わたしは、山ぶかい農村で幼いころを過ごした。
夏の終わりの季節、一番印象ぶかく残っているのは、スイカや蚊取り線香ではなく、蜩(ヒグラシ)の声だった。
夜明け前、そして日が暮れる直前、葉から葉へ、樹から樹へ、山から山へ、無数の蜩により増幅され渡ってゆく夏の終わりの音色。
宿題をする和室のすぐ向こうで鳴いていた蜩の声は、やがて山へ還り、小さくなってゆく。
いつの間にか聞こえなくなった、と思った頃には、秋がもうすぐそばにやってきている。

ふと目覚めてしまった夜明け前、山全体で鳴くような蜩の声に、圧倒されたのはいつのことだっただろうか。
宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』という話を、気づけば思い出していた。
物語の中で、汗を流し、顔をゆがめ、命をすり減らして一心不乱にセロをかき鳴らしたという男と、蜩の姿が重なる。
衰える夏、死につつある自分達を知りながら、一音でも長くと鳴き続ける生きものの声は切ない。
軒先に蝉の死骸が転がり、何事もなかったように秋がやってくる。
打ち捨てられた死に、自分自身もまた同じ生きものなのだと思う、その時の風は冷たかった。


でも、こんな東京の下町では、蜩の音は滅多に聞くことができない。
だから、たった一匹だけ、どこからともなく蜩の声が聞こえてきた時、わたしは思わず、手を止めた。
店はついさっき、暖簾を下ろしている。引き戸を開けて通りに顔をのぞかせた時、もう夕暮れが迫っていることに、驚いた。
昼間はまだ夏そのものだけれど、夜になると涼やかな風が吹くようになった。秋になるんだな、と身に染みる。
あのお気に入りの袷(あわせ)を、単(ひとえ)に仕立て直そうか。秋の始めに着るきもののことを考えながら二階に上がった、直後のことだった。

窓を開けて身を乗り出しても、蜩がどこから鳴いているのかは分からなかった。
たった一匹だけ、どこからも返らない仲間の声に戸惑うように、時折鳴くのを止め、またひとり、鳴き始める。
わたしはしばらくして声の出所を追うのを諦め、二階の窓を開けっぱなしにしたまま、小さなちゃぶ台の前に座りなおした。
きものの端切れで作った小さなコースターの上には、コップに麦茶が満たしてある。
カシッ、と乾いた音を立てて、麦茶の中の氷が解けた。
わたしは冷蔵庫でお茶を冷やすのが好きではなく、常温でつくったお茶に氷を入れて、好きなだけ冷やして飲むことが多かった。
氷が触れ合うかすかな音は、夏の初めの記憶を呼び起こす。
銀色の髪をもつ、不思議な男の子がお店に訪れた夕暮れどき、同じように緑茶に氷を落としたものだった。
また、季節が変わる。あの男の子は、また来てくれるだろうか。
「またな」と言われたときの、ほっとした気持ちは、逆に今のわたしの胸をさびしくした。


わたしは、たったひとりだ。
このお店を出て川沿いへゆけば、にぎやかなのを知っている。今日は、夏の終わりを彩る花火大会の日だからだ。
家族連れが、恋人たちが、友達どうしが、屋台を冷やかしたりしながら、花火を待っているころだろう。
それなのにわたしは、まるでこのお店に閉じ込められたかのように、外と隔離されている。
耳に届くのは、かぼそい蜩の声と、かすかな氷の音だけ。
こみあげてきた寂しさに投げやりな気持ちにさえなり、わたしは箪笥に背中をもたせ掛ける。
ほぅ、とため息をついた、その瞬間。

腹の底に響き渡るような轟音に、わたしは思わず身を起こした。
どぉん、ぱぁん、パラパラ……と乾いた音につながり、窓の外がかすかに明るくなって初めて、花火が始まったのだと分かった。
かすかな音が馴染みになっていたわたしの耳には、その音はあまりに大きくて、しばらく鼓動が早まったままだった。
しばらくして、背中をまた、箪笥に戻す。

あぁ、夏が終わる。
あの夜空を彩る鮮やかな大輪を、わざわざ見に行くまでもない。
こうやって全身で花火の振動を感じ、眼を閉じているだけで、あざやかな色彩が頭に次々と浮かんでくる。
胸の中に鉛のように沈んでいる寂しさに、腕をまわすようなつもりで、そっと自分の二の腕を握る。
不意に、窓の向こうから話し声がした。
「やめとけ、もう閉まってるだろ、店」
この声! わたしは弾けるように立ち上がった。
あまりにタイミングが良すぎる、と思う。ちょうど「彼」のことを考えていたところだったのに。一瞬、わたしの願望が作り出した、空耳かと思った。
空耳ではない証拠に、会話は続いている。明るい女の人の声だった。
「でも、二階は明るいですよ? まだ人がいるんですよ」
「だからって、閉まってんのに店開けさせるわけにはいかねぇだろ……っおい、松本聞いてんのか!」
「ごめんくださーい」
なんどか、引き戸がノックされる。わたしは二階の窓から身を乗り出して、下を見下ろした。

