧が高く、異常値を示しています」
 白哉は第四席に示された位置の霊圧を探る。対象はすぐに見つかった。確かに、虚にしては霊圧が大きすぎる。しかし、この距離の遠さでは単体とは測りかねた。単体であれば破面の可能性は高くなるが、複数の虚が集まり、結果的に霊圧が膨らんでいる可能性も捨てきれない。
「私が出る」
 はっ、と恋次と第四席が同時に白哉を見た。破面にしろ、虚の集団にしろ、三席以下で対応できる霊圧ではない。となれば自分か恋次が行くほかに選択肢はなかった。

 頭を下げて四席が退出した後、恋次はすぐに立ちあがり、隊首席の前に歩み寄った。
「隊長、俺が行きます」
「お前には書類処理が残っている」
「で、でも。調子、良くないんじゃないスか」
 恋次らしくもなく口ごもったのは、やはり気を遣っていたのだろう。机に両手をついて、身を乗り出した。
「こういう時の俺じゃないスか」
「私の体力面に不安があると?」
「い! いや!」
 そのままを指摘すると、恋次はこちらが驚くほど狼狽した。
「で、でも俺、馬鹿なんで!」
 少なくとも今日は白哉の体力面で不安があることは認めつつも、俺だって知能に不安がある、と彼なりにフォローしようとしたのだろうが全くフォローになっていない。白哉は無表情で書類の山を一瞥した。
「知っている」
「って、思い切り肯定されちゃうと立場ないんスけど……」
「夕刻までには戻る」
 会話を切り上げ、白哉は立ち上がった。襟巻をふわりと身につけ、刀を腰に佩いた。もうこうなったら止められない、と悟った恋次は、ボリボリ頭を掻きながらも、自席に戻った。

 その後ろ姿に、恋次は声をかけた。
「……隊長!」
「何だ」
「最後に教えてください。……チョーカイ処分、って漢字でどう書くんでしたっけ……あぁっ、朽木隊長!」
「懲戒」さえも満足に書けない男に処分される誰かはさぞ釈然としないだろう。そう思いながら、白哉は無言のまま場を後にした。


****


 結果的に言えば、西流魂街十番区に現れた敵は破面ではなく、五体の虚の集団だった。白哉の千本桜の前では敵ではなかったが、たったの五体があれほどの霊圧を作りだしていたことが意外だった。死神が力のレベルを上げているのと同時に、虚たちも強くなっていると言うことか。しかし、死神のレベルアップは今のところ、隊長と副隊長に限った話だ。三席以下も鍛える必要がある、と考えつつ岐路についていた。

 もう虚は倒したのだから問題ないが、懸念していた体調不良がここにきて表面化している。眩暈のため、空も流魂街の建物もゆっくりと回って見える。耳鳴りはますます大きくなり、足元をうまく踏みしめられない。この状態で瀞霊廷に戻れば、さすがに周囲に感づかれてしまうかもしれない。一番区に入ったところで、白哉はやむなく足をゆるめた。もう夕刻になっているから恋次は心配しはじめているだろうが、仕方ない。時間さえ経てば、症状も軽くなるのではと考えていた。

 一番区では、あちこちから夕餉の香りが漂ってくる。この辺りは死神を量産している区域であり、霊圧を持っている者が多く住んでいる。霊圧がある者は食事を摂らなければ流魂街の中でも死んでしまう。雑然とした小屋が建ち並んでおり、子供たちが白哉を横目で見ながら走ってゆく。大人が怒る声もする。貴族出身の白哉には、まったく馴染みのない光景だった。しかし、とある小屋の隣を通り過ぎた所で白哉はどこかで聞いたような声を耳にした。

 他の家と同じように平屋づくりだが、建てつけはしっかりしており、窓にはきちんと格子がはまっていた。格子の隙間から、温かな家の中の灯りが外に差し込んでいる。二人の声は、その家の中から聞こえてきていた。
「あぁっ、ちょっとつまみ食いやめてよ! はしたないわね」
「味見だ」
「味見ってあなた、焼いた後の卵焼きを味見してもしょうがないでしょ?」
「じゃあ毒見か」
「失礼ね! ちゃぁんと日番谷くん好みの味にしてるわよ! 甘いの嫌なんでしょ?」
「甘い卵焼きなんて邪道だ」
「あたしは甘いのが好きなんですけどね! 感謝してもらわなきゃ」
 日番谷の名前が出るまで、声の主が日番谷と雛森だと、正直確信が持てなかった。二人の声は当然知っているが、話し方と話の内容が、あまりに仕事とかけ離れていたため、気づくのが遅れた。

