セフィーロで、夜を過ごすのは久しぶりだった。
長い髪を揺らして吹き抜ける潮風は心地よく、海は砂浜近くの小さな東屋の椅子に腰を下ろして、潮騒に耳を澄ませていた。夜空にはいくつかの小さな星に混ざって、チゼータ・ファーレン・オートザムの3つの星が輝いている。地球で言う「月」に大きさも光り方もよく似ているが、形はそれぞれ違っていて、異世界にいるのだと実感する。
風に乗って潮の香りがする。目を凝らすと、白い波がちらっ、ちらっと闇の中で光る。絶え間ない、引いては返す波の音。フクロウのような鳥だろうか、ホー、ホー、と鳴く声が静かに聞こえている。
光と風は、残される海を心配しながらも、1時間ほど前にそれぞれセフィーロを発った。考えてみれば、このセフィーロで三人が離れ離れになるのは初めてではないか。少なくともこんな風に一人なのは経験がなかった。淋しくはあるが、吹き抜ける風に開放感を感じる自分もいる。たまにはいいか、と思う。きっとあと数時間も経てば、ひとりで過ごす夜が淋しくなるのだろうけれど。もし淋しくなったら、プレセアかカルディナのところへ行こうか。それとも。
「―― クレフ」
またクレフを一人で訪ねれば、優しい笑顔を向けてくれるだろうか。
三年前の深夜、二度目にセフィーロに召喚された日の夜に、一人でクレフを訪れたことを思い出す。エメロード姫の悲劇の後、東京に戻された海は毎晩なかなか眠れず、やっと眠れたと思っても悪夢にうなされた。頭も、胸の奥もずきずきと痛み、うまく微笑むことができなくなった。その原因を、海は自分でよくわかっていた。
いきなり召喚されて何も事情がわからなかったとはいえ、浚われた姫を救うという展開を、まるでゲームのようにとらえていた。初めて会った住人、クレフの言葉に向き合わず、彼が心に抱えていたに違いない苦悩に全く気づかなかった。ゲームでも何でもなく、この世界の中では目の前のことが「全て」で「現実」だったというのに。
いつかは必ず、自分の本当の世界である「東京」へ帰る。「セフィーロ」は仮の世界だと考えていたから、全てをどこか、軽く捉えていたのは否めない。その結果、エメロード姫を「殺して」しまうという、とりかえしがつかない結末を迎えてしまった。
あの時の、人の体を貫いた時の衝撃は生々しく手に残っている。ゲームではありえないとこれ以上ない程に思い知らせる重みだった。よくできたモノクロの絵の中の血が赤く見えるように、海には時折、自分の手が真っ赤に染まって見えることすらあったのだ。
二度目にセフィーロに召喚された日の夜も、こんな風に真っ暗だった。あの時、誰もいない暗く長い廊下を歩きながら、この先の部屋にクレフがいてほしいのか、いないほうがいいのか分からなかった。謝ろう、謝ろうと何度も何度も心で呟いていたが、一体どう謝ればいいのか見当もつかなかった。
エメロード姫は、クレフにとって大切なひとだったに違いない。ザガートも、彼の弟子だったと後から聞いた。それなのに二人とも、この手にかけてしまった。二人が戻ることはもう絶対にないのに、今さら何を、謝ると言うのだろう? 謝っても、許せるはずも、許されるはずもないと分かっていながら。ただ、足はまるでクレフを求めるように、勝手に彼の方へ向かっていた。
重々しい扉は閉まっていた。その前に立ち、海はノックをしていいものか逡巡した。すると、扉は音を立てて不意に開いた。光が差し込んだ先の部屋には、クレフが一人でいた。
「―― どうした、ウミ」
そう言われた瞬間、言おうとしていた言葉たちは心から飛び去ってしまい、クレフを見つめることしかできなかった。ただ、いつもと変わらない佇まいで見返してくれたことに、ほっとして何だか泣きそうになったのを覚えている。
ごめんなさい、と謝った海の深い悔恨を、クレフはあっさりと吹き払ってくれた。「お前が自分を責めることはなにもない」。その、たった一言で。まるで、魔法のようだった。
―― 「眠れないのなら、薬湯をやろう」
