炎が切れ切れに、最後の船にまで届きつつあった。光は、熱が伝わってくる地面に立ち、炎に沈むチゼータを見つめていた。
「ヒカル。まだ残っていたのですか」
 優雅な声に呼びかけられ、振り返る。すると、背後には王妃が佇んでいた。さすがにその表情には疲れが見えたが、落ちついた物腰はそのままだった。
「あなたとランティスは、大切なお客人。一番に乗船いただくよう手配したつもりでしたのに」
「私が悪いんだ、後でいいって言ったから」
 光は首を横に大きく振った。それは事実だった。先に乗れと王族から警官、一般の人々まで背中を押してくれたのだが、どうしても立ち去る気になれず、最後の船となってしまった。ランティスに至っては、逃げ遅れた者がいないか探してくると行って立ち去っている。光がついていくと言っても、さっき瓦礫の下敷きになりかけたのを目の当たりにしたせいか、絶対に駄目だと頷いてくれなかった。船に乗るようにと何度も言い置いて行ったから、まだ光が発っていないと聞けばまた怒られるかもしれない。

 そ、と背中に手が置かれた感触があり、顔を上げると、王妃の優しい顔があった。
「あなたはいい子ですね、ヒカル。セフィーロで一番心が『強い』のは、確かにあなたのような子かもしれません」
「そんな、私は」
 思わず、赤面した。その時には、王妃は警官に目で合図していた。
「この子を船まで、送り届けてください」
「は、はい!」
 王妃を何度も振り返りながら、光はその場を後にした。船に乗り込むと、外に面した柵を掴み、タータがチゼータを食い入るように見つめていた。その隣に、タトラもいる。その目の必死さを見て、光は心を打たれた。もう二度と見ることがかなわないかもしれない祖国を、目に焼き付けようとしているのに違いなかった。

―― 私は……どうしたいんだ?
 光は、自分に問うた。このチゼータのことは、ほとんど知らない。でも、いくつもの場面に出会った。国が滅びようとしている今、涙をこらえ国を捨てることを選んだ王の厳しい横顔を見た。王妃は、こんな時なのに光に優しく微笑んでくれた。そして、この3年間で友情を育ててきたタータとタトラが苦しんでいるのを目の当たりにして、私は――

「ヒ……ヒカル!?」
 タータが慌てて光に駆け寄ろうとしたが、一瞬早く光は柵から地上に飛び降りていた。船まで迫っていた炎が、あっという間に光を呑み込んだ。
「ヒカル!」
 タトラが悲鳴のような声を上げた。しかし光は、炎の風圧を利用するように、ふわりと地上に降りた。炎の中から、光はふたりを見上げた。
「大丈夫、炎は私を傷つけないから。私、ここに残るよ」
 そして、にっこりと微笑んだ。何人かの警官が光に気づき近寄ろうとしたが、炎に阻まれて動けない。

「馬鹿な……何のために!」
 タータの声に、光ははるか遠くの上空を指差した。
「あっちに、黒い『扉』のようなものがあるんだ。そこから、全てを溶かす、あの黒い液体が吹きだしてきてた。あれを止めることができたら、国の崩壊を止められるかもしれない」
「たった一人で何ができる!」
「タータ、タトラ。チゼータはまだ『終わってない』」
 少なくとも今、立っているこの地面がある。空もある。家は焼き払われたかもしれないが、まだ、再生できるはずだ。信じる力が現実を変える――それはセフィーロだけではないと光は知っていた。

 こらえていた涙が、タータとタトラの頬から流れ落ちた。
「私も行く!」
 タータは身をひるがえしたが、その彼女を側近たちが必死に止めた。
「離せ! 異世界の者がチゼータのために残ってくれるというのに、立ち去れるか!」
「駄目です、もう持ちこたえられません! 炎が船に燃え移ります!」
 タータの声に、パニック寸前の誰かの声が重なる。一刻の猶予もない。
「船を出して! 早くっ!」
 光は大声で叫んだ。残された警官たちが、慌てて船に乗り込んでいく。船が、少しずつチゼータから離れ始めた。
「ヒカル!!」
 タータの声が、悲鳴のように空気を引き裂いた。


***


 最後の飛行艇の姿が見えなくなり、熱風が吹きすさぶチゼータに、光は一人、立ちつくした。本当に一人なのだと言う感情が、光の心を一瞬強く貫いた。勇気を、孤独や恐怖といった負の感情が追い越しそうになる。
――「光って本当に無鉄砲なんだから。しょうがないわね、最後まで付き合うわよ」
 海の声が、閃光のように頭の中に浮かんで、消えていった。光は我知らず、微笑んでいた。海ならきっとそう言って、ため息をつきながらも優しく光の肩を抱いて、励ましてくれるはずだ。
――「あの『扉』は何なのか、消し去ることはできるのか。まず、原因を確かめるのが先決ですわ」
 風の声が次いで聞こえた気がした。冷静な判断を下せる彼女ならこんな時、きっとそういうだろうと思った。

