短い話し合いの後、実弥とカナエがその足で京橋へと向かい、玄弥としのぶは子供たちを連れていったん蝶屋敷に戻った。おそらくすぐに母親を入院させることになるから、それなら母子ともに同じ場所にいたほうが双方安心だろう、とカナエが言い、実弥も頷いたためだ。

しのぶは、空いていた個室に玄弥たちを通すと手早くベッドを用意し、ふたりの子供たちを寝かせた。疲れきったのと、安心したためだろう。完全に意識を手放して、すうすう眠っている。
「……二人の母親は、大丈夫かな」
二人を見下ろしながら、玄弥が独り言のように言った。しのぶはため息をついた。
「恐らく、すぐに入院となると思うわ。肺結核は命に関わる、長い療養を必要とする病気だから」
「……でも。大丈夫なんすか? ここで面倒を見てもらっても。結核は感染する病気ですよね」
「だからこそ、素人が扱うべきではないのよ。症状が落ち着けば、風邸にうつることもありえるけれど」
「そうすね。……ありがとうございます」
自分より頭ひとつ分以上大きな玄弥に不器用に頭を下げられ、しのぶは返答に困る。初めて会った時の荒れっぷりと同一人物とは思えない。ただ、きっと根っこの部分は、変わっていない。強くなりたい、兄に追いつきたいと切実に願っていたあの頃と。

しのぶは、玄弥に向き直った。
「体調で言うなら、あなたのほうがある意味もっと問題よ。あなた、鬼喰いを続けているでしょう。まだその体格は変化し続けているし。さっきのお店でも、何も口にしなかった。きっと、人間の食事はもう、受け付けないんでしょう?」
玄弥は黙って、自分の掌を見下ろした。その手は、しのぶが初めて会った時よりも、ずいぶんと骨張り大きくなっている。鬼化の副作用のひとつだとしのぶは見ていた。鬼殺隊での医療の知識は誰よりも深いしのぶであっても、鬼喰いをしている人間の前例は知らなかった。この後玄弥がどうなってくのか分からないが、それでも、嫌な予感しかしなかった。

「悲鳴嶼さんがこれを黙認している理由が分からないわ。このまま、鬼になってしまったらどうするの。鬼殺隊としては、あなたを殺さなきゃいけなくなるのよ」
「……その時は、悲鳴嶼さんが俺の頚を斬ってくれます」
「そして、悲鳴嶼さんとあなたのお兄さんは責任を取って切腹するでしょうね」
わざと厳しい言葉を口にした自覚はあった。玄弥の表情は強張った。
「今更そんな顔をしないで。分かっていることでしょう? それなのに、どうして鬼喰いを止めないの」
しばらくの沈黙があった。それを尋ねることができるのは、今は自分だけだと思っていたから、しのぶは待った。
「……兄貴をもう、一人で戦わせたくないからです」
ぽつりと、玄弥は呟いた。
「……俺たちの父親は、本当にろくでなしの男でした。時々酔って帰ってきては、家族をぶん殴ってた。その度に兄貴は父に挑みかかっていたけれど、化物みたいに図体がでかい親父だったから敵わず、結局いつも、血を吐くほどに殴られてました」
しのぶは視線を落とした。カナエとしのぶは裕福な家に生まれ、家族仲が良かったが、鬼殺隊の中ではそれは例外で、大抵の者が辛い過去を抱えていたからだ。よく聞く類の話だが、何度聞いても慣れることはなかった。黙って、玄弥がギリギリと拳を握り締めるのを見ていた。
「俺は、兄貴を助けたかったけれど。兄貴はそんな時、絶対に後ろに庇った家族のほうを振り向かなくて。悲鳴も上げずに、何度でも何度でも、父親に向っていっていた。……あの頃から、兄貴はきっと、変わっていません。対象が父親から鬼に変わり、守るべきものが家族から世間の人たち全員に変わっただけで」
「……不死川さんは、誰も隣で戦わせないと聞いたわ」
「隣で戦う人間が、ことごとく死んでいったからでしょう。……鬼喰いをしている限り、俺はそうそうは死なないから。力及ばなくても、盾にくらいはなるでしょう。弱い者は手段なんて選んでいられない」
しのぶは、黙って唇を噛んだ。
「そんなの、あなたのお兄さんが望むとは思えないけれど」
「でも。兄貴を一人で戦わせちゃいけないんだ。そうじゃなければ、兄貴はいつか必ず……」
そこまで言って、玄弥は自分の言葉に恐れるように、言葉を切った。