その一言を思い出して、海はくすりと笑った。確かにあの薬湯は心身に染みわたるように感じた。でも、あの日から海が眠れるようになったのは、あの薬湯のおかげではなく、クレフの一言があったからだ。どんな強い魔法でもなく、セフィーロのどんな薬でもなく、たった一言。たぶんクレフはあれほど長く生きていながら、自分自身のほんとうの力は知らない。
***
突然足音が近づいてきて、海はハッと我に返った。一瞬、想い人が現れたのかとドキリとしたが、すぐに違う、と思いなおす。足音は無遠慮に大きく、大人の男のものだった。東屋の柵を掴んで、大きな人影がいきなり中を覗き込んでくる。海は座ったまま向き直った。
「何よ」
女性が一人でいるところを、いきなり覗きこんでじろじろ眺めるとは失礼だ。自然と目線が厳しくなる。暗闇の中で、獣のような金色の瞳がまたたいた。
「……こりゃ、びっくりやな」
小麦色の肌で、茶と赤が交ったような髪をした若い男だった。タータ・タトラの姉妹とまったく同じ色合いだった。フェリオのように髪を背後で結んでいて、筋骨は逞しい。
「こんな別嬪さん、初めて見たわ」
そう言うが早いか、柵を身軽に乗り越えると、海の隣にぴったりと体を寄せて座ってきた。
「近っ!」
海は慌てて立ち上がる。人が物思いにふけっていたというのに、あまりに場違いな男の乱入に、何だか腹が立ってくる。
「あんた、その関西弁……チゼータから来たのね?」
「カンサイベン? なんやのそれ。でも、チゼータから来たんはほんまやで。恋と情熱の国や!」
「……初耳なんだけど、そのキャッチコピー」
「俺がつけた!」
「じゃあ、帰りなさいよ、その恋と情熱の国に」
指をこめかみに当てたくなってくる。こういう男が一番生理的に苦手だった。男は少し首をかしげた。
「でも、このままチゼータにおったら、危ないしなぁ。どうせここに来ることになるし」
「えっ?」
「ンなことより、俺はマスターナ。あんたは?」
「……海よ」
名前は教えても、決して名字は教えたくない。そう思わせるような胡散臭さが、ニカッと笑った男の全体からにじみ出ていた。さっき聞き捨てならないことをさらっと言った気がするが、こんな男の言うことをまともに捉えるのも馬鹿馬鹿しかった。
マスターナ、と名乗った男を、海はもう一度見た。顔立ちは整っているし、東京あたりを歩いていたらモデルのスカウトがかかりそうなほどスタイルもいい。でも口角を吊り上げる笑い方や、その話し方には軽薄さを感じる。話の内容など言わずもがなだ。
「ウミちゃんか、ええ名前やなぁ。この近くにいい店あるねん。一緒に行かへん?」
ここは渋谷のセンター街か? 海は一瞬、デジャ・ビュでくらりとした。そのあたりを歩くと、海は大概この手の男にこの手の言葉をかけられる。しかし、ここはセフィーロ。いわゆる「店」などないのは分かりきっている。
「私、帰る」
こんな男とは、できる限り言葉を交わさないに限る。海は有無を言わさず立ち上がった。
「ええっ、帰るん? ええやん。もうちょっとだけ」
「駄目」
悲しげな顔にほだされては駄目だ。海はわざと首を逸らした。しかしマスターナは思ったよりも手強かった。強引にも、海の肩に後ろから手を回し、ぐいと引き寄せて来る。
「放しなさい!」
「強気な女は好きやで」
このセクハラ男、と海は本気で腹を立てた。魔神は呼びだせないが、魔法はまだ使えるのだ。「水の龍」で吹っ飛ばしてやろうか。半ば本気でそう思った時だった。
「何をしている」
落ち着き払った声が東屋の外から聞こえた。マスターナがそっちに注意を取られた隙に、海は男の肩を思い切り突き飛ばした。
その声が誰なのか、考えるまでもなかった。海はほっとして、声が聞こえた上空を見上げる。近くの樹上に見慣れた影が見えたと思った時、その人影はさっと飛び降りた。柵をとん、と蹴って、海の前に身軽に着地する。そういえば、いつも重々しい法衣に身を包んでいるからその印象がないが、意外と身が軽い。その肩には、小さなフクロウが止まっていた。
「……クレフ!」