「海ちゃん、風ちゃん」
 ふたりはきっと、このチゼータを見上げて、私のことを心配してくれているだろう。
 だから一人じゃないんだ、と光は自分に言い聞かせる。そして、「扉」があった方に向き直った。
「どうするつもりだ?」
「まず、あの『扉』に向かって……」
 なにげなく返事をして、ぴたりと止まった。慌てて振り返る。そして、見慣れた巨躯の男が背後に、壁のように立っているのを見た。
「えええ!? ランティス? なんで……」
「おまえなら、そうするだろうと思っていた。だから初めから残るつもりだった」
 炎の広がる城下に長い間いたはずだが、その体は全く傷ついていなかった。ランティスは手にした手甲の宝玉を、軽く上空にかざす。すると光が放たれ、黒い鎧が全身を覆った。光たちのものと同じ、導師クレフの特製らしい。
「俺は剣師だ。炎は防げる」
 光も、手甲を上空にかざした。魔法騎士の鎧をまとうのは久しぶりだった。あの二度の戦いのことを思い出し、気持ちが引き締まる。

「ランティス」
 本当は、自分につき合わせて危険な目に会わせたくはなかった。逃げてくれ、と言いたかった。でもその目を見れば、彼が全く退くつもりがないことは明らかだった。それに、自分の心が、ランティスが隣にいてくれてうれしいと言っている。
「……ありがとう」
 口から洩れたのは、拒絶ではなく感謝の言葉だった。そっと、ランティスの大きな手を取る。何度も何度も、光が危機にぶつかる度に、助けてくれた手だ。その手がつと動き、光の肩を抱き寄せた。この国に、たった二人残された。でも、恐怖は頭から飛び去っていた。逆に、力が体の奥から湧きあがって来るのを感じた。

 光はランティスを見上げた。
「行こう、ランティス。チゼータは滅びさせない。絶対に、滅びさせない」


***


 その頃、チゼータの最後の飛行艇では、王の声が響き渡っていた。
「ランティス殿も乗船していないのか?」
「ええ。チゼータの民は全て乗船済です。多数の怪我人はいますが、出来る限りの治療に当たっています。乗船リストにないのは、シドウ・ヒカル殿とランティス殿のお二人です」
「なんということだ。この船だけでも引き返せぬのか」
「それは……。この船の燃料は、セフィーロに着くまでの最低限しか積んでいません。他の船に分け与えていますから。引き返せば、セフィーロまで到着するのは難しいでしょう。それに、もはやチゼータは火の塊。近寄ることすらできません」

「……そうか」
 側近の報告に、王は天を仰いだ。王妃が、その背後から歩み寄った。腕にはあの、古文書の写本を抱えていた。
「ランティスから、この本を託された時に、そのつもりではないかと思っていました」
「では、なぜ止めなかったのだ」
 王は、王妃を振り返る。王妃は首を横に振った。
「何を言っても絶対に考えを変えない、そんな強い目をしていましたから」
「……セフィーロの二人が乗船していないとは。あちらに着いた時、導師クレフにどうお伝えすればよいのか」
「大丈夫ですわ」
 それに返したのは、コックピットで進路を見つめているタトラだった。少し振り返って、頬にわずかな笑みを浮かべた。
「導師クレフなら、分かってくださいます。『あの二人ならしかたない』とおっしゃるでしょう。私たちに今できるのは、ただ一人の死者も出さずに、セフィーロへ全ての国民を送り届けること」
 そう言うと、真っ暗な宇宙に視線を戻した。光の航跡のような『道』が船の前に見えている。その『道』は、遠くに見える、先行する船の間を通り、まっすぐにセフィーロに向かっているはずだった。

 その時、『道』が、ふっと揺らいだ。一瞬だが、消えそうになる。
「! 大丈夫か」
 王がコックピットに座る、二人の娘に歩み寄る。タトラが、そっとタータの肩を抱いた。タータは、『道』を睨むように見据えながらも、その目から大粒の涙をこぼしていた。
「タータ。お前が心を乱しては、『道』が途絶えてしまう。『道』が消えてしまえば、我々は全員宇宙の藻屑じゃ。しっかりするのじゃ」
「……心を乱すなと言うのですか!」
 タータはきっと振り返って、父王を見た。
「私には、置いてきた国の悲鳴が聞こえています! とても耐えられません」
「……悲しいのが、お前だけだと思うか」
 叱責するような口調ではなかった。王妃が二人の肩に手をやる。四人の家族は、身を寄せ合って『道』を見つめた。

