海は、いつしか暗闇の中で立ちすくんでいた。周りをうかがってみたが、人の気配どころか物音ひとつしない。今いるところが高いのか低いのか、地面が固いのか柔らかいのかも分からない。一歩踏み出したら、突然下に落ちるのかもしれず、海は一歩を踏み出せずにいた。

 足元がおぼつかないこの感覚は、「現実」ではなく、いつも見ている「夢」のようだった。クレフが目の前からいなくなる「夢」――いなくなる状況はそれぞれ違っても、最終的にはクレフはもういないのだと思い知らされて、両脚から力が抜けて行くような「夢」。
しかし、今回の「夢」には、海にそれを知らせる誰も出てこない。底の知れない沈黙がその場を覆うだけだった。誰からのどんな言葉よりも、その沈黙が海の心に堪えた。これほど強い孤独を感じたのは、生まれて初めてかもしれなかった。

 もう、クレフはセフィーロのどこにもいない。海に「さよなら」さえ告げずに去ってしまったということ。
 それは、どんな夢の中にいても逃れられない「現実」だった。

「クレフ……」
 涙は勝手に海の目にあふれ、次々と頬を伝ってゆく。その時、海はびくりと肩を揺らせた。
―― いる。
 誰かが闇の向こうで、海をじっと見つめている。しずかな足音が、近づいてきていた。

 ひた、ひた、ひた。

 決して大きな足音ではないが、地面を擦るような音は耳障りだった。足元が濡れているのか、わずかに水音が混ざっている。耳を澄ませると、どこかで水滴が落ちるような音もする。ぽちゃん、とどこか粘着質な音が聞こえた。
「だ、誰!」
 声を張りあげたつもりだったが、その声はかすれて、くぐもっていた。

 ひた、ひた。

 間違いない。その「誰か」は、まっすぐに海のもとへ歩いてきている。機械のように単調な足音が確実に、近づいてきていた。それと同時に、何ともいえない生臭い、鉄臭いようなにおいが漂ってきていた。月の光でもいい、灯りがほしいと切実に思った。そうすれば、今自分が置かれている状況がどうなっているのか、確認できるのに。
「誰なのよ!?」
 叫んだ声は、半ば悲鳴に近かった。怖い、そう思った。誰かここにいてさえくれれば。
―― クレフ。
 呼んだ途端に、そのひとがもういないのに気づき、海は嗚咽を呑みこんだ。

 ひた。

 足音は、海の前で止まった。


 海は、自分の全身が小刻みに震えているのを感じていた。何が起こっているのか分からない、でも、耳には聞こえないが心を不快にする重低音がずっと流れ続けているような違和感、吐き気がするような嫌悪感を感じていた。今やその重低音は、耳にはっきりと聞こえるほど大きくなってきているようだった。見てはいけない、今目の前にあるものが何か知ってはいけない。心の中で誰かが警告している。

 不意に、暗闇がわずかに明るくなった。夜の森のように、しらじらと青い光が周囲に降りてきた。青白い、目には見えないような細かい光の粒子を、周囲いっぱいにまき散らしたように。その場にいるものの輪郭が、海底のようにぼんやりと浮かびあがった。
「……っ!!」
 何気なく見下ろした目の前にひとの顔を見つけ、海は思わず背後に飛び下がった。足元は何でできているのか分からないが、固くてしっかりとした地面だった。

 誰かが、空中に仰向けに寝かされているようだった。ちょうど、海の腰くらいの高さだった。だから、見下ろした時に目の前に現れたように見えたのだ。海はおそるおそる、その人物に再び歩みよった。青白く発光しているような肌。固く閉じられた瞳。頬にも唇にも血の気はない。光を浴び、暗い青に見える髪は、まっすぐに地面にしなだれ落ちている。海は唖然として、つぶやいた。
「私……?」
「……そうだ」
 思いがけない声が、もうひとりの「海」の背後から聞こえて、海は心の底から飛び上がった。同時にその声の主が誰か気づく。
「クレフ……クレフなのね」
 確かに、「海」の体の向こうには、見なれた輪郭が浮かび上がっていた。その額の宝玉が青く輝き、いつもの杖を高く掲げている。その表情は真っ暗になっているせいで分からなかったが、海にはクレフだと分かるだけで十分だった。不安が心から吹き払われ、心底ほっとした。クレフが来てくれれば、もう大丈夫だと思った。もしかすると「夢」を通じて、海に言えなかった言葉を、伝えにきてくれたのかもしれない。

「クレフ、私」
 伝えたいことがたくさんあるのだ。これがただの「夢」でも、もうかまわなかった。一歩踏み出した時、海の足元がぬるりと滑った。
「きゃ……」
 慌てて足を引いた弾みに後ろに倒れ込み、海は右手を地面について耐えた。
「なによ、これ」
 滑った足を引くと、靴が黒く汚れていた。何だろうと思って目を近づけて、海は全身が強張った。
―― 血。
 よく見ると「黒」ではない。真紅だった。そしてこの、地表を覆う独特の生臭い匂い。海はそっと、地面についた右手を見下ろした。粘る血で、その手は真っ赤になっていた。

 ぽたり。
 音を立てて、粘着質のある液体がまた、地上へと落ちる。それは流れ落ち続ける血なのだ、と海はどこか他人事のように理解した。いや、他人事だと思わなければ、目の前で起こっている出来事の全容を、受け止めきれない気がしていた。
「クレフ、やめてよ」
 声までが震えだしている。
「ねえ、こんな『夢』はいや。ここから出して!」
 クレフは、答えない。
 一体どうなっているのだと思った。この場に現れてからの絶対的な「孤独感」。もしかしたらこの場には本当はクレフももう一人の「海」もいなくて、自分がたったひとりで喚いたり泣いたりしているのだとしたら―― もしそうでないなら、どうしてこのクレフは、沈黙しているのだ?

「ねえ!」
 最後は、泣き声になっていた。立ち上がり、クレフと、その間の空中に横たわるもうひとりの「海」を見た。横たわる自分の全身像が、その時はっきりと見えた。反り返った青白い首。きっちりとシャツのボタンが止められた首もと。海の目は、無意識のうちにボタンの数を数えた。ひとつ……ふたつ。みっつ。胸元のところで、ボタンは弾け飛んでいた。下に着ていたキャミソールがちらりと覗いていた。そこから下は、むちゃくちゃになっていた。海は無意識のうちに、横たわる「海」の腹部に掌を置いていた。ぐちゃりと、生温かく濡れたものが手に触った。その拍子に、「海」の体に溢れていた血が一気に地面にビシャッと流れる音がした。
「私……わたし、は」

 もう、死んでいる。

 頭の中で、マスターナの声が聞こえた。チゼータに行くなと言ったのに。行けば、無惨な死に方をすると、言ったのに……
どう叫んだのか、泣いたのか、自分でも分からなかった。このままでは狂ってしまうと思った。頭を抱え、その場に崩れ落ちた海を、見つめる視線を感じた。血走った眼を向けると、クレフの口元だけが見えた。彼は両方の口角をわずかに上げて――

 微笑った。




* last update:2013/8/3