海が駆けよると、クレフはさっと海の全身を見た。怪我がないか気に掛けてくれたのだろうか。彼はすぐに視線をそらし、海の前に立つとマスターナと向き合った。
マスターナは、目を丸くしてクレフをみやった。
「誰や? このおおさわな格好した子供は」
クレフに対する、こういうリアクションは久しぶりだった。自分の初対面の態度を棚に上げて、海ははらはらしてクレフを見下ろした。もうひとつ意外なことに、クレフは気が短い。
「子供はおネムの時間やろ。おうちへ帰って、はよ寝」
彼の肩を無遠慮に掴んで押しのけようとした時、クレフは手にした杖をマスターナに向けた。
「ちょ、ちょっと!」
ひょーいとビーチボールのように空中に投げ上げられたマスターナを見て、海は焦った。一体どうするつもりなのか。更に意外なことに、クレフは時々、相手が怪我をしない程度に暴力的だ。海も、初対面の時に杖の先で二回も叩かれた記憶がある。
「頭を冷やせ」
どぼーん、とマスターナが海にはまる音がした。
「助けて! 助けて! 泳げへんのや!」
「って言ってるけど? クレフ!」
「あの辺りの海は、一番深いところでも、あの男の胸のあたりまでしかない。どうやったら溺れるというのだ」
クレフは平然としている。
「助けて! 助……」
「何も言わなくなっちゃったけど……?」
「……」
海とクレフは、二人で真っ暗な海面を見やったが、ぶくぶくと白い泡が見えるだけだ。せいぜい1.5メートルほどの深さなのだろうが、1.8メートルほど身長があって、数学的にこの溺れ方はおかしいと思う。
「……。しかたない」
クレフが杖を、マスターナが沈んだと思われる方へ向ける。すると、全身ずぶぬれになったマスターナが、落ちた時と同じようにひょーいと空中に投げ上げられた。そのまま砂地に下ろされたが、へたりこんでぜいぜいと息をついている。
「……いま、どうやって溺れてたの? 天才的なカナヅチね……」
海のはなった、さらりと手厳しい言葉も気にした風もなく、海に声をかけられたことが嬉しそうだ。その場にあぐらをかいて、二人を見上げた。
「いやな、チゼータってちっこいやん? 海も膝下くらいまでしか深さがないんや」
「嘘でしょ? さすがに」
幼稚園のビニールプールじゃあるまいし。
クレフがため息をついた。
「とにかく! 立ち去れ。彼女にちょっかいを出すな」
「や、許してくれよ。チゼータではこんなの、挨拶がわりやって」
「嘘だろう。いくらチゼータに軽は……いや、調子のいい者が多いと言っても」
「あんた今、うっかり軽薄って言おうとしたやろ」
まあ、否定せえへんけど、とあっけらかんと続けた。
「否定しないの……?」
そこは、否定してほしかった。チゼータに今晩発ったばかりの光が心配になってくる。人を疑うということを知らないのだ。声をかけられたら、あっさりついて行ってしまいそうだ。ランティスが一緒にいったから大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。
マスターナは、何事もなかったかのように立ち上がり、二人のいる東屋に近づこうとした。しかしクレフが杖を握った手に力を入れると、恐れをなしたように立ち止る。
「ていうか、あんた誰や? 魔法使いか? 偉い人なんか、名前は?」
「ただの大層な格好をした子供だ」
クレフも皮肉を言うのだ、ということを海は初めて知った。ただ、この男に名乗りたくない気持ちは分かる。
「根に持つ男はモテへんで?」
「いいからさっさと行け!」
ついにクレフは怒り出した。半分呆れたようでもあるが。
これは駄目だと思ったのだろう、マスターナは案外あっさりと背中を向けて、二人に手を振った。
「じゃあな、またどこかで。あんた、ウミちゃんが美人やからって口説いたらあかんで!」
お前が言うな、と呟いたクレフの独り言に、海は思わず噴き出した。
***
海は、マスターナが立ち去った方向に体を向けているクレフの背中を見やった。今さらのように、事の経緯が思い出されてくる。
―― 見られてた、わよね……? 思いっきり。