「冬獅郎君?」
銀色の頭が、わたしを見上げる。少し困ったような、申し訳ないような顔をしている。
「悪ぃ。こいつがここに来たいってしつこくてな」
わたしは、「彼」の隣に立つ女性に視線を奪われる。綺麗な蜂蜜色の髪が、背中に波打っている。
天然の色だ、とすぐに分かる。人の手では、とてもこんなに美しくは染まらない。
豊かな胸元に、キュッと締まった腰。すらりとした立ち姿の、思わず眼を見張るくらいに綺麗なひとだった。
「だってぇ、たい……この子が馴染みのお店を紹介してくれるなんて初めてなんだもの」
大人びた外見なのに、思いがけないくらい甘えた声で言って小さな肩に手をやる。
冬獅郎君は、うるさそうにその手を払った。そのぞんざいな手つきが、この間寝ぼけてわたしの手首を握った仕種と似ていて、思わず笑みがこぼれる。
「馴染みの店」。わたしがいないところで、そう呼んでくれていたことが、嬉しかったせいもある。
そういえば前に別れるとき、「次は松本をつれてくる」と言っていたけれど、本当に約束を守ってくれたのか。

「おい、『この子』ってのはまさか俺のことか?」
「しょうがないじゃないですか。普通に呼んだら違和感ありまくりでしょう?」
ふたりが小声で会話を交わしているのを聞きながら、わたしは急いで一階への階段を下りた。
現金だなと自分でも思う。さっきまで胸を占めていた寂しさは、嘘みたいに吹き飛ばされていた。

冬獅郎君は、「普通」の人間じゃない。わたしは何となく、それを知っている。
だから、急がないと、今鳴り響いている花火のように、ふっ、と掻き消えていなくなってしまいそうで。
戸を開けたら、誰もいなかった……なんてことも、「彼」の場合は起こりえるような気がして。
わたしはわずかに息を切らせながら、店の引き戸を開けた。

「早ぇ」
わたしが焦ったことなんて夢にも気づいていない顔で、冬獅郎君が眼を見張っている。
「もう閉店してただろ? いいのか」
すぐに、子供らしくない気遣うような表情へと変わる。
この間の、御召茶色の麻のきものを身につけている。思ったとおり、しっくりと全体の雰囲気に馴染んでいる。
黒い兵児帯で無造作に腰を締めているけれど、素材がそうさせるのか、全く子供っぽさは感じない。
隣に立っている「松本」と呼ばれている女の人は、地色が見えないほどに色鮮やかな花火がたっぷりと散らされた、絽のきものを着ていた。
ふつうの人が着ればきもの負けしてしまいそうだけれど、華やかな彼女は見事にきものを着こなしている。
黒い帯が、今にもはしゃいで飛び立ちそうなきものの雰囲気を、効果的にぐっと引き締めている。
偶然かもしれないけれど、帯の色はふたりとも同じで、まるであわせているみたいに思えた。
松本さんの手には、今しがた屋台で掬ってきたのだろう、ビニール袋の中に金魚が二匹泳いでいるのは、ご愛嬌。

「ええ。ここは店舗兼、家でもあるから。冬獅郎君は常連だしね」
常連、という言葉を舌に乗せると、まだまだ違和感はあったけれど、嬉しさが広がった。
まだお店の電気をつけていなかったことに気づいて、スイッチを入れる。今のわたしの気持ちみたいに、パッとあたたかな色合いが店を満たす。
松本さんが、ぺこりとわたしに頭を下げた。
「はじめまして、松本乱菊っていいます。いつもこの子がお世話になっているみたいですみ……」
すみません、と続けようとしたのだろうけれど、冬獅郎君がすかさず、肘で松本さんを小突いた。
「調子に乗んじゃねぇ」
「えー、いいじゃないですか、こういうのも」
声を潜めて、言葉を交し合う視線がほんとうに親しいもので、うらやましい気持ちとほほえましい気持ちが半々になる。
「篠田棗(なつめ)といいます。ようこそいらっしゃいました」
体をひらいて、ふたりを店の中に通す。入ると同時に、松本さんはわぁ、とはしゃいだ声をあげた。
「すごい! ここにあるものが、何でも買えるの?」
「お前の金が足りればな」
「もー、またそんな意地悪言って。いざとなったら頼りにしてますよ♪ たいちょ……冬獅郎君」
「知らん!」
ぶっきらぼうに、仏頂面で言い捨てる。
でも、お花畑を前にした女の子みたいに、歓声を上げてきものに駆け寄った松本さんを見守る眼は、優しかった。


