「痛てっ……」
 フェリオは顔をしかめ、手にしていた本を机の上に置いた。人差し指を見やると、爪の傍の皮膚が薄く1センチほど切れ、血がにじんでいた。
―― 「『もっと、やさしく持って』って、紙が言っているのよ」
 不意に、やわらかな声が耳をかすめた気がして、フェリオは物思いに沈んでいた顔を上げた。
「……姉上」
 あれは、一体いつのことだっただろう。まだ姉と一緒に暮らしていたころだから、かなり昔の話だ。今と同じように、紙で指を切って顔をしかめていた時に、そう言われたのだった。そして、そっと傷ついた指に唇を寄せ、ふっと軽く息を吹いた。それだけで、それこそ魔法のように傷が一瞬で消え失せた。

 フェリオは血のにじむ指先を見つめ、何とはなしに息を吹きつけてみた。
「……治るわけ、ねえよなぁ」
 子供のころは、姉が自然に傷を治してくれるから、難しくはない魔法なのだと思っていた。でも実際のところ、治癒能力を持っている者は本当に希少らしく、フェリオが知る限りでは、姉以外は風だけだった。

「何をやっているんですか? フェリオ」
 笑いを含んだ声をかけられ、フェリオは笑顔を浮かべて振り返った。
「風。どこ行ってたんだ。……ウミは大丈夫か」
 風の姿が見当たらないから、てっきり海を探しに行ったのだと思っていた。クレフがランティスと光を襲ったと聞いた時の海の取り乱し方が、強く印象に残っていた。風は視線を伏せた。
「……泣いていらっしゃいましたわ。声をかけられませんでした」
「……そうか」
 フェリオにとっては、風の答えは意外だった。風と海と光はいつも子犬のように一緒にいて、遠慮などない間柄だと思っていたからだ。でも考えてみればそれは、それはもう三年も前の話だった。最近の三人は、別行動をすることも増えてきている。距離が遠のいたのではなく、三人が大人になったということなのだろう。

 部屋に入って来た風は、フェリオの指先の傷を見つけて眉をひそめた。そして、フェリオの指を両手で包みこんだ。
「気をつけてくださいね。しばらくの間、あなたの傷を癒すことはできないんですから」
 風が両手を解くと、現れた指にはもう血の痕ひとつなかった。フェリオは離れそうになった風の手首を捕まえた。。
「……セフィーロに残るんだな」
 風の身体が、一瞬震えたのが分かった。風はキッと唇を結んで、フェリオを見返してきた。
「ええ」
「……ありがとう」
 フェリオは心から礼を言った。問いには二つの意味があった。オートザムに行かないという意味と、東京には戻らない、という意味と。本心を言えば一緒にいたかったし、風の気持ちもきっと同じだろう。それでも、自分が今いるべき最善の場所を選んだ。見た目は大人しく儚げなのに、他人に頼らない強さに惹かれたのだ。

 初めて会った三年前、『沈黙の森』で魔物に苦戦しながらも、決してフェリオに助けを求めなかった風を思い出し、フェリオは思わず微笑んだ。そして風を見返して、様子が少しおかしいことに気づいた。
 風の表情は、魔物に襲われていた時よりも青ざめ、緊張しているように見えた。
「……フウ? どうかしたのか」
 風は、押し黙ったまま動かない。フェリオも吊られるように立ちあがった。
「フウ」
 右手を取ると、その細い指先は冷え切っていた。
「どうしたんだ。具合が悪いのか?」
 ふるる、と風は首を横に振った。
「じゃあ……」
「今夜は、帰りません。そのつもりでここに来ました」
「……え」
 風の体が近づいた。右手の指がフェリオの指に絡められる。顔が近づき、涙を湛えたような風の大きな瞳が迫る。ズキン、とどこかが痛んだように思った時には、風の唇がフェリオのそれに押しつけられていた。

