風は一人で、真っ白な大理石で創られた廊下を歩いていた。天井まで10メートルは高さがあり、横幅も10人が並んで歩けるほどに広い。規則的な間隔で並ぶ窓からは星の光が差し込み、薄暗い廊下に長方形を形づくっている。深い闇と、浅い闇のコントラストを見て、以前の風なら安らぎを感じたものだった。しかし今は、周囲に氷の息吹を吹きかけたように冷たく感じる。周囲には、風の足音しか聞こえない。廊下は、延々と続くかのように思われた。たった一人の不在が、これほどまでに城の空気を変えるとは思わなかった。クレフ自身も、そのことは知らなかったのではないか、と風は思った。

「……海さん」
 足は、空門に向いていた。海が今、空門にいて夜空に吹かれている姿が、風には目の前にいるかのように分かった。その繊細な青い髪を、下からの夜風が吹き上げる。真っ白なうなじが露わになる。海は、両膝をぴたりと床につけて座り込んでいた。両方の掌を顔に押し当て、深くうつむいている。密やかな嗚咽が、床に落ち、壁に弾け、空に流れてゆく。泣いている―― 海の悲しみが風の全身に染みわたり、その悲しみは風の頬を、涙となって流れ落ちた。

 ぽつ、とかすかな音を立てて涙が廊下に落ち、風は我に返った。いつの間にか、歩みを止めていたらしい。風は、ハンカチで涙を押さえた。光の行方が分からず、海の大切な人が姿を消した今、自分がしっかりしなければならないのだ。海の悲しみを、少しでも和らげてあげたい。でも、一体何を言って慰めればいいのか、分からなかった。どれほど優しい言葉をかけ、どれほど傍に寄り添ったとしても、海の苦しみは救えまい。なぜなら、クレフが今どこにいて、何を考えているのか掴めないことが、全ての原因なのだから。
―― 私に今、何かできることはないの?
 風は唇を噛んだ。もしも状況が異なり、風がフェリオを失っていたら、光や海はどうするだろう、と思った。二人だったら―― 落ち込んで動けない風の代わりに動き、何が起こっているのか掴もうとするはずだ。

 クレフの今の言動を、少しでも説明できるような手掛かりはないのか。考え込んだ風はふと、とある会話を思い出した。
――「クレフが泣かせた女性は、あなただったのですね。クレフは、辛そうな顔をしていましたよ」
――「……え? クレフと、クレフと話したの?」
オートザムの戦艦がセフィーロ城の目前に迫っていたとき、プレセアとイーグルは確かにそう言い交わしていた。悲鳴のようなプレセアの問いかけに対して、イーグルは確かに一度、頷いていた。ということは、クレフはセフィーロを発つ直前に、少なくともプレセアとイーグルとは話をしているわけだ。クレフがプレセアに対して「セフィーロを頼む」と言い残したことは、プレセア本人の口から聞いている。それならば、クレフはイーグルには何を伝えたのだろう。会話から察するに、クレフはプレセアに会った後にイーグルと話したことになるのだ。

 何かしらヒントとなる事柄があったとしても、イーグルがそれに気づかないとは思い難かった。しかし、クレフがセフィーロにいた時の言動をつなぎあわせれば、何か見えてくるかもしれない。風は、イーグルの気配を追った。


***


 風が辿りついたのは、巨大なホールほどの広さがある空間だった。セフィーロ城の中にこれほどの空間があったとは知らず、風はあたりをきょろきょろと見まわした。そして、その一角に置かれていた一体のマシンに、思わず声をあげた。
「……FTO!」
 星の光を受けて、しらじらとそのボディが輝いている。左の肘からはナイフの柄が飛び出していて、腰からは大きな銃口がいくつも見える。ロケットランチャーを背中に背負ったその姿は、マシンというよりも、それ自体がひとつの武器だった。10メートル近い機体でありながら、その神がかった速さはさきほど目にしている。こんなマシンと三年前、よく戦えたものだと風は思った。

 胸の部分のコックピット部分は開けられ、中で誰かがキーボードをしきりに叩いている。黒く逆立った髪がちらりと見えた。イーグルは間もなく、このFTOでチゼータに旅立つはずだ。ザズがその最終調整を行っているのだろう。

 巨大なマシンを見上げて言葉を無くしていると、背後から声をかけられた。
「こんばんは、フウ」
「イーグルさん……こんばんは」
 イーグルは丸テーブルの前に置かれた椅子のひとつに座り、風を見上げてにっこりと笑った。長袖のシャツにズボン、上から長いマントを無造作に羽織っただけの姿で、組んだ膝の上にゆったりと両手を置いている。テーブルの上には風がよく知るノートパソコンのような機械が置いてあり、さきほどまでその画面を見ていたのだろう、電源が入ったままになっていた。こんな状況だというのに、いつもと全く態度が変わらない。「こんばんは」と挨拶を交わすような状況ではないはずだが、気づけばそのまま返してしまっていた。切れ者なはずだが相手に緊張感を与えない、独特な雰囲気をもった人だと思う。