あの男に抱きしめられそうになっているところを、見られた。と思うと気恥かしく、いたたまれなくなってくる。さっき海からすぐ視線を逸らしたのも、彼なりに気を遣ったのかもしれなかった。いっそあと十秒ほど遅くて、「水の龍」で相手をふっ飛ばした後なら、ある意味まだマシだったかもしれない。 魔法をくだらないことに使うな、と小言を食らうだろうが、叱られるのはいつものことだ。ただ、こんな出来事は今まで二人の間で起こったことがなかった。庇ってくれたのだから、ありがとうと言うべきなのだが、海は自分の顔が赤くなっているのを感じた。
もうしばらくあっちを向いていてほしい、という海の願いもむなしく、クレフはくるりと振り返った。
「と、いうわけだ」
「えっ? なにが?」
思いがけない切り出し方に、海は赤面しているのも忘れて聞き返した。
「国交が盛んになってから、四カ国間の人の出入りは増えた。それはいいが、今までにない問題が起こるようになったのだ」
「……ああいう問題ね」
海は、マスターナが去って行った方向を指差した。国交、などと、色恋には全く関係ない単語を出だしに使ってくれて助かった。それに、海が動揺しているのにも気づいていないようだ。
「ああいう輩は、今までのセフィーロにはいなかった」
「そうでしょうね……」
海がセフィーロで会った人々はさほど多くなく、城で会っても挨拶を交わしたり、軽く雑談したりする程度だ。異世界なのだから全然関係がないのだが、ここの人々の生活に触れるにつけ、昔母親に読んでもらったことがある『ハイジ』という小説を毎回連想してしまう。皆このセフィーロにふさわしく、清く純粋で、無邪気とも言える人々ばかりだった。生活は「魔法」に支えられていたが基本的には質素で、家の調度も日々の食事もささやかなものだ。美しい自然の懐に抱かれるようにして、起伏の少ない暮らしを送っているようだった。
だから、いきなり女をナンパするような男はセフィーロにはどう考えてもそぐわない。チゼータでなくても、たとえば高度に機械化されたオートザムの文化が入ってきたら、セフィーロはどうなるのだろう。
「いいところだけを取り入れるっていっても、無理があるわよね」
「それはそうだ」
クレフはあっさりと認めた。
「困りごとや騒動が増えたのは事実だが、それも含めてセフィーロは活性化している。ある程度は大目に見ねばならんな」
「その割には、けっこう今容赦なかったわよね……?」
「……いったい、何事かと思ったぞ」
クレフは腕を組んで、背後の柵にもたれかかった。そして、肩にとまったままの小さなフクロウを見やる。
「『大変だ』と、この鳥が部屋まで知らせに来てくれたのだ」
二人の視線が集まると、フクロウは、ホーホーと控えめな声で鳴いた。さっきまで一人でいた時、潮騒に混じって聞いていた声と同じだった。マスターナが現れてからは耳から抜け落ちてしまっていた。
「無事でよかったと言っている」
「本当に?」
海の耳には、ただの鳥の声にしか聞こえない。が、クレフが言うなら事実なのだろう。海はかがみこむと、フクロウの頭を指先で撫でた。
「ありがとう」
フクロウは気持ちよさそうに目を閉じている。それを見たクレフが微笑んだ。
「……だから、夜に出歩くのは昔とは違う意味で面倒なのだ。この辺りはほとんどいないが、魔物も稀に現れる。部屋まで送ろう」
「うん……ありがとう」
そう言いながらも、海はその場から立ち去りがたかった。二人になれることは、この先も滅多にないだろう。それに、景色はあまりに平和で美しい。でも、忙しいだろうクレフのことを考えると、ここにいたいとも言いだしかねた。
「ここにいたいのか?」
つかの間黙っていると、心の声を聞かれたように、そう尋ねられた。海がクレフを黙ったまま見ると、視線がぶつかった。思いがけず、どきりとするほど優しい笑顔を浮かべている。すい、と海の隣を通り過ぎ、星空を見上げた。通り過ぎざまに、やわらかな法衣が海の腕を撫でた。
「お前は、椅子が欲しいおーぶんが欲しいと、どうでもいいことはすぐ言ってくるが、時々妙に自分を抑える癖があるな」