そんなの、ただの自己満足だ。
普通は、そんな独白を聞かされれば、そう思うものかもしれない。でも、しのぶは違っていた。だからこそ、自分は今玄弥の話に耳を傾けているのだろう。
「……少しだけ、あなたの言っていることは分かるわ」
口元に、苦い微笑が浮かぶのを感じていた。
「私も、子供の頃からずっと、姉さんの背中を追いかけていたから。姉さんと同じことができないと、怒って泣いていたわ。でもあの頃は、まだ良かった。だって、成長すれば姉に追いつけると信じていたもの」
姉よりも背が小さいのは、姉よりも幼いから。弱いのも、成長すれば挽回できる。そう思っていたのは事実ではなく、一生追いつけないのだと悟った時の焦燥を、まだはっきりと覚えている。いつか姉を追い越し姉を守るつもりでいたのに、気づけば姉は、追いつけないところにまで行ってしまっていた。

玄弥は黙って話を聞いていたが、しのぶが黙ると口を開いた。
「でも、胡蝶さんは呼吸が使えます。誰にも負けない医療の技術もある。だから、あなたは俺とは違う。『そんなこと』までしなくたっていいはずだ」
しのぶは言葉を失って、玄弥を見返した。「なぜ、それを知っている」。そんな感情がにじみ出ていたのだろう。玄弥は顎を掻いた。
「誰にも言ってないすよ。でも、藤の毒を摂っているでしょう? 俺は鬼化してるから、何となく藤の毒の嫌な感じは分かります。……普通の人間だって、藤なんて摂取したらただではすまないでしょう」
「……ええ、そうね」
「それでも、止めないんでしょう。誰もそれを望んでなくても」
普通の人間なら、そんなことは止めろというはずだ。でも、玄弥は何も、批判めいたことは口にしなかった。玄弥にも、しのぶの気持ちがきっと、痛いほど分かるのだろう。
「……人のこと、言えないわね」
「弱い者は、手段を選んでいられない」。さっきの玄弥の言葉が心に響いていた。力が弱く、鬼の頚を自力で斬ることもできない自分が、姉に追いつくためにとった手段が、自分の体を毒として、いざとなれば鬼に喰わせて殺すこと。鬼を喰い、性質を取り込むことで戦う玄弥のことを、どうして責められるだろう。

しのぶが黙り込むと、あーあぁ、と玄弥は大きく伸びをした。その場の空気を和らげようとしてくれたのかもしれない。
「出来のいい兄貴と姉貴を持つのも、大変すね。……今頃、何をしてることやら」
「一人で行けばいいのに。姉さんがついていくって言うから」
しのぶの言葉に、玄弥は笑い出した。
「胡蝶さんは、本当に兄貴に突っかかるんですね。俺や他の連中が兄貴に同じこと言ったら殺されてますよ」
「……私が、姉さんの妹だからよ」
「……心配しなくても、兄貴はお姉さんを胡蝶さんから取っていったりしないすよ」
ぐっ、としのぶは言葉に詰まった。どうして実弥に対してあれほど辛辣な言葉遣いになってしまうのか、自分でも深く考えていなかった理由を見抜かれている。要はただの嫉妬なのだ、と認めざるを得なかった。
玄弥は2歳下ということもあり、図体は大きくても子供だと思っていたが、面と向って話してみると思いのほか、周りのことをよく見ているし、思慮深い面がある。


***


その頃、実弥とカナエは、京橋の街を歩いていた。深夜に近い時間帯ということもあり、人影はもうまばらになっている。

カナエが遅れ、実弥が少し先へ行く形になっている。正直なところ、カナエは疲れきっていた。昼間の剣舞で実弥に合わせるために、どれほど無理をしていたか、心は認めたくなくても体は正直だった。どれだけ努力しても、カナエには実弥のような筋力はないから同じようには動けない。実弥がそれに気づいていたかは分からなかったが、実弥がカナエに合わせる気遣いをしなくて良かったと思う。同じ柱なのに手心を加えられれば、深く傷ついたと思うから。

