ランティスは、チゼータの飛行艇内の通路を歩いていた。分厚い窓の外には、闇が広がっている。闇の向こうに小さく、青く光る星―― セフィーロの姿が見えた。母国を発ってから、早くも丸二日が過ぎていた。後もう少しでチゼータに到着する、とタータからは説明を受けていた。光は嬉しそうに頷いていたが、その後にランティスが部屋を訪ねた時には、どこへ行ったのか姿が見えなかった。

―― イーグルの拉致未遂を、話すべきではなかったか。
 彼女らしくもなく、物思いにふけっていた横顔を思い出した。あの事件の後すぐに、クレフからは「問題ない」とテレパシーで伝えてきたし、光にもランティスの口から言ってある。しかし、平和そのものだったセフィーロで身近な人間を襲った事件は、少なからず光の心にショックを与えていたらしい。
 それに、クレフはその一件の後、イーグルの周囲にランティスが張っていたバリアを強化した。それだけなら当然の処置だが、さらにセフィーロ全体の警戒レベルを上げたらしい。クレフは多くを語っていないが、彼が単純に個人を狙った単発的な事件だとみなしていないことを示していた。クレフが自ら動かざるを得ない状況は、セフィーロ崩壊危機以来のことだった。

 ランティスはその場で足を止め、外を見ながら息をついた。何となく、部屋に閉じこもりたくはない気分だった。
―― 俺は、こんなところにいていいのか?
 どうしても、焦燥が胸を突き上げてくる。これほどに感情が乱れるのは、珍しいことだった。ザガートの反乱時にセフィーロにいなかったことが、思いがけないほどにトラウマになっていたらしい。あれほど修行をして力を高めてきたのに、本当に大切な時にその場に居合わせることすらできなかった。あんな無力感、喪失感を二度と味わいたくはなかった。できることならセフィーロに戻り今度こそ、この手でセフィーロを守りたい。それが、兄ザガートやエメロード姫にできる唯一の餞(はなむけ)になる気がした。それなのにクレフは、セフィーロに戻ろうとしたランティスを遮り、チゼータへ行くようにと命じた。

――チゼータにも、何か起こるとでもいうのか?
 わからない。おそらくクレフも、そこまで明確に凶兆を掴んではいないのだろうと思う。しかしランティスは経験から知っていた。こういう時のクレフの勘は、外れない。
「……忘れるな」
 ランティスは、声に出して呟いた。「あの時」自分が耐えがたいほどの無力を感じたのは、セフィーロが崩壊の危機を迎えていたからではない。自分が『柱』になる『道』を見つけ出せなかったからでもない。かつてはいつでも手の届くところにいた大切な人を、守れなかったからだ。
―― 今俺がすべきことは、後悔ではない。ヒカルを守ることだ。
 だから、そう言い聞かせた。


***


 今から、二日前。ヒカルがランティスの自室をノックしたのは、セフィーロを発ったその日の、深夜のことだった。
「……ランティス? 入ってもいい?」
 少女にしては少しハスキーな声がドアの向こうから聞こえ、ランティスは驚いて身を起こした。ちょうど、大事はなかったとクレフから連絡を受けた直後だったからだ。
「どうした? ヒカル」
 内側からドアを開けると、廊下にはパジャマ姿にカーディガンを羽織った光の姿があった。遠慮がちに見上げてくる表情はあどけなく、赤く長い髪は波打ち背中に流れていた。
「ごめん、こんな遅くに」
「それはかまわないが、何かあったのか」
「ううん。なんか、眠れなくて。そしたら、ランティスの部屋の灯りがまだついてたから、起きてるのかなって」
「……ああ」
 部屋の中の時計を振り返れば、もう12時はとうに過ぎている。いつもなら眠気が差してもおかしくない時間帯だったが、今夜は眠れそうにない。万一のためにとイーグルの周囲に張ったバリアが破られた瞬間に感じた、ぞっと背筋が寒くなるような思い。そのあと、クレフから無事だと連絡が来るまでの間、高まる動悸をやり過ごすのが精いっぱいだった。

 無意識のうちに背中が強張った時、光の視線を感じた。
「どうしたんだ?」
 普段は子供のようにあどけない大きな眼が、きらきらとした強い輝きを放っていた。光は続けざまに尋ねた。
「ランティス、何かあった顔をしてる。イーグルに、何かあったのか」
「なぜ、そう思う」
 何かあったことに気づいただけならとにかく、イーグルの名前を言い当てられたことに驚いた。
「ランティス、イーグルのことを考えてる時、『心』が表情に出るから。今は、辛そうな顔をしてる。何があったんだ?」
 その声は、確信に満ちている。普段は、守りたいという思いが先に立つほど小さく子供のような姿なのに、時折垣間見える力強さには圧せられるほどだ。それも当然か、と思い出す。光は最後のセフィーロの『柱』に選ばれた人物なのだから。何も隠せないな、と思った。そもそも、光に対して隠しごとは無用だ。


