いつもと同じ、穏やかな夜だった。夜のしじまに、引いては寄せる波のような虫の鳴き声が響いている。時折、静寂を切り取るように鋭い獣の声が響いていた。それらの音は決してうるさくはなく、むしろ夜の静けさを際立たせていた。ロザリオは、ティーカップをテーブルの上に戻すと、暖かく燃える暖炉に薪を投げ込んだ。パチパチ、と乾いた音と共に、ぬくもりが広がるのを頬に感じた。
 ……攻撃魔法を学んでいた若かりし頃は、より大きく強く燃え盛る炎を求めた。いまのロザリオは、一瞬で森を一つ燃やすような炎を創ることができる反面、ランプに灯火とともすこともできる。でもなぜだろう、自然に燃える暖炉の火のぬくもりにはかなわない気がする。なんのことはない、普通の人よりもずっと遠回りして、自然の偉大さを知っただけのことだ。
 しばらく炎を見つめていた彼女は、読み止しの本を取り上げる。一枚目のページを繰る音を聞いたのを最後に、彼女の意識は本の中に吸い寄せられていく。導師でも母親でもなく、ただのロザリオに戻るひとときが、好きだった。
  
 導師は代々、『柱』の住まう城に同居するのが常だった。ロザリオが師事した先代の導師もそうしていた。伝統というよりも、国の政事を束ねる上で共にいるのは必然だったからだ。かつて、ロザリオが師であった先代の導師について修行をしていた時、師に言われたことがある。
―― お前も、何があっても『柱』の傍を離れず、命を懸けてお護りするのだぞ。それが、私の次の『導師』としての努めだと心得よ。
 そう言われて頷いた時の心に、一点の曇りもなかったつもりだ。むしろ、本心では望んでさえいた。まさか、自分が導師となった時に、『柱』も次の代に変わっているとは夢にも思っていなかった。全てが収まる場所に収まったとき、ロザリオは新しい『柱』となった巫女と共にいることを拒絶し、城を離れた。そして遠くに城を望むこの場所に、小さな庵を結んだのだ。その時、既にこの身体には小さな命が宿っていた。

「……結局、唯一つだけ、あなたの命令を守らなかったことになるわけだ」
 ロザリオはほろ苦く微笑んだ。先代が聞けば、『柱』から離れないことが、最も重要な役割なのにと怒るだろう。でも、『導師』を引き継いだばかりの当時のロザリオは、役割よりも個人の感情を最終的には優先した。赦されないことだとは今でも思うが、後悔はしていない。あの時のロザリオは、どうしても、どうしても巫女を許せなかったのだ。生きている限り解けないだろうと思った怒りは、しかし春が来て雪解けの季節を迎えるように、ゆっくりと消えていった。もう憎んでは、いない。
 
 いまならば――いまならば、あの時の命令を護れる気がします、導師。
 わたしが「あの時」赦せなかったのは、巫女ではなく。抱いてはならない思いを抱いていた自分自身だった。たしかに、先代の『柱』を手にかけたのは巫女かもしれない。でも、全てのきっかけを創ったのが他ならぬ自分だったという事実に向き合えなかっただけなのだ。巫女はそれに気づいていながらも、決してロザリオの未熟さを責めなかった。巫女の言葉は、昨日のことのように耳によみがえる。
――「わたしは、この地を救うために戻ってくるわ。『柱』として。その代わり、約束して、ロザリオ」
 ロザリオは本をぱたんと閉じ、ため息を漏らした。
 
 物思いにふけっていたロザリオは、その時急に我に返った。そういえば、クレフは一体どこへ行ってしまったのだ? 少し前に庵を出て行ったが、夜の散歩は珍しくもなかったので気にも留めていなかった。しかし、あまりに時間が経ちすぎているし、セフィーロは夜になると意外なくらい冷えるのだ。ロザリオはブランケットを抱えて立ち上がった。


