ザズがセフィーロ城内に運び込まれて、早くも二日が経過していた。
 怪我は現れた「風」の魔法によって完全に治っていたものの、多量の血を失っているせいか目を覚まさない状態が続いていた。海は、ザズが眠るベッドの隣の椅子に腰かけ、物思いにふけりながら寝顔を見守っていた。赤みを取り戻したものの、まだ青白さが残るザズの頬は痛々しかった。なんだか寒そうに見えて、その体の上にそっと毛布をかぶせた。
「―― そんなに見つめていなくても、僕もザズも逃げ出したりしませんよ」
 笑いを含んだ声が、海の心に直接届いた。はっと顔を上げると、隣のベッドで眠ったままのイーグルの口元が、からかうように上がっている。
「もう。心配してるのに」
「分かっていますよ。ありがとうございます、ウミ。ザズを心配してくれて」
 海が頬を膨らませると、イーグルはまるで海の表情が見えているかのように笑みを深くした。

「チゼータとファーレンの船団がセフィーロに到着するのは、今夕でしたね」
 イーグルがそう続け、海は部屋に掛けられていた時計を見上げた。針は午後2時を差している。
「ええ。あと3時間後よ」
「セフィーロの上層部の方々は、導師クレフが不在がちなので途方に暮れていたようですよ。受け入れ体制は彼ら彼女らで話し合って整えたものの、肝心の居住区域が確保できていないのだから当然ですね。今日の午後2時に戻ると導師クレフからようやく連絡が入ったため、2時には玉座の間で彼に報告を行うそうです」
 海は呆れてイーグルを見下ろした。
「寝たきりなのに、一体どうやったらそんなに情報が入るの?」
「この部屋の隣にある廊下は、玉座の間に通じていますからね、大勢通るんですよ。暇ですし、いろんな話し声が耳に入ってしまうんです」
 イーグルの目覚めは近いのかもしれない、と海は聞いていて予感した。セフィーロが再生してから初めの一年間は、イーグルの意識は完全に眠っていた。二年目も、時々起きることはあったものの、日の大部分は話しかけても無反応だったのだ。それに比べれば、明朗に話ができる今の状態は飛躍的によくなっていると言えた。

 そこまで考えて、海ははっとしてもう一度時計を見た。
「っていうか、もう2時じゃない! 私、玉座の間に行ってくるわ! すぐ戻るわ」
「いいえ。僕たちのことは気にせず、導師クレフとゆっくりしてきてください」
「ええ、ありがとう」
 なにげなく返して部屋を出て行こうとして、海はぴたりと足を止めた。「導師クレフと」と付け加えたイーグルの言い方が、妙にひっかかったのだ。イーグルは、まるで海の視線に気づいたかのように、にこりと笑った。
「図星でした?」
「……顔に落書きするわよ!」
「それは勘弁してください」
 しても構いませんと言われたところで、落書きできるわけもなかった。そんなことをしたらまたクレフに呆れられてしまう。海は扉に蹴つまづきながらも部屋を後にした。

 廊下を足早に歩きながら、海は自分が動揺しているのを感じていた。誰にも言っていないし、伝える気もない海の気持ちを、どうしてイーグルが知っているのだろう? 魔法のような特別な力はないはずだ。目も見えないし動けないのに、声の調子や物音から洞察しているのか。とすれば、ものすごいことだと思う。

 赤くなった頬を軽く叩きながら、イーグルのことを考え続けていた。自分は一人っ子だからよく分からないが、兄がいたらこういう感じだろうか、と想像してみる。妹を兄がからかったり、それに対して妹が怒ったり。たわいもないイーグルとのやり取りが、けっこう好きかもしれないと今さらのように気づいた。

「そんなことより! 『風』のこと、聞かなくちゃ」
 海はそう独り言を言って、とりとめもない考えを打ち切った。あれから、クレフとは碌に話せていない。その時のことを思い浮かべると、胸に重苦しいものが広がるのを感じた。
 クレフ一人の行動に、人々の心のあり方が影響され、引いてはセフィーロの行く末に関わる。それを『柱』制度の時と変わらないと思っていながら、瀕死のザズを前にクレフに頼ってしまったことが、罪悪感として残っていた。


***


 玉座の間に続く扉は開かれていた。海はそっと覗きこんだ途端、うわ、と思わず声を上げた。決して狭くはない部屋が、人で埋まっていた。どこを見ても跪いた人の頭が見える。法衣を着た魔導師らしい一団が一番前に陣取り、アスコットに似た服装の召喚師らしい人々、医者や学者のような人々の中に、ラファーガを先頭に武装した戦士の姿もある。さまざまな職業の、立場が上の者が集まっているようだった。そして玉座に、導師クレフが座っていた。その後ろにプレセアが立っている。クレフの正面にいる年老いた魔導師が、ちょうど言葉を切ったところだった。

 この人は国の最高責任者なのだ、と改めて思い知らされる光景だった。数百人はいる人々は、クレフを敬い奉っていると同時に、やっと戻って来た導師を逃がすまいと取り囲んでいるようにも見えた。クレフに会いたかったのは海も同じだ。というよりも、聞きたいことがたくさんあった。二日前、ザズを助けた「風」は一体なにものかということも、まだ聞けていない。チゼータとファーレンの船が到着してから話すと言ったきり、ザズが安定したのを確かめると城から姿を消してしまったのだ。みなが戻ってくれば、ちゃんと話してくれるつもりなのだろうか? そう思ってクレフを見た時、視線を感じたクレフも海を見返した。自然と、クレフの視線の行き先を追った皆の視線も海に向いた。