「こういうときって、何よ……」
「お前は周囲に気を遣うし、何より繊細だ。でも、私といる時には気遣いは無用だ」
ああこの空気だ、と海は思う。心の底で絡まっていたいろんな複雑な思いが、一度にほどけていくような気持ちになる。今クレフと一緒にいる、ただそれだけで、他の全てがなんでもないことのように思えてくる。「ありがとう」ととっさに言いかけて、言葉を止める。今のこの空気に、その言葉は似合わない。
「じゃあ、そうするわ」
「ああ」
海は、クレフのすぐ隣の椅子に座った。座ったまま見上げると、佇んでいるクレフの銀髪が、闇の中で薄い紫のように目に映った。銀髪の向こうに、星空が広がっていた。彼の視線は、空にひときわ大きく見える、三つの星に向けられていた。ファーレン・チゼータ・オートザムに。
「……ウミ」
「なに?」
「どうして、ヒカルやフウと他国へ行かなかったのだ? 具合が悪いのか?」
「いいえ」
「では、なぜだ?」
海は一瞬、口ごもった。思っていたことをそのまま伝えるのは、ごまかすより余程むずかしい。
「気遣いはいらないのよね?」
「ああ」
「クレフが、セフィーロを離れないと言ったからよ」
「え?」
まさか自分が原因に挙がるとは思っていなかったのだろう。クレフの目が意外そうに見開かれた。海は、クレフに向きなおった。
「あなたには今、すごく気にかかってる……心配してることがある、違う?」
クレフも、海に向きなおった。風が二人をあおり、クレフの法衣の裾が海に届く。
「あの時」―― タトラの誘いを断った時のクレフの表情を思い出す。断る直前にクレフは言葉を止め、一瞬だが何かを考え込んでいた。まるで、自問自答しているように見えた。それはあくまで海がそう思っただけで、他の人はただの何気ないやり取りだと捉えただろう。しかし―― その時感じた違和感を、どう伝えればいいだろう?
海は注意深く言葉を選びながら続けた。
「あなたは、自分のことじゃ悩まない。悩むとすれば、このセフィーロのことでしょう? クレフ、あの時と同じ顔をしてるわ。三年前、セフィーロが崩壊しそうになってた時と」
「……だから、セフィーロに残ったのか」
「魔神を失っても、私たちは魔法騎士よ。セフィーロに何か起こるかもしれないのに、三人ともここを離れるわけにはいかないわ。ここにいたら、何かあった時、力になれるもの」
クレフは、いつもは口ごもることすらないのに、つかの間、言葉を忘れたかのように海を見返していた。
「……なにか言ってよ」
「いや……驚いた。そんなことを考えていたのか」
本当は、それだけが理由ではないけれど。というよりも、その奥に更に、本当の理由があるけれど。海はそれを今、クレフに告げるつもりはなかった。クレフは、すとん、と海の隣に腰を下ろした。互いに、肩が触れ合うくらいの距離だった。間近で見下ろすと、その顔立ちは本当に少年のもので、あどけなくさえ見える。
「確かに、ここのところ胸騒ぎを感じているのは事実。ただし、私にもその正体が何なのか、わからないのだ」
「クレフにも?」
海が驚くと、クレフは苦笑した。
「私にも分からないことはたくさんある。このセフィーロのことであってもだ」
そして、夜空を見上げながら続けた。その表情からは笑みが消えていた。
「国交は安定してきているし、魔物の数も減少傾向にある。国は栄え、人々はおおむね平和に暮らしている。良くなりこそすれ、危険を示す兆候は何もない。何もないのだが……この胸騒ぎは大きくなるばかりだ」
その言葉は、ひとりごとに近かった。海が隣にいることも、忘れているようだ。少なくとも海がいる時、クレフが今のように無表情だったことはない。
返事を求めるような言い方ではなかった。こういう時は、自分で自分に問いかけ、自分で答えを出す癖がついているのだろう。セフィーロの中心人物たちは心の強い者揃いだが、みな、クレフにとっては教え子か目下にあたる。対等に話し合える者はいないのだ、ということに今さらのように気づき、海は軽いショックを受けた。常に人に囲まれているから分かりづらいが、クレフが抱えている孤独は思いがけないほど深いのかもしれない。