 格子窓の隙間から、日番谷の横顔が見えた。卵焼きのひとかけらを指でつまみあげると、ひょいと口の中に放り込んだ。
「味はちょうどいい」
「って、何個食べる気よ。なくなったら日番谷くんが焼くのよ。今度は甘いのを」
 完全に素の会話を、これ以上聞いている理由はなかった。しかし、数メートルしかないこの距離で、下手に動けばすぐに気づかれてしまうだろう。白哉がその場からそっと離れようとした時、懸念がそのまま現実になった。日番谷が何気なく、外に視線を向けたからだ。
「……っ!」
 とたんに、日番谷がむせた。思い切り視線がぶつかったから、これ以上ごまかすのも無意味だろう。
「なに、急に! もう、意地汚い事するから」
 日番谷の背中に手をやった雛森に、日番谷が外を指さしてみせる。
「なによ……きゃあああ!」
 指の先を見やった雛森が、外に佇む白哉を眼にすると同時に、周囲に響き渡る悲鳴を上げた。


***


「いや、申し訳がないねぇ。二人とも行儀が悪くて。私の育て方が悪かったかねぇ」
 白哉を家の中から出迎えたのは、雛森の悲鳴に家の奥から飛んで出て来た老婆だった。今は、縁側の奥の六畳ほどの部屋で、白哉と向き合っている。老婆の右隣には、バツが悪そうに小さくなった雛森がかしこまっていた。いつも瀞霊廷で見かけるきびきびした姿とは別人のようだ。そこへ、同じく気まずそうな顔をした日番谷が入って来た。手に、急須と湯呑を乗せた盆を持っている。
「粗茶ですが」
 日番谷から差し出された茶を、白哉は意外な気分で受け取った。この家の中では、一番年下の日番谷が立場も下になるらしい。隊長自ら淹れたものにせよ、流魂街の茶だ。味は期待していなかったが、体に染みるように美味に感じた。
「……この味は知っている」
 白哉が自分で茶を買うことなどないが、自邸で同じ味の茶を飲んだ記憶がある。
「瀞霊廷七番区の『甘露』の茶だ。贈ってきたのは松本だが」
 殊勝だったのは初めだけだったらしく、日番谷が老婆の左隣にくるりと胡坐を掻いた。老婆を中心に置くのを見ると、この二人は育て親を相当に尊重しているらしい。老婆は、首をかしげて白哉をじっと見た。

「それにしても不躾ですけど、体調が優れないんじゃないのかい? 顔色が悪すぎますよ」
 さすが二人の育ての親だけあって、白哉を前にしても緊張していない。孫を心配する親のような表情に、じゃっかん白哉は戸惑った。
普段、このような態度を誰かに示されることはなくなっていたからだ。
「えぇっ、朽木隊長、大丈夫ですか?」
 その言葉に過剰なほどに反応したのが雛森だった。身を乗り出して、まるで額に手を当てそうな権幕だ。白哉は身を引いた。
「大したことはない」
「大したことはないって、隊長さんがそう言うときってよっぽど酷い時ですよね!」
 何もないと言うべきところを、選ぶ言葉を間違えたようだ。どうやら、無意識のうちに相当に体調を崩してはいるらしい。その上、雛森の指摘にも心当たりがあり、白哉は思わず日番谷と視線を交えた。雛森はおろおろと周りを見回す。
「ええと、布団! はあるけどちゃんとしたのがないし……お医者さん! 四番隊にあたし、行って来ましょうか!?」
 動揺はしているが、意外と押しが強そうだ。放っておけばすぐに瞬歩で四番隊に走りそうだった。
「構うな、必要ない」
 大事にされては困るのだ。白哉は首を振ったが、雛森は中腰になったまま心配そうに白哉を見下ろしている。根っから、同情心が強い性格なのだろう。四番隊に配属されなかったのが不思議なくらいだ。

「あまり騒ぎたてるものじゃないよ」
 白哉の心情を推し量ってか、老婆が雛森を窘めた。そして、白哉を見やる。
「こんなあばら家ですが、よければゆっくりしていってくださいな」
「……礼を言う。だが、瀞霊廷に戻らねばならぬ」
「朽木隊長! 日番谷くん、ぼーっと見てないで止めてよ」
 眉を下げ、雛森が日番谷に文句を言った。黙って成り行きを見ていた日番谷はちらりと白哉を一瞥する。すぐに事もなげに言った。
「俺には普通に見えるけどな。ま、しばらくこの家で休む分には異論はねぇよ。好きにしてくれ」
「もう。薄情ね」
 睨みつける雛森をよそに、日番谷は立ち上がって隣の居間に消えた。
「晩飯が冷めるぞ。……えぇと、醤油はどこだ」
「切れちゃってるわよ」
「何?」
 日番谷が居間からショックを受けた顔をのぞかせた。
「卵焼きには大根下ろしに醤油だろ!」
「それをうちでやるの、日番谷くんだけでしょ? シロちゃん買ってくればいいじゃない!」
「シロって言うな!」
「やめなさい、みっともない」
 老婆が二人のやり取りを止めに入った。
「買ってくる。ついでに味噌も」
 部屋に入って来ると、ひょい、となぜか氷輪丸を掴みあげた。天秤棒代わりにでもするつもりだろうか。土間に消えた日番谷を、雛森が追った。