 
 庵の外には、庭、というにはずいぶん原始的な、生の原生林が広がっている。膝の高さに届くほど伸びた葉が、さやさやと夜風にそよいでいる。クレフの姿は、すぐに見つかった。背中をそらせるように立って、時折流れ星が光る夜空を見上げている。小さな拳がぐっと握りしめられているのを、ロザリオは目の端に捉えた。
「クレフ」
 呼びかけると、クレフはくるりと振り向いてロザリオを見た。いつも表情豊かで子供らしさが目立つが、物思いにふけっていたのか珍しく無表情だった。まだ10歳、子供だ子供だと思っていたが、面と向かうと大人びて見えて驚いた。
「早く家に入りなさい。そんな格好で長い間、外にいては風邪を引くぞ」
「引いたら魔法で治しちゃうからいいよ」
「馬鹿者」
 成長したと思った矢先にこれだ。ロザリオは大股でクレフに歩み寄ると、その頭をコツンと打った。
「魔法に安易に頼るなと言っているだろう」
「なんでいけないの?」
 クレフは納得のいかない表情だ。馬鹿者、ともう一度言おうとして、ふと考え直した。ロザリオ自身は、普通の魔導師と同じように、ある程度成長してから魔法を学び身につけた。しかしクレフは赤ん坊の時から魔法を身近に見、言葉と魔法を覚えるのがほぼ同時だった。魔法は失敗すると本人に力が跳ね返ることがあり、命に関わるため魔導師なら当然対策を学ぶが、クレフは魔法を失敗したことが一度もない。
 ロザリオは魔法を異質で制御すべきものと考えるが、クレフにとっては呼吸と同じようなものかもしれない。

 ロザリオは叱責する代わりに、ため息をついた。
「……その治癒能力が、いつまでおまえに備わっているか分からないだろう。かつて同じ力を持っていた者たちは、成長の過程で皆、治癒能力を無くしているのだから。力に頼らず生きていく術を身につけねばならんぞ」
「僕は、治癒能力をなくさないよ、かあさま」
 クレフは言い切った。
「なぜだ?」
「どうして、癒す力がなくなるか、知ってる?……誰かを傷つけようとする時だよ」
 本当なのか、と聞き返す気にもならないほど、確信に満ちた声だった。その青い目は、星の光を受けて青く輝いて見えた。
「誰かを傷つけたってかまわない。一度でもそう思ったら、治癒能力はなくなってしまうんだ。護るか、傷つけるか。どちらかを選ばなきゃいけないなら、僕はみんなを護りたい。……力を失った人は皆、誰かを傷つけても通したい何かがあったのかな。……僕には、わからない」

 ロザリオの心にその時よぎったのは、昼間の巫女の言葉だった。彼女は、クレフが治癒能力を失うと言った。そして彼女の予言は、外れない。
「……かあさま?」
 その小さな背中に腕を回して抱きしめると、クレフは驚いたように目をしばたかせた。自分の足で歩くようになってから、クレフを抱きしめたことは一度もなかったな、と思い出す。まったく、不器用な母親だ。
「……おまえは、そのままでいればいい」
 いつかこの子も、「真実」を知る日が来る気がしてならなかった。
「誰も憎むな。誰も傷つけてはならない。それは必ず、いつかおまえ自身に返ってくるからだ。……もしも誰かを憎むしかなくなったら、私を憎め」
「母様」
 思いがけないほど強い口調で、クレフはロザリオの言葉を遮った。そしてロザリオの肩をつかむと、身を離して彼女を近く覗き込んだ。全く同じ青色の二対の瞳が闇の中で交錯した。
「かあさまは……どうして時々、僕を見て悲しそうな顔をするの?」
 さぁっと、頭の奥が冷たく白くなるような気がした。いま思いついた、という言い方ではなかった。ずっとそう思っていて、思いが淵を越えてこぼれ出したような声だった。そう言ったクレフの顔が悲しそうだったから、自分が時折クレフを見た表情も、同じようなものではないかと頭の片隅で思った。
 クレフはそれ以上言葉を重ねることはせず、スッとロザリオから離れた。そして、小さな肩をそらせるようにして上空を見上げた。夜空には、チゼータ、オートザム、ファーレンの3つの星が輝いている。


* last update:2014/3/17