「そう……なの」
何か言えないかと懸命に考えたが、セフィーロを誰よりも深く知っているクレフが分からないということに、海が答えを返せるはずもなかった。だからといって、表面的な言葉でその場をつくろうのも嫌だった。海は唇を噛んだ。
「ただ、この胸騒ぎには覚えがある。何だったのか、思い出せないのだ」
クレフは視線を落とし、おそらく無意識のうちに指先で額の宝玉に触れた。
「私は―― 恐ろしい」
ぽろりとこぼれ出た言葉に、海は思わずクレフを見つめた。胸がぞくりとした。これまでクレフは、セフィーロの崩壊の危機の時ですら、恐れる素振りを微塵も見せなかった。その彼を、「恐怖させる」ものがあるとすれば、それは一体なんだというのか。
クレフは、自分の言葉が海に反響したのに気づき、同時に今自分が何を言ったのか思い出したようだった。
「すまない、心にもない事を口にした。今のは、忘れてくれ」
彼にしては口早に、今の発言を取り消した。
最高位の魔導師。国の最高責任者。そのような立場の人間が、軽々しく不安を口にできるはずもない。たとえ大海の中の一滴であっても、導師クレフの一言は大海を漆黒に変えるほどの力を持っている。
―― 嘘でしょう?
心にもない事、のはずがないのに。海は唇を噛んだ。クレフが、思ってもいないことを口にしないことは分かっている。でも、彼はそれを嘘にすることしかできないのだ。彼の考えていることが、海にはその時、手に取るように分かった。
「冷えてきたな、城へ戻ろう」
そう言った時には、クレフの声は平静に戻っていた。そして海を促し、立ちあがろうとした。行ってしまう―― そう思った時には、海はクレフに指先を伸ばしていた。
クレフの肩口に止まっていたフクロウが、驚いて夜空に舞いあがった。
「―― ウミ?」
耳元で聞こえた、戸惑ったような声が、心を震わせる。初めて触れたその銀髪は冷たく、幾重もの法衣をまとった体は思いがけないほどに細く、あたたかかった。最高責任者とか、750年近い長寿だとか、一体なんだというのだろう。この人はちゃんと人の体を持っていて、今ここにいて、独りで苦しんでいるというのに。胸が脈打つように痛い。その時、海は初めて、これほど人を愛おしいと思った。
クレフは、海に自分から触れることはなかったが、彼女の腕の中で拒むでもなく動きを止めていた。海の右の肩口に、クレフの額があった。表情をうかがい知ることはできないが、彼が一度大きく、息をつくのが伝わってきた。
「クレフは、みんなを護ってくれる。みんながそう信じてる。でもあなたは、自分だけは護ろうとしない。……あぶなっかしくて、ほっとけないの」
「そんなことはないぞ」
クレフが微かに笑う気配がした。
「その証拠に、750年近くも生きている」
「―― その750年の間に、あなたを守ってくれた人もたくさんあったでしょう」
クレフが、虚を衝かれたように身じろぎした。
「そう―― だな。その通りだ」
きっとクレフにも、育て慈しんでくれた親もいれば、仲間もいれば、師と呼べるひともいたに違いない。……そして、長い長い時の果てに、誰もいなくなった。真っ暗な谷底を覗き込むような深い孤独が、クレフの触れているところから流れ込んでくる。
「あなたの『心』は、私が守るわ」
クレフのことが、好きだった。でも、自分の思いが伝わろうが伝わるまいが、気持ちが成就しようがしまいが、そんなことはもう、どうだってよかった。ただ、この人には誰よりも「幸せ」でいてほしい。幸せになってくれるならどんなことでもできると思った。
「お前には、驚かされてばかりだ」
長い、長い沈黙の後、クレフはひっそりと微笑んだ。
「育てがいのある、教え子だと思っていたが。子供の成長は早い」
「守られてばかりじゃ、あなたの力になれないわ」
ありがとう。心をこめて伝えられた言葉は、海の全身に染みわたった。この夜のことを、一生忘れることはないだろう。
* last update:2013/7/15