「待ちなさいって!」
「何だ、行けっつったり、待てっつったり」
「そんな寒そうな格好で。これ、マフラー!」
「いらねえ」
ピシャッ、と扉が閉まる音がして、すぐに雛森が不満顔で部屋に戻って来た。
「もう、放っておいてやりなよ。あの子は丈夫なの知ってるだろ。風邪ひとつひきやしない」
「馬鹿がつくほどね」
 雛森がため息をつく。なぜか唐突に、「で、でも俺、馬鹿なんで!」と叫んだ恋次のことを白哉は思い出したが、表情にはもちろん出さなかった。丈夫さと馬鹿は紙一重か、と思っている。


***


 食事はいらぬと断った。しかし薦められるままに、茶は幾度か空にした。香り高く温かい茶が、少しずつ全身の血のめぐりを良くしたのか、少し体調が戻って来ている。日番谷に一言断ってから家を出るべきかとも思ったが、もうこの家に招き入れられて30分は経っている。そろそろ出るか、と思った時、ふと胡乱な気配を感じ、白哉は動きを止めた。

―― 虚か?
 霊圧は、今までの白哉が気づかなかったほどに低い。雛森が今も気づいていない様子から見ても、小癪なことに霊圧を消しているのだろう。タイミングから見て、午後に白哉が倒した集団の生き残りの可能性がある。五体は霊圧を発散するタイプだったため、一体だけ霊圧を隠すタイプが混ざっていたと言うなら、見落とすこともありえなくはなかった。もっとも、普段の白哉なら100%ない失敗ではあるが。問題ないと思っていたつもりが、注意力は欠けていたことを思い知らされた。五体を倒した後、立ち去った白哉の後を追ってきたのか? そうだとすれば、白哉の失態だった。

 問題は、気配を一番区のほぼ内部で感じたことだった。今すぐ瞬歩で駆けつけたところで、町への被害は避けられない。しかし、この状況で最も早く動けるのは白哉しかいない。
「どうしたんだい?」
 不思議そうな老婆をよそに、白哉は立ち上がった。世話になった、と言おうとして、不意に動きを止める。雛森がつられて中腰になり、白哉を見上げる。
「……朽木隊長? 何かありましたか?」
「……いや。何もない」
 その言葉は、本当だった。なぜなら、虚の霊圧が一瞬強まり、次の瞬間唐突に立ち消えたからである。霊圧を探ってみたが、もう霊圧は全く感じない。誰か死神が現れたにしても、あまりにタイミングがよい。そこまで考えた時、斬魂刀を手に出て行った日番谷を思い出した。


「ただいま」
 それから間を開けず、ガララ、と扉を開ける音がした。おかえり、と二人の女が返す。
「ま。そんなに醤油と味噌買ってきたのかい」
「使うだろ、どうせ」
 土間を見やると、氷輪丸を肩に担いだ日番谷が眼にはいった。柄と柄尻には、二つの樽が結わえつけられている。雛森が呆れた声をだした。
「もー。斬魂刀を天秤棒代わりにするなんて。氷輪丸、また機嫌悪くなるわよ」
「関係ねぇだろ」
 日番谷はとりあわなかったが、白哉には、その刀がうっすらと霊圧を帯びているのが分かった。ついさっき振るわれたのだ、と推測するのは難しくない。
「……すまぬな」
「なんのことだ」
日番谷はあくまで、とぼけるつもりらしい。刀を部屋の刀置きに戻し、ふと思い出したように振り返った。
「阿散井が心配してるぞ」
あまりに遅いので、霊圧を探査してきたのだろう。乱れた霊圧が近づいて来るのを感じ、白哉は微かに微笑んだ。
 

「護られる兄様」「冷房壊れた部屋で書く極寒ストーリー」→現実逃避な作品お粗末さまでしたmm
みんな、心では色々思ってても、言葉にしないことはいっぱいあると思うのです。
兄様が幼少時代に虚弱体質だった話は冗談……じゃなかった捏造です。日番谷くんが卵焼き&大根おろし&醤油好きなのは公式(のはず)です。醤油なかったら私も戦うと思います笑

2012/8/18