「……花火、行かなくていいの?」
もしかしたら、このお店に少しでも早く来るために、肝心の花火を我慢したのかもしれない。
きもののチェックに余念がない松本さんを腕を組んで見ていた冬獅郎君に、わたしは問いかける。
でも、冬獅郎君はすぐに、心からうんざりした顔をして首を振った。
「何が悲しくて、あんな人ごみに揉まれなきゃいけねぇんだ。だいたい、花火なんて見えやしねぇよ」
確かに、その身長だったらなおさら、もみくちゃにされるだけだろうな。そう思ったけれど、何となく口にするのは控える。
「後で適当に、俺の秋物を見繕ってくれるか」
「ええ、もちろん」
実は、冬獅郎君がそろそろ来るのを見越して、単のきものが既に用意してある。
古びた部分もあったそれを洗い張りに出し、新品と変わらないくらいまで仕立て直した自分の手際のよさにちょっと、感謝する。

「もう秋物なのねぇ。模様が秋の花とかになってる。早いのね」
松本さんは、一枚の着物をしげしげと見下ろしていた。近寄って見れば、それは緑と赤が交じり合った紅葉柄のきものだった。
「きものは何でも、実際の季節よりも一歩前を先取りするんです」
「どうして?」
「桜の季節に桜柄のきものを着ても、ほんものの桜には、かなわないからです」
それは、本当の気持ちだった。どんなに美しい桜をきものに染め抜いても、みっしりと花をつけた桜の枝ひとつ、香ってくる薫りひとつに敵わない。
昔のひとはそれをよく知っているから、今を盛りに咲き誇る花を、そのままきものに取り入れることはしない。

途端に、冬獅郎君がふっと息を漏らした。まるで噴出したように聞こえて、思わず振り返る。
噴出したのは本当みたいで、めずらしく頬に笑みの残りを浮かべたまま、松本さんの着物を指差した。
「祭の日に花火柄を着るお前には、理解できねぇ感情だろうな。お前はもうちょっと慎みを知れ」
「え! あの、そういうつもりじゃないんです」
わたしは慌てて、顔の前で手を振る。まるで松本さんにあてつけたみたいに聞こえてもおかしくない言葉だったから。
でも松本さんは、まったく気にもしていない様子で、豊かな胸を張った。
「あたしは、火の塊なんかと張り合ったって、負けませんから!」
「……お前、わざとかよ」
悪いなこういう奴なんだ。そう耳元で言われて、松本さんには悪いけれど、少し笑ってしまう。


「隊長」。
何度も口ごもっているけれど、松本さんはきっと冬獅郎君のことを、そう呼ぼうとしている。
そして、きっとそれは冗談とか、あだ名だとか、そういう意味ではなく、きっと言葉通りなんだろうな、とわたしは短いやり取りから察していた。
なぜなら、ふたりの間には、はっきりとした上下関係が見て取れる。
ただわたしは、それ以上知りたいとは思わないのだ。淡白な性格だと、自分でも思うけれど。
夏が終わって秋が来るみたいに、「ただそうあるもの」を見慣れてきた体には、ただ受け入れることが染み付いているのかもしれない。


松本さんは、畳の上に色とりどりの秋のきものを広げて、うぅんと唸っている。
まだ昼間は汗を搾るような気候だから、ピンとこないのは無理もないとは思う。
「……秋になってみないと、どんなの着たいかなんて分からないわね」
「想像力のねぇ奴だな、お前」
「じゃあ、なんか見繕ってくださいよ」
くい、と袖を引かれて、冬獅郎君が前につんのめる。慌てて、踏みそうになったきものを避けた。
「女物のきものなんて、分かるかよ」
「想像力です、たい……いえ、冬獅郎君」
「……その呼び方、やめろ」
「棗さんにはそう呼ばれてるのに!」
「ああもううるさい、気が散る」
苦い顔をしながらも、引き出されたきものの上に視線をはしらせる。
その表情は真剣そのもので、なんだかわたしは、自分自身がチェックされているみたいな居たたまれなさを感じる。
わたしが選んで買い、手入れして店頭に並べたきものたちは、ただの商品じゃない。わたしの分身のようなものだから。

「こんなのはどうかしら」
わたしは緊張を隠すように、あでやかな赤地のきものを引き出した。
やっぱり大人びていると言っても子供だから、今松本さんが着ているようなパッと目を引くような色彩が好みじゃないかと、とっさに思ったのだけれど。
「なんか、違うな」
ちらりと松本さんを見て、首を振る。
「例えばあっちの方のは……」
そう言って、店の奥のほうを見やる。その時ふと途中で言葉を止めた。
「冬獅郎君?」
一点に視線を止めたまま、すたすたと冬獅郎君は歩み寄ると、他のきものの中で埋もれていた、濃い紫の一枚を引っ張り出した。
ぱっ、と畳の上にきものが広がった瞬間、松本さんとわたしは同時に声をあげていた。

