どくん、どくん、と脈が高く鳴り続けている。
 目を覚ましてもしばらく、クレフは動けなかった。夢の中で握られていた柔らかな手のぬくもりが、まだ残っているようだった。

 壁がない、屋根で床を覆っただけの簡易な東屋に腰を下ろしたまま、いつの間にか眠っていたらしい。疲れていないつもりでいたが、大きな魔法を立て続けに使った影響は出てきているのだろう。空を覆う雲のせいで時間は正確に分からなかったが、あまり長時間寝入っていたわけではなさそうでほっとした。

 屋根の向こうでは、しとしとと雨が降り続いていた。吹きこんできた風は涼しいと言うより肌寒く、クレフは立ちあがって腕を組んだ。ぐるる、と獣が喉を鳴らす音に振り返ると、グリフォンがその大きな翼を広げて東屋の外に立ち、雨風がクレフに当たらないよう、凌いでくれていた。
「すまないな」
 精獣には、雨風くらいは何でもないと知ってはいたが、ずっと立っていたのかと思うと申し訳なくなる。慌てて手を差し伸ばすと、グリフォンは嘴を掌に磨りつけて甘えた。

 ふわ、とその姿が消え、柱に立てかけていた杖にその姿が吸い込まれた。クレフの精獣だけに、主人が疲れていれば手に取るように分かるのだろう。消えたのも、主人の負担を少しでも減らそうとしてのことに違いない。
―― 精獣に気を使わせるようではいけないな。
 クレフは一人、苦笑した。その場に誰もいなくなると、さぁぁ、と雨の音が大きく聞こえだした。景色に見入っていると、今しがた見ていた夢の続きを見ているような気分になる。それほど、さっきの夢はクレフにとって鮮烈だった。
 

 厳密には、夢では――なかった。クレフが遥か昔に経験した、「現実」そのものだった。クレフにとって過去を夢として見るのは初めてではないが、滅多にないことではあった。それも、百年や二百年の昔ではない。クレフが初めて当時の『柱』に引き合わされたのは、4歳のころだったはずだから、実に744年前の出来事だ。それなのに今の映像は、昨日起きたように鮮明だった。
 あの時ロザリオは言っていた。『柱』と約束を交わしたと。そして、約束などするものではないとも言っていた。あの時は、ロザリオに自分が捨てられるのではないかというショックしかなかったが、今にして考えると、そう口にした時の彼女は、どんな顔をしていたのかと思う。二人がどんな『約束』を交わしたのかは、二度と分かりようがない。だたし、その後のロザリオの生き方を見れば、その『約束』は自ずから見えてくるようにも思う。それからずっと後の世になって、クレフ自身が幼かった『柱』と交わした約束―― その内容と、似通ったものだったのではないか。
「『約束は、するものではない』か」
 その通りだ、と思う。破るよりも守りきるほうが辛い約束もあると、幼い日のクレフは気づかなかった。

 そして、クレフには分かっていた。「導師」の見る夢に、偶発的なものはない。必ず、理由がある。クレフは、違和感を覚えるまでに久し振りに、その名前を唇に乗せた。
「『……巫女』」
 かつては、毎日のように口にした呼び名だった。幸せな時間は長くは続かず、過酷な思い出ばかりが記憶に残っているというのに、時折脳裏にふらりと現れる彼女の幻はいつも明るい笑顔で、クレフの心を戸惑わせる。もう、彼女がこの世を去ってから、738年の時が流れている。史上最高の『柱』と目されながら、彼女の治世はわずか10年で終わった。終わらせたのは――
「あと、一日だ」
 クレフは、思いを振り切るように声に出して呟いた。


***


 雨はすぐに小降りになり、雲の隙間から陽光がきらきらと輝きながら落ちてきた。城の向こうには山々が連なり、水蒸気が白く立ち上っている。しっとりと潤った緑の上に光が差し込む景色は、まるで天使が下りてきたように幻想的だった。鳥のさえずりが周囲にこだまし、どこからか波の音が聞こえてくる。この世界は美しい――祈りに似た思いが、全身を貫いた。どうかいつまでもこのまま、美しい姿でここに住む者たちを包み込んでいてほしい。永久の平和が不可能なことだとクレフほど分かっている者はいないが、そう思わずにはいられない。感傷的になっている自分を自覚した。自分らしくもない、と苦笑する。はやく城に戻らなければ、と杖を手にした時だった。

「―― 導師。導師クレフ」
 待ち望んでいた声が頭の中に響いた。クレフはハッと顔を上げたが、その声の主が目の前にいないことは分かっていた。
「ランティス。ヒカルも無事か」
「ああ。セフィーロは? チゼータの人々は着いたか」
「セフィーロは無事だ。チゼータの人々も、ここの生活に慣れつつある。怪我人は出ているが死者はいない」
 互いに感傷にふけることもなく、無事を確認しあう。いつも通り抑揚のない声だが、ランティスがほっとしていることは分かった。そして同時に、かなり疲弊しているだろうことも容易に想像がついた。

