―― 手遅れだったかもしれない。
 クレフを一目見て、イーグルはそう思った。正面から光がぱっと差しているかのように、向き合ったクレフの表情は明るく見えた。その目は青く澄んでいて、セフィーロの人々特有の、透き通った美しい色をしていた。自分の行く道がどこなのか、はっきり見えている人の眼差しだ。迷いのない人は、自分の本心をそうそう明かしはしない。自分の思いを周囲に伝えたり、相談したりする必要がもうないからだ。ただ、決めたことを真っ直ぐにやり抜くまで。そんな覚悟が、静かな表情からうかがえた。しかし、それも当然なのかもしれない。 この人は『導師』クレフ―― この意志が全てを決める国で、皆を導く立場にあるひとなのだから。

「この部屋のドアは、いつも開いているんですか?」
 イーグルが問いかけると、クレフは一瞬言葉を止め、首を横に振った。
「いや。いつもは私の魔法で人間には入れぬよう封じてある」
 やっぱりそうか、と思った。この部屋の前に立った時、ドアが何の抵抗もなく開いたからおかしいと思ったのだ。導師の部屋に簡単に人が出入りできるようでは、いくら平和な国といってもセキュリティが甘すぎる。いつもは封じていた、でももう今は、誰でも入れるように解放してある。その理由は、イーグルの予想が当たっていることを示していた。イーグルが次の言葉を継ぐ前に、クレフはすまなさそうに微笑んだ。
「すまんが、話していられる時間はあまりないのだ」
 そして、壁に立てかけてあった杖を手に取った。杖の先端の宝玉が青く輝き、周囲に風が巻き起こった。腕で目を庇ったイーグルが前を見た時、そこには大きな飛び魚と、鳥の頭と獣の胴体をもった精獣がいた。
「直接目にするのは初めてだな。私の精獣のフューラと、グリフォンだ」
 クレフはぽん、とグリフォンの嘴に手を置いた。

「少し待っていてくれ」
 クレフはイーグルに向かってそう言うと、グリフォンの嘴と、フューラの口元に掌を置いたまま、静かに目を閉じた。その足元から風が巻き起こり、法衣の裾が揺れた。耳飾りの蒼水晶が、きらきらと輝きながら風にあおられている。淡く白い光が、彼の全身を覆うのを、イーグルは言葉を忘れて見守った。それは幻想的に美しい光景だったが、すさまじい力が、彼を中心に発せられているのが分かった。額の宝玉が群青色の輝きを増している。彼の言葉によれば、この宝玉で力を抑えているというのだから、本当の彼の力はどれくらいなのか想像もつかない。自分の父親――大統領が見たら、喉から手が出るほどに欲しいだろう「精神エネルギー」が目の前にあった。

 しかし、衝撃波としてイーグルに届く力の断片は、イーグルの髪を揺らすだけだった。その力に荒々しいところはまるでなく、その代わりに言葉をなくすほど優しく、美しかった。オートザムの危機を救ったのも、ザズの妹に贈られた「セフィーロの空気」だったという。本当に強い力というのは、誰も傷つけないものなかもしれない、とふと思った。その一方で己の要求を押しとおすために力を使うオートザム、その中心にいる大統領に対して、はっきりと嫌悪を感じた。

 光はゆっくりと収縮し、静止したままの二体の精獣の中にゆっくりと吸い込まれてゆく。ほどなく、部屋は再び薄暗くなった。目を開けた二体の精獣は、イーグルの目にも、うなだれて見えた。あれほどの力が分け与えられたのに、力に満ちているようにはとても見えなかった。
 彼らを見上げるクレフの瞳は、まるで親のように優しかった。
「―― どこへなりと行け、グリフォン、フューラ。これだけ力を分け与えておけば十分、お前たちだけで暮らしていけるだろう」
 精獣たちはそれぞれに、首を大きく横に振った。全身で、彼から離れることを拒んでいるのが分かった。精獣の目に涙が浮かんでいるのを見て、イーグルは視線を伏せた。クレフのため息が聞こえてきた。
「行け。これは命令だ。決して、私の後を追ってくるな」
 決して大声を出したわけではない。一切の抵抗を許さない、剣を一息に斬り下ろすような毅然とした声だった。ランティスに聞いた話を、イーグルは思い出していた。精獣は例えどんなものであろうと、主人の命令に逆らう事はできない。そのように創られているのだと。しかし精獣たちは、明らかに嫌だと訴えている。この精獣達とクレフの間には、単純な主従ではない、長い長い絆があるのだろう。