「……乱菊」
「え?」
「乱菊の花ですね、これ」
松本さんに聞き返され、きものの前面に花を咲かせている大輪を、指差す。
濃紫の地で、右肩の部分に黄色く満月が象られている。そして月の燐粉のように金箔が散らされ、その先には黄金色の乱菊が一輪。
闇に浮かぶ一対の月と花。まるで物語のように美しく、潔いまでにそれ以外のものをそぎ落とした柄は、粋でさえあった。
アンティーク着物ならではの、大胆な構図だと思う。
ふぅん、と冬獅郎君は唸ると、きものをひょいと取り、松本さんの肩に布地を当てた。そしてきものと松本さんを真剣な顔つきで見比べた、それだけなのに。
わたしは思わずドキリとして、顔をふたりから逸らせた。

見た目は子供なのに、大人でもなかなか選ばない、艶っぽいきものを選んだからなのか。
まるで、恋人同士の濃厚なひとときを盗み見たような、気分になってしまったからだ。
「どうかしたか?」
「どうしたの?」
ひょい、とふたりが振り向いた時、わたしはとっさに、口ごもってしまった。


***


丁寧に包んだきものが入った紙袋を仲良くひとつずつ持って、さっきからふたりは言い合いをしている。
「だから。金魚はダメだって言ってんだろ。元の店に返して来い」
「えええ、そんな固いこと言わないでくださいよ。可愛いじゃないですか!」
「可愛いかどうかは判断の材料にならねえんだよ。いいから、返して来い」
「イヤです!」
「子供か、お前は!」
なんだか、大人と子供が逆転してしまっている会話も、このふたりの間は日常らしかった。
花火はとうに終わっているらしくて、もう音は聞こえてこない。
「……あの。もうお店、閉まってると思うわよ?」
わたしはふと思いついて、口を挟む。花火が終われば、屋台は一斉に店じまいを始めるから、今から行っても店は見つけられないだろう。
「……ホントかよ、参ったな」
「元はと言えば、たいちょ……じゃなかった、冬獅郎君が掬った金魚じゃないですか」
ぷっ、と思わずわたしは噴出して、冬獅郎君は対照的に気まずそうな顔をした。

きっと冬獅郎君だってお祭りにはしゃいでいて、持ち帰れない事情があるのに金魚掬いに手を出してしまったんだろう。
それで、返そうとするのを松本さんが止めて、ここまで持って返ってしまった、ということか。なんにしろ、ふたりは共犯らしい。
「……水路に流すか」
「虐待です!」
「そんなこと言ったって、コレを今から引き取ってくれる奴なんて……」
そこまで言いかけた冬獅郎君の視線が、ハイ、と手を挙げたわたしの前で止まった。


***


「なつめ堂」に、小指の先くらいの小さな赤い金魚と、黒い出目金が加わったのは、そういう事情がある。
わたしは、何組目かのお客さんを送り出した後、レジの横に置かれた金魚鉢を覗き込む。
お祭りの金魚は長生きしないというけれど、もらってから二週間、病気になったりはしていない。

夢だったんだろうか、と思ってしまうことが、未だにあるのだ。
あの時。見送りを断って店を出たふたりに頭を下げたとき、不意に以前、葡萄を大量にもらったのを思い出した。
ひとりじゃ食べきれない、と困っていたところだ。金魚のお礼に、何房か持って返ってもらおう。
「あの……」
締めたばかりの引き戸を開ける。数メートル先に、ふたりの姿があるはずだった。
それなのに。無人の通りには、誰かが捨てたかき氷のカップが転がっているだけだった。

夢ではない。その証拠に、ふたりに売ったきものはなくなっているし、お金もちゃんとレジに入っている。
でも、今どこにいるか分からず、次にいつ会えるかも分からないなら、夢と同じだとも思ってしまう。
そんな時、二匹の金魚はわたしをいつも、慰めてくれる。
「……また、ふたりに会わせてね」
ツンと水面に指を置くと、金魚は餌をもらえると勘違いしたのか、寄り添ってわたしの指をつついた。





「夏が生まれた日」の続編です。あいかわらず小川糸さんの影響を多分に受けた話になってます^^;
昔の着物って、今ではあまりない、大胆なデザインのものが多いらしいです。
乱菊さんに似合いそうって、冬獅郎くんがこっそり思ってつれてきたらいいなぁ……と相変わらず激しい妄想っぷり(笑

[2010年 7月 8日]