「この大気は異常だ。そのせいで、通信が途切れがちなのだろう」
「ああ。通信できるのは今だけだろう。いずれまた、途切れる」
 クレフの確信を持った言葉に、ランティスはしばらく黙りこんだ。
「あなたは、何かが起こると言っていたな。今起こっていることの予兆を掴んでいたのか?」
「……否定はしない」
「この災厄の原因は、分かっているのか」
「ああ」
 ランティスは黙った。あまりにはっきりとクレフが肯定したことに、驚いているのは間違いなかった。

「導師――」
「ランティス。『扉』を見たか?」
 ランティスの言葉を待たず、クレフは鋭く尋ねた。彼が息を飲む気配があった。その時、ランティスの隣で誰かが話しかける声が聞こえた。声は途切れ途切れで何を言っているのか分からないが、光の声だということは分かった。ランティスが光に話しかけた。
「俺の肩を掴め。そうすれば導師クレフと話せる」
「……こう? クレフ! クレフ、聞こえる!?」
「ヒカルか」
 疲弊していて当然の状況なのに、光の声には張りがあった。
「みんな無事か? 海ちゃんと風ちゃんは……」
「皆元気にしている。大丈夫だ」
 クレフがそう返すと、ほっと息をつくのが聞こえてきた。
「……イーグルが、目を覚ましたぞ」
 そう付け加えると、二人が同時に息を飲む気配がした。
「……良かった」
 同時に呟かれた言葉は、全く声音は違うが心底からほっとしたものだった。
「動けるようになるには時間がかかるだろうが、イーグルのことだ、回復は早いかもしれん」
「うん! 無理しないでって、イーグルに伝えておいてね」
 光の声は弾んでいる。
 
「それにしても、導師。今、『扉』と言ったか」
 ランティスの声が固い。ああ、とクレフは頷いた。
「『扉』……? クレフ、何か知っているのか? チゼータがこんなことになる直前に、空にまっ黒い扉みたいなものが現れたんだ。そこから、黒い波が吹きだしてきて、雨になって街に降り注いだんだ。そしたら、街が溶けて……一気に炎に包まれたんだ。……どうすることも、できなかった」
 息せききって尋ねてきた光の声が、途中で沈んだ。しかしすぐに顔を上げたのだろう、声に強さが戻った。
「あの『扉』からはまだ、黒い波が生まれ続けている。あれを消すことができたら、波も止まると思うんだ。少しずつ近づいているんだけど――」

「その『扉』の色は、まだ『黒い』か?」

 一瞬、ランティスと光が息を飲む気配があった。直接そちらを見て確認したのだろう、少しの間沈黙になる。
「うん。黒だよ」
 やや置いて、光が答えた。
「そうか」クレフは頷いた。想像していたのと同じ答えだった。「その『扉』が出現していることが分かっただけで、十分だ。すぐにセフィーロに戻ってこい」
「どういうことなんだ?」
「おまえたちが手を下すまでもなく、その『扉』はもうじき消滅するからだ。そうすれば、チゼータは正常に戻る」
「消滅……?」ランティスが不審げに問い返した。「誰が傷つくこともなく、可能なのか?」
「ああ」
「その『誰か』の中には、あなたも含まれているのか?」
「……」
 思いがけなく発せられたその問いには、虚を衝かれた。そういうことを聞かれるとは思っていなかったし、考えてもいなかった。

「セフィーロへ戻れ、ランティス、ヒカル」クレフは静かな声で言った。「状況は急変している。オートザム大統領が、セフィーロ再侵攻を決断したのだ。力ある者達で準備は進めているが、手が足りん」
「え……オートザムが? どうして」
「……到着はいつか分かっているのか」
 唖然とした光とは対照的に、ランティスの声は落ちついていた。おそらく、今オートザムが直面している危機的なエネルギー不足と、彼らが取りうる政策をある程度予想していたのだろう。
「おそらく、あと三日だ。できることはすくない」
「どうするつもりだ?」
「戦艦と戦えるような設備も戦力もない状態で、戦うつもりはない。オートザムとて、戦いを長引かせるわけにはいかないのだ。調停に持ち込んだ上、暫定的にオートザムの避難民を受け入れることになるだろうな」
「……今、イーグルが目覚めたのは天啓だな」
「ああ。それに、セフィーロにはフェリオもいる」
 ランティスは、黙りこんでいる。彼が、いろいろと考えを巡らせているのが分かった。

「光」クレフは光に呼びかけた。「お前の名前は、異世界の言葉で『光』を差すのだな」
「……え?」
 思いがけない言葉に、光はきょとんとしているようだった。
「これからのセフィーロには、お前が必要だ」
 張りつめていた緊張を、意図的にふっと緩めた。すると、通信がぶつりと途切れ、二人の声はそれきり聞こえなくなった。

 セフィーロの周囲にバリアを張り、チゼータと、将来的にはオートザムの避難民のために新たな城を創った。そして気がかりだった、ランティスと光とも会話を交わすことができた。ひとつひとつ、自分が行ってきたことを数えるクレフの横顔には微笑があった。やがて、クレフは杖を手に東屋を後にした。雨は完全に上がっていた。


* last update:2013/8/3