道を歩いていると、あちこちで好奇な視線をぶつけられた。
「ものすげえ美人だな、姉ちゃん」
「俺達と一緒に来ねぇか? 一人だろ?」
こんなことを言われるのにも慣れている。カナエには容姿などどうでもよく、それくらいならもっと力が欲しいと思っていたけれど。いつもなら微笑んでかわすところ、やはり疲れが先立って反応できずに居ると、ずかずかと足音が聞こえた。そちらを見やった男たちがヒィ、と喉の奥で悲鳴を漏らす。
「ぶっ殺すぞ」
実弥が大またで、こちらに戻ってきていた。黙って立っていればそのまま吹っ飛ばされそうな勢いだった。ほうほうの体で逃げ出した男たちをあっけにとられて見守る。実弥はカナエの前で足を止めた。
「いいなぁ」
「何が?!」
「私もそんな風に一瞬で人を震え上がらせる外見だったらなぁ……」
「それ、ただの悪口だろォが」
「悪口じゃないの、本当にうらやましいの」
「わっかんねぇな」
実弥はそう言うと、踵を返してまた歩き出した。しかし、その足取りは少しゆっくりになっている。ほどなく、カナエが隣に並んだ。

「別に、俺一人で良かったんだ」
横顔を見上げると、そんなことを無愛想に言い放たれた。
「私がついていきたかったのよ」
そう返すと、肩をすくめただけで流された。こんな風なことを誰にでもいつでも言うと思われているのだろう。でも、同じ長男長女という間柄だからだろうか、カナエは実弥の隣を歩くのが好きだった。愛想もなければ口も悪いのに、なぜか湯のような温かさが自分を包んでいると思えたから。
「それに、こんな夜更けに、その外見で女性一人の家に踏み込んだりしたら、騒ぎになっちゃうわよ。女手が必要だわ」
「その外見は余計だろ」
実弥はそう言ったが、否定はしなかった。
「それにしても、玄弥くんとしのぶは、仲良くやってるかしら」
急に話題を変えると、実弥は中空を見上げた。
「どうかねェ……なんか想像がつかねぇなァ」
「ごめんなさいね。いつもしのぶが突っかかって」
「別に。大好きな姉ちゃんの周囲に、狂犬がいるのが気にいらねぇんだろ」
思わずカナエは噴出した。
「それならしのぶは、キャンキャン鳴く小型犬ね。不死川くんは狂犬じゃないわ。鎖に繋がれてる訳でもないのに、礼儀正しいもの」
実弥の横顔に、悪戯な視線を向ける。
「……なんか、不満そうだなァ?」
「ええ」
そう頷くと、訝しげな視線を返された。
「……いつものアレか」
「そう。親交を深めてるの」
笑みを作って、実弥の前に出た。実弥の視線が追いかけてくるのを感じた。
「……ねぇ」
夜空に瞬いている星がこんなに美しい。
「このまま二人で、どこか遠くに行ってしまえたらいいわね?」
一瞬の間があった。

「……お前の妹に毒殺されるのは御免だ」
カナエは笑い出した。そして、視線を誰もいない通りに戻した。
「しのぶは、私からもっと離れていいと思ってる。そして素敵な殿方に出会って結婚して子供をたくさん産んで、お婆さんになるまで幸せに暮らしてほしいのよ」
それは、普通の女性として暮らすなら、決して叶わない未来ではなかったはずだ。その芽を摘んだのは、姉である自分。
「あの時に戻れるなら、一緒に鬼殺隊に入ろうなんて絶対に言わないのに。鬼を狩ることの過酷さが、分かっていなかった。実弥くんはそれを知っていたから、玄弥くんを遠ざけていたんでしょう。今だって、近くにいるべきではないと思っているでしょう?」
しばらくの間、沈黙が落ちた。
「……弟や妹は勇敢だな。失うかもしれないと分かっていて、喰らいついてくるんだから」
自分と照らし合わせたのだろうか、そんなことを言った。
「……伊織くんやすずちゃんも、身辺には置かないのよね」
「俺の体質を考えたら、当然だろ」
「ね。実弥くんにひとつ、お願いがあります」
「……なんだァ急に」
「血をください」
実弥はのけぞった。
「本当に何なんだ急に! 会話に脈絡のねぇ女だな。俺の血なんか持ってたら鬼が寄ってくるだけだろ」
「蝶屋敷で、その稀血を調べさせて欲しいの。もしかしたら、鬼を引きつける体質を消したり、せめて弱めることができるかもしれない。そうしたらあなただって、身内と暮らせたり……普通に日常生活を送れるようになるでしょう」
「けっこうだ」
迷うこともない、あっさりとした返答だった。
「俺は結局、家族と平和に暮らすよりも、稀血を利用して鬼を殺す方が性にあってんだよ。家族は、たまに思い出すくらいでいい」
「でも……」
「カナエ」
言葉を継ごうとしたら、遮られた。
「もう俺に構うな」