 クレフとプレセア以外全員片膝を地につけているこの状態で、一人だけ突っ立っていると居心地が悪かった。だからと言って、今さらクレフの前に跪くのも妙な具合だ。どうしよう、と思っていると、クレフが口を開いた。
「話を続けてかまわん。その者は、セフィーロの大事な客人だ」
 「魔法騎士」とは紹介しないところに、クレフの気づかいを感じた。魔法騎士がエメロード姫を殺したことを知っている人々の中には、魔法騎士を恨んでいる者もいるだろう。みな、薄々海たちが魔法騎士だということに気づいているだろうが、公にはされていなかった。

 ごほん、と先頭にいた魔導師が咳ばらいをした。
「では、話を続けさせていただきます。以上のように、チゼータからの避難民を受け入れる準備は整ってございます。しかし居住区については、如何せん我々だけでは力が足りず……導師のお力をお借りしたいと考えております」
「なるほど」
 それきり黙ったクレフに、気遣わしげな視線が集中する。しかし海は、クレフを見て、あれ、と思った。ここしばらくずっと、彼が背負っていた影が消えている。まるで吹っきれたような表情だった。一体この2日の間になにがあったのか海には分からなかった。不在がちだったその数日の間に、何かを掴んだのだろうか? しかし、事態は悪化こそすれ、よくなってはいない。まだ原因すら分かっていないと言うのに。

「導師クレフ……」
「わずか2日間でここまで、チゼータの受け入れ体制を整えたのだから大したものだ。自国を失い、他国に避難する者たちへの配慮も十分されている。成長したな、おまえたち」
 子供の姿のクレフに、いい大人や年寄りが「成長した」と言われるのは一見不思議な光景だった。しかし、本当にクレフにとっては子供のようなものなのだろう。
「あ、ありがとうございます」
 褒められた全員の目が輝くのを見て、海はそう思った。
「居住空間だな、確かにお前たちだけでは荷が重かろう。分かった」
 クレフは気軽に言うと、玉座から立ちあがった。そして玉座から降りると、進路に当たる人々が慌てて左右に避け、道をつくった。
「導師クレフ!」
 すたすたと部屋を出て行ってしまったクレフを、慌ててプレセアが追いかける。そのあとを海が追い、その更に後をぞろぞろと集まっていた者達が追った。


 海が追いついた時、クレフはセフィーロ城の前に立っていた。巨大な三つ叉の形になっている城の高さは100メートルとも言われ、これが精神エネルギーで出来ているのがつくづく信じられなくなる。クレフは水晶のような城壁に、体温を測るように手をおいていた。
「クレフ……?」
「退がっていろ、ウミ」
 右手を城壁に置き、左手で杖を握っている。杖の先の宝玉は、透き通った青色に戻っていた。その体勢のまま、クレフは白い喉を反らして、まっすぐ上に続く壁をキッと見上げた。

 次の瞬間、杖の先の宝玉が暴力的なまでの輝きを放った。クレフの足元から巻き起こった風が、彼の銀髪を逆立たせている。何を言っているのか聞こえなかったが、クレフが口元で何かを呟くのが聞こえた。彼の全身が輝き、輝きはその右掌から城壁へと移った。城全体が発光するのを、集まって来た全員がぽかんと口を開けて見守った。

「なにが……きゃっ!」
 足元が突然揺れ、よろめいたプレセアを海が支えた。支え合って見上げる二人の目の前で、三つ又の城の両側に、更に二本の支柱が立ち上がった。支柱は数秒の間にぐんぐん伸び、元々あった三つ又よりは低い二本の柱が新たに生まれた。もうもうと上がった土煙が晴れて全容が見渡せた時、西洋のアンティークな蝋燭の燭台に似ている、と海は思った。三つ又が五つ又になったわけだが、元々そうだったかのようにしっくり周囲に溶け込んでいる。

「ク、クレフ……」
 海は、唖然としながらクレフの小さな背中に声をかけた。一本の柱の直径が50メートルはあるのだ、チゼータの人々の居住空間には十分だろうが、たった数十秒でそれを形にした「魔法」の力の凄まじさに言葉を失っていた。
「クレフって、こんな凄いの?」
 つい、素朴な感想が口をついて出た。プレセアもあっけにとられていたが、やがて首を横に振った。
「前にこの城を創った時は、何十人でとりかかって完成まで何日もかかったのよ。その中に導師クレフもいたのに……。あの時、手を抜いていたなんてありえないわ」
「じゃあ……」
「あの時は、導師クレフの心には、『柱』制度に対する『迷い』があったわ。今のあの方には、『迷い』がない……今の力が本当なのかもしれないわね。本当に、底が見えない方だわ」
 チゼータが滅亡の危機に直面している中で、迷わずにいられる心理状態が海にはわからなかった。やはりクレフは、何か他の者では掴んでいないことが分かっているのかもしれない。

 クレフはそのまま上を見上げ、自分が創り上げた城の出来栄えを確かめていたようだったが、ほどなく、くるりと振り返った。同時に、ふう、と息をつく。
「『ふう』って、それだけ? それだけでこんな建物ができるの?」
 その気軽さに、海は思わず突っ込んだ。クレフはそんな海を見上げて微笑んだ。考えてみれば、クレフが微笑むのを見るのは随分久しぶりに思えた。
「自分たちの力で城を治めようとしている者たちに、餞別をやらねばな」
「え?」
「ウミ、夕方、チゼータとファーレンが到着したら、全員をイーグルの居室に集めてくれ。先日のことを説明しよう」
 クレフは、今しがた自分が行った魔法を忘れたかのように、話を切り替えた。
「……分かったわ」
「先日のこと」が、突然現れた「風」を差すのだとすぐに分かった。ついに、謎が明かされるのか。海はこくりと頷いた。


* last update:2013/7/28