 やがてグリフォンとフューラは、首を垂れたまま森閑と動かなくなってしまった。クレフは、その二体の体に再び掌を置いた。イーグルには聞こえないくらいの小さな声で、二体の耳元に何かをささやいたようだった。こんな言葉は、イーグルには聞こえないほうがいいのだろうと思った。いずれにせよ、イーグルが立ち入っていいような空気ではなかった。

 精獣たちが、クレフの掌の感触に、全神経を集中させているのが分かった。やがて、のろのろと二体は首を上げ、グリフォンはゆっくりと羽ばたいた。そして、中庭に向かって、ゆっくりと宙に滑りだした。同時に振り返った二体に、クレフはにっこりと微笑んだ。何度も何度も振り返り、セフィーロの城の周りを弧を描くように去って行く精獣を、クレフはずっと見送っていた。

「……ランティスが言っていました。精獣にとって主人は、命そのものだと。……残酷なことをしますね」
 振り返ってイーグルを見たクレフは、何も言わなかった。あれだけの力を放出し分け与えたのに、その表情に疲労はうかがえない。クレフの後ろの机の上に、一冊の本が置かれているのが見えた。確かあれは、チゼータから持ち込まれた例の古文書のはずだ。さっき巻き起こった風で、ぱらぱらと何枚かのページがめくれていた。あの古文書が、全ての始まりだったのだ。しかしイーグルにも読めないだろうことは予想がついた。

 クレフの青い瞳と、イーグルの鳶色の瞳が、数メートルの間隔を開けて向き合った。
「時間はない、と仰いましたね」
「ああ」
「急がれている理由は、早くしないとチゼータの『扉』が、第二段階に達するからですか」
 クレフは言葉を止めた。答えるべきか、考えているように見えた。しかしイーグルは尋ねはしたものの、意図的に断定的に言いきっていた。
「そうですね?」
 畳みかけると、クレフは視線をわずかに落とした。
「……あと、一日だ」
「……なるほど」
 第一段階から第二段階に進むには、決まった日数があるということか、とイーグルは理解した。午後のクレフの話から、『扉』と『導師』の間には必ず関わりがある。さらに言えば、『扉』が第二段階で全て消滅しているのは、『導師』の手によるものだと予想していた。738年前、『扉』はセフィーロに現れて数多くの命を奪ったとクレフは言っていた。当時のクレフはわずか10歳で、導師だったということは考えにくい。とすれば、その時第二段階まで進んだ『扉』を止めたのは、導師ロザリオだろうと想像できた。

「今度は、『扉』をあなたの手で、破壊するおつもりですか」
「……それは、違う」
 思いがけない答えに、イーグルは言葉を止めた。そこで、はっきりと否定されるとは考えていなかった。クレフは、確かに事実を口にしないことはあっても、嘘はつくまいとしているように見える。ではクレフは、チゼータで一体何をしようというのか。イーグルの心を読んだかのように、クレフはゆっくりと微笑んだ。
「私にしか、できないことがあるのだ」
「それは?」
「直に分かる」
「……それ以上は、教えてくれないんですね」
 クレフの沈黙が、肯定を表していた。