呼び止める言葉が見つからなかった。
普通に暮らしたい、というのはあくまでカナエの価値観で、実弥がそうではないというならば、押し付けることはできない。でも、家族を一緒にいるよりも、鬼を殺していたいなんて。実弥の鬼に対する憎悪の深さは知っていたが、一体何がそれほど実弥を駆り立てているのか、カナエには分からなかった。

その時、前を行く実弥の方がぴくりと揺れた気がした。次の瞬間、実弥は振り返りざまにカナエの両肩を乱暴に掴み、地面に転がった。それとほぼ同時に、さっきまで二人がいた場所が爆発したように見えた。衝撃で石畳が割れ、石の破片が飛んできた。機敏に起き直った実弥は拳で破片を叩き落した。
―― 鬼?
考えるまでもない。こんなことが人間に出来るはずがない。土煙の向こうに、異形の男の姿が見えた。真っ白い顔を、毒々しい赤い痣が彩っている。上半身は裸で、逞しい筋肉が露になっている。刀や武器の類は持っておらず、生身の体で今の破壊をやってのけたのか。カナエの背筋が寒くなる。

「お前速いな! 絶対に仕留めたつもりだったのに。俺は運がいいな! 柱だろう」
そう言って、鬼は人間のようににっこりと笑った。状況が状況だけに、その笑顔が余計恐ろしい。実弥は、カナエを背後に押しやった。
「そうだ。お前は上弦か?」
「当たりだよ。俺は猗窩座」
「ほぅ」
それを聞いた実弥は、嬉しそうに口角を上げた。こちらもなかなかに笑顔が恐ろしい。
完全に土煙が晴れ、カナエは猗窩座と名乗った鬼が、一人の男の頭を鷲掴みにしているのに気づいた。その格好からして、間違いなく鬼殺隊員だ。意識はないようだが命はあるようで、抜き身の刀を握ったままだった。

トッ、と軽く地面を蹴り、実弥は無造作に前に出た。刀の鯉口に手をやっているが、まだ抜かない。その実弥に向って、猗窩座は思い切り掴んでいた隊員の体を投げつけた。とっさに、刀を持っていない方の腕で受け止める。
「実弥くん!」
カナエはとっさに叫んでいた。その隊員の背後に隠れるようにして猗窩座が迫っていた。隊員の体ごと実弥を貫こうと拳を放つ。
「……お?」
猗窩座が目を見開いた。実弥が、その拳を隊員の手前で受け止めていた。お互いの右腕と左腕が押し合い震える。一瞬実弥が押されたか、と思った刹那、実弥は隊員の体の脇から蹴りを繰り出した。猗窩座の体は背後に吹き飛んだ。途中で体勢を立て直し、くるりと身軽に地上に着地した。

隊員は、投げつけられた衝撃で意識を取り戻したようだった。実弥に支えられているのに気づき、慌てて身を起こした。
「申し訳ありません、風柱! 上弦の参です」
「上弦の中でも上の方なのか。お前は花柱と下がっていろ。お前ら、手ェ出すんじゃねぇぞ。俺の獲物だ」
その体からは、抜き身の刀のような殺気が発せられていた。近くにいた隊員が思わず身を引いて離れたほどだった。背中に染め抜かれた「殺」という一文字が本当に似合う男だと見ていたカナエさえ思った。しかし、感情的になっているかと思いきや、その瞳は意外なまでに冷静だった。