 フェリオから口づけたことは数あれど、逆は初めてのことだった。
「……フウ?」
「あなたが好きです」
 風の声は、初めて聞くかのように掠れていた。その声の震え、かすかな吐息がフェリオの耳をくすぐる。
「ほかに、気持ちを伝える方法がわからないんです」
 絡めあった右手をほどき、風はフェリオの右手を取った。そして、彼の手首に自分の手を添え、その指先を導いた。きっちりとボタンが止められた襟元に指が触れた時、フェリオはようやく、風が何を自分に望んでいるのかが分かった。その瞬間、全身が覚えのない感情に震えた。

「フェリオ……」
 フェリオの掌の下で、風の胸が忙しなく鼓動を打っている。まるで掌の中に捉えた小鳥のように柔らかくて、必死で、握りつぶせば全てが消えてしまいそうだった。その瞬間、全身にこみ上げた、獰猛とも言える衝動に、フェリオは自分で戸惑った。何をどうすればいいか分からないままに、風を強く抱きよせ、その背中を左の掌で強く撫であげた。びくりと風の全身が震える。とっさに身を引こうとしたのを捉え、何度も何度も口づけた。細い肩から、まとっていたカーディガンを滑り落とす。ぱさり、と乾いた音がした時、風はもう一度震えた。

 いつか見た夢のデジャヴを見ている気分で、襟元のボタンに指をかけ、不器用にひとつ、ふたつ、と外してゆく。白いレースが、開いた胸元にちらりと見え隠れした。その時、フェリオは唐突に、手の動きを止めた。
「……フェリオ」
 風の両肩を掴み、自分からゆっくりと引き離した。
「……震えてるじゃないか。『体』は悲鳴をあげてるんだ。無理しなくていい」
 彼女の目に浮かんでいる涙は、恐怖によるものだ、と分かっていた。どんな魔物にも怯えない彼女が、フェリオに怯えている。全身に広がる震えは、もう隠しようがなかった。

 どうして風が今、普段の彼女からすると信じられないような思いきった行動に出たのか、フェリオは突然理解した。震えるほど恐ろしいのは、本当はフェリオの方だった。課せられた使命を失敗した場合、一人で死ねばいいというわけではないのだ。自分の言動がオートザムを滅亡させ、クレフを失わせるかもしれないのだ。そして、そうなれば目の前にいる風もただではすまない。

 少しでもフェリオを助けたい。そう思った風が、フェリオの本当の「望み」をかなえたいと思うのは彼女の性格を考えれば当然のことなのだ。本当は、もうずっと前から、風の隣にいるだけでは満足しきれなくなっていた。彼女に触れ、自分が風にとってただ一人の男だということを確かめたかったのだ。自分でさえ、醜いとすら思ってきた衝動に、風は気づいていたというのか。

 風はフェリオをまっすぐに見返して来た。その目じりから、涙が零れ落ちた。それなのに、その視線は強くフェリオに訴えかけてきた。
「違います。私は、自分の『心』に正直でいたいんです」
「でも――」
 こんなのは俺じゃない、とフェリオは言おうとした。いつだって風はフェリオにとって何よりも大事にしてきた宝のような存在だった。傷つけるなんて夢にも思わないのに――今、フェリオの中に湧きあがって来た衝動は、風をその意志に関係なく力ずくでも奪えと命じている。
「それでもいいんです。私が、そうしたいんです」
 風は、言葉にしなかったはずのフェリオの言葉に答えた。
「……」
「フェリオ」
 風はもう一度名を呼ぶと、目を閉じた。

 それから先は、熱に浮かされたかのようだった。風をもう一度抱き、そっと押すと、その体はいかにも簡単にベッドへと沈んだ。圧し掛かられ、苦しげに息を漏らした風の気配を、全身で感じる。栗色の髪がシーツに広がり、濡れた目はまっすぐにフェリオを見つめていた。首もとも、胸元から覗く丸みを帯びた肌も、うっすらと紅く染まろうとしている。
―― 欲しい。
 今この瞬間に、風が欲しい。確かなのは、今だけだった。フェリオは無我夢中で、風の中に沈み込むように、自らの体を落とした。


* last update:2013/8/3