 クレフはゆっくりと、イーグルに向かって歩き出した。このままもう、歩みを止めるつもりがないのだと分かる、迷いのない足取りだった。
「行ってしまうつもりですか。このセフィーロには、あなたがまだ必要なのに」
「皆、成長した。もう、私がいなくともこの国は大丈夫だ」
 そこでクレフは一度、言葉を切った。
「……イーグル」
「なんですか?」
「……おまえは、私が『扉』が開いた理由を知っているのではないかと、考えているのだろう?」
「でも、あなたは『知らない』と言った」
「……私にも、分からないのだ。どうして、扉が開いたのか」クレフはそこで、考え込むような口調になった。「しかしおそらく……私がセフィーロから去っても『導師』の役割は次へと引き継がれるだろう。その点は心配はいらん」
「僕は、そんなことを言っているのではありません」我知らず、口調が厳しくなった。「皆が悲しむのは、『導師』がいなくなることじゃない。あなたがいなくなることです」

 クレフは、不可思議な表情で黙りこんだ。この人には、本当に分かっていないのだ。噛みあわない会話に、もどかしさを感じてイーグルは言い募った。心のどこかにもう一人の自分がいて、どうしてこんなに感情的になるのだと、訝しんでいるのを感じた。
「あなたは、748年もこの国で生きてきて、この国の人たちがあなたをどれほど愛してきたかわからないのですか? あなたを失って、誰も泣かないとでも思っているのですか」
 今まで平静さを失わなかったクレフの表情が、初めて動揺した。自分が感情に任せて放った言葉が、クレフの心の琴線に触れたのがわかった。最近のクレフのわずかな異変に気づいていたのが、自分だけだとイーグルは思っていなかった。彼をよく知るもの――彼をよく見ている者なら、誰でも気づいていたはずだ。特に、クレフを愛している人であれば。

 クレフのために、涙した者がいるのだ。海なのか、プレセアなのかもしれない。誰にせよ、今のクレフにこんな表情をさせるなど、本当に彼に愛されていたひとに違いない。わずかにうつむいたクレフの表情が、痛みに耐えるように歪んだ。
「……皆、勘違いをしているのだ。私は、皆に愛されるほどの『何か』は持ち合わせていない。無力な人間の一人だ」
「……人を愛する時、そこには理由なんてないんですよ。あなたが仮に無力でも、何ももっていなくても、そんなことはどうでもいいんです。あなたが、あなたであることだけが、皆が『クレフ』を愛する理由なのだと僕は思いますよ」
 その時イーグルの心に浮かんでいたのは、幼いころの記憶にしかない、母の姿だった。父のように能力や容姿で息子を計ることなく、無条件に愛してくれたひとだった。無邪気な表情で、母親に抱きついていた、幼かったクレフの姿が瞼に焼き付いていた。彼にとっての母親も、きっとそうだったのではないかと、イーグルは信じていた。

 クレフは無言だった。しかし彼がイーグルの言葉に、深く心を動かされているのは、その表情から伝わってきた。やがてクレフが口を開こうとした、その時だった。セフィーロの城内に大きな警報が鳴り響き、イーグルとクレフは弾けるように顔を上げた。
「何事だ?」
 続報を待ったイーグルに比べ、クレフの動きは早かった。身を翻し、部屋の大きな窓へと向かった。その背中を見た瞬間、イーグルにも何が起こったか分かった。
「全員、セフィーロ城内に避難してください! オートザムの戦艦が迫っています! 繰り返します――」
 その声はおそらく、セフィーロの警備に当たっていた戦闘員のものだろう。その声が、はっきり分かるほど緊張している。

 窓いっぱいに、無機質な鉄色が広がっていた。柔らかな透明感のある色彩ばかりのセフィーロの中で、その色は深く淀み、異質さを際立たせていた。よく見ると、戦艦は少しずつ動いていた。その船腹を悠々と見せながら、セフィーロを横切って行く。そしてゆっくりと旋回し、船首が城に向けられた。その姿はまるで巨大な鮫が、獲物に食いつこうとしている寸前のように見えた。




* last update:2013/8/3