猗窩座は実弥に蹴られた腕を見下ろしていた。肘のところで骨が粉砕され、ぐにゃりと曲がっている。ぶん、とその腕を振り回した時には、何事もなかったかのように元に戻っていた。
「イキがいいなぁ、お前みたいなのは好きだよ。肉弾戦の得意な奴が鬼殺隊にいるのは知らなかった、みんな剣術遣いだとばかり思っていたよ。で、お前は実弥というのか。女の子みたいな名前だな」
「やかましい」
そう言いながらも、実弥が周囲の様子を伺うのが背後にいたカナエには分かった。

場所は京橋の通りで、両側に店が立ち並んでいる。幸い夜更けのため店は閉まっており通りに人気はなかったが、ここで風の呼吸を使うのはまずい。間違いなく周囲に被害が出る。相手から距離を取れず、刀か肉弾戦で戦うしかないとなると、更に不利となる。

次に先手を取ったのは猗窩座のほうだった。カナエがはっとする間に、実弥の懐に飛び込んだ。実弥が咄嗟に抜刀しようとして、止まった。猗窩座の拳が、抜こうとした刀の柄尻を押さえている。
「刀は抜くなよ、お前とは拳で戦いたい」
純粋な力では猗窩座が上か、実弥は刀が抜けない。猗窩座が反対の拳で打ちかかってきたところを紙一重でかわした。空気がひゅうと鳴り、かすっただけなのに実弥の白い髪がぱっ、と暗闇に散った。相手の伸びきった腕をすかさず実弥が掴む。思い切り頭突きを喰らわせた。もう一発、と迫ったところに猗窩座の蹴りが襲う。実弥は身軽にその足にトンと手をつき、背後にくるりと宙返りして着地した。奇しくも、昼間の剣舞と似た動きだった。

「押し引きになれた戦い方だなァ。まぁ、一撃でも当たったら終わりだからな。人間だから」
最後の言葉で口角をあげる。
「なぁ、実弥。鬼にならないか? そしたら心行くまで戦えるぞ」
その言葉で、実弥の表情が明らかに変わった。憤怒の感情も露に猗窩座をにらみつけた。
「鬼はこの俺が、最後に一匹まで滅殺する。くだらねぇことを二度と口にすんじゃねぇ」
そう言い終わるが早いか、無謀ともいえる勢いで正面から猗窩座に突っ込んだ。顔の側面を狙った実弥の蹴りを、腕で受ける。腕がひしゃげたが、猗窩座は全く痛みを感じていないかのように、にやりと笑った。そして至近距離に詰めたかと思うと、右の拳の一撃を実弥の腹に叩き込んだ。
「!」
鈍い音が響き、カナエは思わず目を閉じた。
「ん?」
猗窩座は目を見開いた。恐らく胴体を貫いたつもりだったのだろうが、その拳は実弥の腹で止まっていた。実弥はにやりと笑うと、体を鞭のように背後にしならせ、思い切り右の拳を猗窩座の鼻っ柱に叩き込んだ。

勢いに耐え切れず、猗窩座が背後に跳び下がる。実弥はすかさず、地面に落ちていた刀を拾い上げた。
「俺の刀!」
見ていた隊員が声を上げる。実弥は刀を横様に向って投げつけた。その刀は高速で回転しながら迫り、起き直ろうとしていた猗窩座の首を一気に吹き飛ばした。
「――っと!」
猗窩座は咄嗟に自分の頭を両手に掴むと、首に乗せなおした。回転して戻ってきた刀を受け取った実弥が目を凝らす。
「今首を飛ばしたよな?」
「ああ」猗窩座も驚いたように頷いた。「今のはまずかったけど、綺麗に飛ばしてくれたおかげで、どうやらくっついたよ。それにしても固い腹筋だな! 貫けなかったのは初めてだ」
「……どうも」
「でもちょっと休んでもいいよ。お前とは長く戦いたいし」
「ふざけんな」
わずかに息が上がってきているのを、見抜かれている。