「どうぞ」
 イーグルは開いている二つの椅子のうち、手前のほうを風に指し示した。
「ありがとうございます」
 カタン、と音を立てて腰かける。イーグルは、風がこちらに向かっていることは知っているようだった。遥か彼方に離れたチゼータの状況を説明したくらいだから、セフィーロ城の中は手に取るように分かるのだろう。テーブルの上に置かれたティーポットの口からは湯気が立っていて、傍には空のティーカップが三つ置かれていた。

 イーグルは軽く肩をすくめた。
「ジェオがいたら、オートザムのおいしいお菓子をご馳走できたのに、残念です」
「……ジェオさんは、ご無事でしょうか」
「大丈夫ですよ」
 イーグルは、本当に大丈夫かともう一度問い返す気にもならないほど、あっさりと答えた。
「あの男は、殺そうとしたって死にはしません。そのうち必ず現れます」
 本当に心配していないのだ、と思わせる声音だった。いつも軽妙な軽口ばかり叩いている二人だが、余人が入れない信頼関係があるのかもしれない。

 そうは言っても、状況を十分分かっているはずなのに、あまりにのんびりしすぎているのでは、と思ったのは表情にでていただろう。しかしイーグルは構う様子もなく、ティーポットを手に取った。
「焦ったり、苦しんだりすれば事態が好転するなら大いにやっていますが、残念ながらそうではないのでね。ザズの最終調整はどうしても必要で、僕にはその間特にやることがありません。お茶を飲む相手ができて嬉しいですよ、フウ」
「あと10分で終わるぜ! 茶、残しといてくれよな!」
 ザズの声がコックピットの中から聞こえた。その声には張りがあり、子供のような外見でもプロのメカニックなのだ、と思い出した。その間にも、キーボードを打つ音は途切れなく続いている。


 イーグルが、空のティーカップに紅茶を注ぐ。そんな優雅な仕草が様になる男性だと思った。ティーポットからこぼれ出したブラウンの液体がティーカップの中に踊り、華やかな花の香りが立ちあがった。コポコポと音を立てるティーカップを見ていると、全ての事件がまるで起こらなかったかのように思えてくる。
「あなたの用件は分かっていますよ。導師クレフと僕が、最後にどんな言葉を交わしたか……ということですね」
 ソーサーを差しだしながらイーグルは言った。礼を言って受け取り、風はティーカップを口に運んだ。深呼吸をして香りを吸い込むほどに、いい香りがした。
「ええ」紅茶を一口含み、風はイーグルを見返した。「……『扉』について、クレフさんと話されましたか?」
「はい」
 イーグルは即座に頷き、風は息を飲んだ。
「『私にしかできないことがある』。そう、導師クレフはおっしゃっていました。扉を破壊するのかと聞いた僕に対して、『破壊はできない』とも。『扉』が第二段階に進むまではあと一日しかなく、そのために急いでいらっしゃいました。となればあの後、当然『扉』の元へ向かわれたのだと思っていました」
「それなのに、どうして」。風とイーグルが思ったことは、同じだっただろう。
「実際のところ、導師クレフはランティスとヒカルの前に立ちはだかりました。そして、『扉』には、誰かが侵入した気配がありました」
「……え? いったい、誰が……」
「わかりませんが……侵入した何者かと『扉』自体を、導師クレフが護ろうとしていた、という推測もありえると思います。ランティスとヒカルは、『扉』を破壊しようとしていましたから」
「『扉』は破壊できない……」
 風は、クレフが言ったという言葉を繰り返した。それが、破壊することが不可能だという意味だったのか、破壊してはならないという意味だったのか、確かめるすべはもうない。
「だから、『禁術』で弟子を創りだしてまで、二人を攻撃したということですか……? 私には、到底信じられませんわ」

 イーグルは風の言葉に頷いたが、それについては具体的な言葉は口にしなかった。代わりに、話を変えた。
「導師クレフは、『扉』が現れた原因について、確信がないようでした。ただその時、『次の導師を心配する必要はない』ともおっしゃっていて、それがどうしても気になるんです」
「クレフさんの後を継ぐ導師が現れる、ということでしょうか……」
 また新しい要素が出てきた、と混乱しそうになった時だった。はっ、と風は顔を上げた。
「もしかしたら、『扉』の出現は、次の導師が現れたことを差しているのではないですか?」
「僕もそう思いました。その場合、『扉』が次の導師を生みだすのか、次の導師が『扉』を生みだすのか、因果関係は不明ですが。……それ以上は、導師クレフは語ってくださいませんでした。もしそれが事実なら、今この世界には、導師が二人いることになります」

