ドッ、と雪を一足蹴るごとに、雪が粉のように周囲に散った。
一歩で一里をゆくと呼ばれる瞬歩だが、傷のせいかいつもより遅く感じる。


――こほっ、こほっ

咳をする娘の声が聞こえる。口から真紅の椿を散らす、娘の姿が。
白しかない世界で、黒く小さく、あの小屋が見えた。
その小屋の周りに佇む数人の影。そして、その下に横たわる、さらに小さな影が一つ。

「貴様・・・!」
私がその場に立ち止まると、月斎は目を剥いてこちらに向き直った。
その手にした抜き身の刀から、ポタリ、と血の雫が落ちた。

そして、月斎の後ろにピクリともせずボロ布のように横たわる、血に塗れた娘の姿。
「その娘を、渡してもらおう」
「まさか、この女のために戻ってきたのか?天下の死神様がよ」
ニヤリ、と月斎は笑った。
「貴様ら死神は、俺たち流魂街の住人の命など、なんとも思ってねえじゃねえか。
俺の弟を平気で死地に追いやっておいて、この娘は気になるのか?
全ては死神様の匙次第なのか」

この男の、言うとおりだ。
現世とソウル・ソサエティの魂の量を偏らぬように調整するのが死神の役割。
そのためには、ソウル・ソサエティ内にも魂が偏在せぬように調整する。
魂とは、死神にとっては「量」であり、「個」ではない。
そうでなくては、ならないのだ。
それなのに。

私は、斬魂刀を引き抜く自らの腕を、他人のように見つめていた。
私が、私に反抗している。
月斎は、そんな私の目を正面から見つめた。
「へっ、そうかい」
そう吐き捨て、刀を正眼に構える。

私は刀の切っ先を天に向け、自らの体と平行に構えた。
「散れ、千本桜」
刀身が桜色に染まり、崩れていくのを、月斎は呆然として見守った。
そして次の瞬間・・・その全身が血を吹いた。

「・・・すまぬ」
何が起きているか、まだ分かっていないのだろう。
目を見開いたままの月斎に、私は呟いた。
月斎は、血の泡が浮かんだ口をかすかに動かした。
「俺の・・・息子の前にも、お前のような、奴がいてくれれば・・・」
私が男の横顔を見やると、月斎は私が今まで見たことがない、複雑な表情をしていた。
微笑むような。慟哭するような。苦しむような。

「・・・ちくしょう」
雪の中、音もなく月斎の体が倒れる。
あたりの雪が、見る見る間に赤に染まっていった。

 

雪の中に倒れ伏した娘の体を、私はゆっくりと抱き上げた。
「さ、くらを見ました・・・」
血がゆっくりと、その口元から喉へと伝ってゆく。
腕に感じる肩はまだ温かい。弱いが鼓動を感じる。

――護る人を持たない人と、護る人を失った人と、どちらが寂しいのでしょうね。

私は、私の腕の中で重みを増した娘の体を、抱えなおした。
「ヒサナ」
声にならない吐息を、娘が漏らす。
「死ぬな」
娘の目がかすかに見開かれる。
異様なまでに輝いていたその瞳はかすみ、焦点が合わない。
「あり・・・がとう。それだけで、十分です・・・私は」
それを最後に、娘の言葉は途絶えた。

 

「・・・白哉様」
突然正門から戻ってきた私に、清家は驚いた声を漏らした。
中で会合をしているはずの私が、血塗れで、同じく血塗れの娘を抱いて現れたのだから無理もない。
しかし、清家はすぐに平静な表情に戻った。

「その方は?」
「ヒサナ、と名乗っていた。流魂街の・・・」
「白哉様」
清家の声が、私を遮った。
私が幼少の頃から家に仕えているが、私の言葉を遮るのは初めてだった。

「仮の話ですが。五大貴族の一つ足るこの家に迎えられるには、条件があります」
「・・・聞こう」
当主たるもの、いや当主だからこそ、まっ先に秩序の僕でなければならない。
長年朽木家に仕えつづけてきた清家の言葉は、下僕でありながら、朽木家の掟そのものでもあった。
恐らく、この清家を筆頭に、激しい反発を受けることになるだろう。

無表情を崩さない私に、清家は柔和な表情のまま続けた。
「カタカナの名は下賤な者の証です。カタカナは、いけません」
「・・・それだけか」
「白哉様のご意向に、背くつもりなど毛頭ありません。私は白哉様の僕ですから」
私は、娘の表情を見守った。
はじめて会った時の、純白の中の紅が頭をよぎった。

「この娘の名は、緋真だ」
清家は私と、緋真に頭を下げた。
そして、門の脇に退いた。
胸の疼きは、嘘のように消えていた。


****************************


緋真、か。
ふさわしい名ではなかったかもしれない、と今になって私は思う。
我が妻となった緋真が、胸の病で血を吐いて逝ってから、もう50年以上が経つ。
庭に変わらず咲く椿の紅から、私は目をそらした。

雪の舞う庭を臨む縁側を通り、仏間へと足を運ぶ。
扉を開け、そこに座布団もなしに正座をする小さな背中を見つけた。
「・・・白哉兄様!」
黙って手を合わせていた娘は、ふと私の気配に気付いたのか、慌てた素振りで振り返る。
その黒い大きな瞳があまりに緋真と瓜二つで、私は息を飲んだ。

「何をしている、ルキア」
「姉様と、話をしておりました」
仏間には、緋真がかすかに微笑んでいる写真がかかっている。
もしも。緋真が生きている間にルキアを連れてこれたら、あるいはもっと、心から笑えたかもしれぬ。
それほど緋真は常に行方不明の妹を想い、最後まで捜し続けていた。
「・・・姉を恨むか、ルキア。一人戌吊に置き去りにされたことを」

それは、おそらく緋真が一人で何度も何度も自問自答したであろう、質問。
しかしルキアは、即座に首を振った。
「姉様のおかげで、私は兄様と出会うことができました。恨んでなどおりません」

姉と生き写しのその瞳には、もう影はない。
その影を取り払ったのは私ではなく・・・今は亡き海燕に気配が瓜二つの、あの子供だ。

―― 人は、ひとりでは完成しないのです。

緋真の声が耳によみがえる。
傷ついた姉の瞳は、澄んだ妹の瞳となり。
妹に殺されたあの男の声は、黒崎一護に引き継がれ、今もルキアを救い続ける。
巡り巡る人の世の輪廻の中で。私は、静かに手を合わせた。
 

完