その時、カナエが実弥の後ろから声をかけた。立ち上がり、実弥の隣に歩み寄る。
「こんな街中に、上弦が何の用なの」
油断なく、刀の柄に手をやっている。肉弾戦では結局、どれほど遣り合えたところで鬼は殺せない。だから実弥はここぞというところで刀を使ったが、唯一の弱点であるはずの首を斬り落としてもあっさり復活するとなると、いよいよ一筋縄ではいかない。考える時間が欲しかった。猗窩座はカナエを見て、なぜか眉を顰めた。
「稀血の人間がこの辺にいると聞いたんだ。効率よく強くなるには、稀血を喰うのが一番だからな」
「それなら、俺が――」
「言わないで不死川くん。話がややこしくなるから」
戦いを背後で見守っていた隊員が、こらえかねたように怒鳴った。
「稀血だからと言ってまだ幼い女の子を狙うなんて、お前は外道だ!」
反応しないかと思われた猗窩座は、その言葉に意外なほど反応した。ぽかんと口を開ける。
「稀血は、女なのか」
「そうだ! それも知らずに探してたのか」
「なーんだ」
猗窩座は急に、しらけたように両方の掌を宙に向けた。
「女は相手にしない。じゃ稀血を襲うのは止めだ」
実弥が、自分が稀血だということを明かさなくて本当に良かった、とカナエは思った。それにしても、女は相手にしないと今この鬼は言った。それならば、実弥よりも自分が戦うほうがもしかしたら有利かもしれない。カナエは手にした刀を握り締めた。

「おい、下がってろ」
不機嫌に実弥に押しのけられる。それと同時に、猗窩座が前に出た。
「そうだ、女は下がってろ。せめて実弥と最後まで戦って帰りたいよ、俺は」
構えた、と思った次の瞬間、猗窩座の体が消えたようにカナエには見えた。考えるよりも先に体が動き、実弥の前に飛び込んだ。はっ、と背後で実弥が息を呑むのがわかった。
「どけ女――」
猗窩座にもカナエの動きは意外だったのだろう。目を見開いた。振り下ろされた猗窩座の拳は、遠目で見ていたよりも断然速く、全くカナエの目には見えなかった。刀を構えた時には巨大な拳が目の前に迫っていた。まずい! と全身の産毛が全部逆立つ。

ごっ!!

激しい音が響き、カナエは一瞬、自分が死んだと覚悟した。でも予想していた衝撃も痛みもない。数瞬空けて、実弥がカナエに打ち当たってきた。
「実弥くん!」
何時の間に、カナエの前に出てきたのかさえ見えなかった。自分より二周りは大きな体を抱きとめて確認すると、実弥のこめかみが内出血でドス黒い赤に染まりつつあった。カナエを襲ってきた一撃から守ろうと、とっさに前に出て代わりに攻撃を受けたのか。実弥は口の中で呻き、こめかみを押さえた。恐らく脳震盪を起こしているのだろう、意識レベルがかなり下がっている。反射的に立ち上がろうとしたが、ふらついて地面に膝をついた。
「――っ!」
次の一撃が来る。カナエは刀を手に前に出ようとしたが、伸びてきた実弥の腕がカナエを捕まえた。
「何を……」
実弥はカナエを押さえ込むように胸に抱えると、猗窩座から背を向ける。ほとんど意識もないのに、動かない体で、必死に守ろうとしてくれているのか。
「どいて!」
カナエは叫んだ。このままでは実弥から先に殺されてしまう。

しかし、予想した攻撃はどこにも襲ってこなかった。猗窩座は、身軽にひょいと背後に引いた。
「風柱、花柱!」
隊員が必死の形相で二人に向って駆けてくる。あーあァ、と猗窩座はそれを見て、ため息をついた。
「やめだやめだ! 外野が多すぎる。狙った稀血は女だし、女を殴りかけるし、せっかくの夜が台無しだ。胸糞悪ぃなぁ。俺は帰る。今度は一対一で勝負したいな、実弥」
「……オイ、待て!」
意識が戻ってきたらしく、ふらつきながらも実弥は前に出ようとした。
「止めないで!」
カナエが実弥の腕を掴んで止めた。
「離せ!」
実弥が振り払って再び前を見た時には、猗窩座の姿は消えていた。