「導師が……二人」
 風は呟いた。言葉にしてみると、それは違和感のある言葉として響いた。導師は、風の中ではクレフ一人だ。おそらくセフィーロの誰にとってもそうではないかと思う。それに、『導師』のような中心人物があらわれたというならば、本人が姿を現さないのはおかしいと思えた。
「チゼータでは、ランティスとヒカルの救助を最優先するつもりです。導師クレフの言葉では、『扉』が第二段階に進むのは明日ですから、『扉』に近づくなど論外です。しかし……僕は、導師クレフにもう一度、どうしても会いたい」
「……ええ。気をつけてください」
 風は唇を噛んだ。何が起こっているのか確認しなければならないのは確かだが、それよりも貴重な仲間を失いたくはない。第二段階ということは、この世の人間があの世に引きずり込まれるということだ。下手に『扉』に近づくのは自殺行為にほかならない。
イーグルは風を真剣なまなざしで見返してきた。
「あなたも。この世界に最早、安全な場所はありません」
「……ええ」
 本当に、この世界はマスターナの預言の通りに滅びてしまうのか。そんなことはさせない、と風はぎゅっと拳を握った。

 イーグルは息をつき、表情を和らげて風を見つめた。そのまなざしは、まるで父親のように優しかった。
「ところで、フェリオのところへ行かなくていいんですか?」
「え……え?」
 風は思わず声を上げ、声を上げてしまった自分に赤面した。イーグルに直接、フェリオとの仲について話したことはない。しかしフェリオは何事も隠さない人柄だから、考えてみれば当然知っているはずだった。
「戦艦とFTOは、今から2時間後にセフィーロを発ちます」
「2時間後……」
 どくん、と胸が高鳴った。今晩中の出立だろうとは思っていたが、これほど早いとは思っていなかった。しかし、チゼータもオートザムも一刻の猶予を争う状態なのだ。1時間でも早く出発したいと思うのは当然だろう。イーグルは、ティーカップをテーブルに戻し、風を見返した。
「フェリオと一緒には、行かないんですね」
「……意地悪なことをおっしゃるんですね」
 風は微笑んだつもりだったが、うまく表情をつくれたかは分からない。それほど、イーグルの言葉は彼女の胸に刺さっていた。

 行きたいか、行きたくないかと問われれば、当然行きたい。しかし、オートザムの戦艦の残り四艦が、いつセフィーロに襲来するか分からないのだ。その時のセフィーロには、もうイーグルもラファーガも、フェリオもいないのだ。そうなれば、怪我人が大量に出るのが避けられない。まず第一に治癒能力、第二に戦闘能力で、風はセフィーロに必要だ。この状況で、セフィーロを離れるわけにはいかなかった。
「……あなたは、素晴らしい方ですね、フウ。周りの人々と心を通い合わせ、その痛みを感じることができるのに、それと同時に自分の役割を客観的に把握することができる。情熱と冷静さを両方持ち合わせた方は、少ないんですよ」
「イーグルさん……」
「だから、あなたの決断は、間違っていません。僕が保証しますよ」

 その声音は温かかった。最後の言葉を言うために、この話題を切り出したのだろうと思った。風は、目に溢れそうになった涙をこらえた。本当は、生死不明の光が心配で、彼女のことを考えたらいてもたってもいられなかった。いつも元気な海が力を失い、泣き崩れているのを見るのが辛かった。そして、フェリオが戻って来てくれるのか分からなくて、心細かった。体が三つあれば、チゼータとオートザムに行きたかった。でも、自分は最終的には、セフィーロにとどまる決断をした。この決断は本当に正しいのか、後悔する事にならないのか―― そう思わずにはいられなかったのだ。
「ありがとうございます」
 風は、涙を指先でおさえた。イーグルは風の肩に手を置いて微笑んだ。
「こんなところにあなたを引きとめて泣かせていたら、フェリオに怒られてしまいます。……フェリオには、これまでに経験のない試練が待ちかまえているでしょう。どうか彼に、乗り越える勇気を。与えてあげられるのは、あなただけです」
「……ええ。ありがとうございます」
 風は立ちあがった。そしてイーグルに背を向けたが、すぐに振り返った。
「ランティスさんと、ヒカルさん……そして、ウミさんを頼みますわね」
「ええ。絶対に全員で、チゼータから戻ってきますよ」
 ためらいなくそう言いきったイーグルの言葉を、信じたかった。


* last update:2013/8/3