 その時突然、船中に、警告を示すアラートが響き渡った。王は立ち上がり、足早に入って来た側近を迎える。
「何事じゃ?」
「見知らぬ船が接近してきています!」
「敵か、味方か?」
 王妃も立ちあがった。チゼータの船の中には、戦闘機能を持たないものも多い。そんな船が敵国に射撃されれば、一環の終わりである。母国を失い彷徨う心細さを、口にはしないが全員が感じていた。
「わかりません。ただ……あの船に刻まれた紋章は、」
 コックピットに座っていた操縦者の一人が、モニターを切り替える。するとそこには、巨大な戦艦が大きく映し出された。チゼータが擁するどの船よりも巨大なもので、全員が息を飲んだ。その船首には、見覚えのある龍の紋章が刻まれていた。
「ファーレン!」
 タトラが声を上げた。


 ジジッ……と音がコックピットに響き、先方の船が通信を試みているのが分かった。
「つなぎなさい」
 タトラが冷静な声で、操縦者に命じる。マイクを口元に引き寄せ、ファーレンの船を見ながら語りかけた。
「こちらは、チゼータの第一王女、タトラ。ファーレンの船とお見受けしますが、何用ですか」
『タトラ! 無事だったのじゃな』
 はっ、とタータとタトラが同時に顔を上げた。
『アスカ様。そういう時には、まず名乗られるのが先ですじゃ』
『名乗らなくとも相手が分かっていればいいではないか……わらわはファーレンの第一皇女、アスカ。チゼータの危機を知り、力になるために馳せ参じたのじゃ』
 ぱっ、ともう一つのモニターがコックピットに映し出される。そこにはアスカ、チャンユン、サンユン、さらに後ろには風とフェリオの姿も映っていた。

 王が立ち上がり、モニターのアスカに向き合った。
「アスカ殿とおっしゃいましたな、初めてお目にかかる。私はチゼータの王、ジン。ご協力痛みいる」
『チゼータは……どうなったのじゃ』
 アスカのためらいがちな言葉に、王は黙って首を横に振った。アスカは唇を噛みしめる。
「ファーレンの被害も決して小さくはないはず」
 王は逆に、気遣うようにアスカに尋ねた。
『ファーレンの王と王妃が対処にあたっておる。チゼータの危機を黙って見ているわけにはいかぬと直接話したところ、わらわが戦艦を率いることとなったのじゃ……この風とフェリオも、王の説得に力を貸してくれた』
 そう言うと、背後の風とフェリオを見やった。

 フェリオが一歩進み出る。
『俺はセフィーロの王子、フェリオと言います。こちらは異世界から来た魔法騎士の一人、風。皆、ご無事ですか』
セフィーロと聞いて、王の表情が曇った。敏感にそれを察した風が、前に出る。
『……ランティスさんとヒカルさんがそちらに行っているはずです。お二人はご無事ですか?』
「……二人とも、チゼータに残られました」
 タトラが沈痛な声でそう返した。風はショックを受けた表情で立ちすくみ、フェリオと顔を見合わせた。チゼータがどういう状況か、風たちが見ていないはずはなかった。風は掌で口元を覆い、考え込むように俯いている。

『……この船をチゼータに向けるか』
 アスカは風を気遣わしげに見つめながら、チャンアンに問うた。
『恐れながらアスカ様。チゼータはもはや、近寄れる状況にありませぬ』
『そんな場所に取り残されたヒカルとランティスはどうなるのじゃ! わらわは……』
『いいえ、アスカさん』
「それでも行く」と言いかけただろうアスカを、遮ったのは風だった。

『戻ってはいけませんわ。ヒカルさんとランティスさんは、自分たちにできることがあると思ったから、自らの意志で残ったはず。私たちには私たちにしかできないことがありますわ。だから、戻ってはなりません。……怪我人も多く出ているでしょう。私はこれからチゼータの船に参り、皆さまの傷を癒したいと思います』
「治癒能力があるのですか?」
 王妃の言葉に、風はにっこりと微笑んだ。

 アスカは、無言のまま、涙の跡が残るタータとタトラを見つめた。そして、いつもより光を薄めている『道』に視線をちらりとやった。そして、凛とした声で告げる。
『……セフィーロへの「道」はわらわが創る。船に乗りきれない者は、この船に移るのじゃ。ともにセフィーロに参ろうぞ』


* last update:2013/7/17