 光は、身を固くしてランティスの話を聞いていた。そして、ランティスが話し終わった途端、ふー、と息をつく。二人は、窓からの夜景を隣に、一人掛けのソファーに向き合って座っていた。話の前にランティスが淹れた紅茶は、互いに手をつけないまま冷たくなっていた。
「じゃ、みんな無事だったんだね。よかった」
「ああ」
「浚われそうになっても、周りを見れないし動けないんじゃ、イーグルだって怖いよね」
 光は両手を固く握って膝の上に置いていたが、すっくと立ち上がった。
「ランティス、セフィーロへ帰ろう。みんなが心配だ」
 予想された言葉ではあったが、ランティスは無言で首を横に振った。
「どうして?」
「導師クレフが、チゼータへ行けと言ったからだ。あの人が言うことには、必ず理由がある。だから、戻ってはならない」

 立ち上がったまま、光が考え込む。二人の視線が合うと、光はいつもの彼女にしては淡い笑みを浮かべた。
「似てるな、あの時と」
「あの時?」
「初めてセフィーロに来た時、アルシオーネが襲ってきて……クレフが私たちを守って逃がしてくれたんだ。クレフが心配だからって私が元いた場所に戻ろうとしたら、風ちゃんに止められたんだ。私たちには別にやることがあるから、クレフは私たちを前に進ませてくれた、だから、戻ってはいけないって」
「……アルシオーネが、そんなことを」
 敵に回ったのは当然知っていたが、具体的に彼女が光たちにしたことを聞くのは初めてだった。きょうだい弟子だから気を使われたのかもしれないが、それほど接点があったわけではない。その端正な顔立ちと均整のとれた体は美しいのだろうが、どこか本心の見えない笑みを浮かべる女だと思ったのを覚えている。人形のような端正なその顔が、脳裏でにっこりと微笑みを形作った。その途端なぜかぞっとして、ランティスはアルシオーネの面影を頭から振り払った。
「今はチゼータに行くべきだと、俺も思う」
「……うん。わかった」
 光は後ろ髪を引かれるような顔をしながらも頷いた。

 光が自室に戻った後も、ランティスの目は冴えていた。
―― 「導師クレフ。あなたは、何を掴んでいるんだ?」
 そう尋ねた時のクレフの沈黙が、嫌な余韻となって残っていた。
 
 
***


 それが、二日前のことだ。光は表面上は変わりなく元気に見えるし、飛行艇の中にも溢れているチゼータの様々な物に目を輝かせていた。しかし時折、考え込んでいることがある。以前には見せなかった表情が、気がかりだった。気がかりといえば、もうひとつあった。二日前に連絡と取って以降、クレフにテレパシーが通じないのだ。送信者と受信者の身に何かあったか、わざとテレパシーを受信しないよう心を「閉じて」いるか、通じない理由は一般的にはその二つだ。しかしもしクレフに何かあればここにも連絡が来るだろうし、彼はいつも周囲からのテレパシーを拒絶しない。

―― 何か、変だ。
 ランティスは窓の外の漆黒の空を見やった。いつもは青緑の宝石のようにキラキラと輝いているセフィーロの姿が、一瞬ゆらりと揺らいで見えた。大気の中にあるものに目を凝らそうとした時、ランティスは視界の隅で誰かが身じろぎしたのに気づいた。
「……ヒカル」
 いつもの黒の制服姿で、窓から外の景色をじっと見ている。視線の先にセフィーロの小さな青い姿を見つけ、ランティスは心がちりりと痛んだ。改めて見てみれば、その肩は小さく、十代初めの子供のように華奢な体つきだ。
「そんなところに立っていると冷えるぞ」
 隣に立つと、きゅっ、と手を握られた。その目は、まっすぐに前を見たままだ。心細いからではない。ランティスもまた悩んでいるのを知っていて、支えようとしているのか、この小さな手で。ランティスは、その手を握り返した。

 その時不意に、飛行艇の中にアラート音が響き渡った。
「間もなく、船はチゼータに着陸します。皆、着陸準備を開始してください。繰り返します――」
「到着だって!」
光が大きな声を上げる。そして、窓に頬をこすりつけるようにして、飛行艇の行く先を見ようとした。ごおん、ごおん、と飛行艇のエンジンの振動音が伝わってくる。光の後ろから船の進行方向を見やると、きらりと星のようなものが見えた。その飴色の輝きは数を増やし、やがて視界いっぱいに広がった。チゼータの街の灯火の美しさに、光が息を飲むのが聞こえた。


* last update:2013/7/15