「落陽」の夕暮れは美しい。
低木がまばらにしか生えない一面の荒野が地平線まで続き、定規で引いたようなくっきりした線が地と天を分かつ。
火の玉のような太陽が、ゆっくりと沈もうとしていた。茜色の夕日は、巨大な雲から、足元に転がった小石にまで均一に影をつくる。
空は少しずつ群青色に染まり、東の空には星が瞬きつつあった。

女は、人一人が寝転がれるくらいの広さがある縁側の柱に背中を凭せ掛け、足を前に投げ出して座っていた。
男物のあっさりした単衣に袴姿だが、目がつぶらで唇は朱を刷いたように赤く、はっとするほど女らしい顔立ちをしていた。
彼女は指の間に紙煙草を挟み、沈みゆく夕陽に視線を投じている。煙が、広い空にゆるゆると立ち上って行く。不意に、その煙がゆらりと揺れて、女は顔を上げた。

巨大な、鳶色の鬣を持つ馬が、その重量を感じさせない身軽さで宙から舞い降りた。
今の今まで姿さえ見えなかったのだ。千里を1時間もかからずに駆けるというスピードは伊達ではなく、常人の目には姿さえ見えない。
そして、この場で急ブレーキをかけたに違いないのに、風が、そよと頬を撫でただけだった。

「よう」
はるばる訪ねて来た馬上の男に、サラは座ったまま笑みを返した。
「こんな地の果てに、総隊長様が何の用?」
「久し振りなのに、嫌味かよ」
蹄が地上についたが、まるで幽霊のように足音もしなかった。日番谷はするりと、馬の背から滑り降りた。

日番谷は、藍色の長着に、黒帯をぴしりと巻いた私服姿だった。着物の色が暗いせいで、肌の白さが際立って見える。
縁側に座り込んだ体勢で見上げると、圧倒されるように背が高く見える。
サラが初めて日番谷に会った時、彼はまだ身長は高いものの筋肉の成長が完全に追いついておらず、どことなくあどけない表情も残していた。
だが今は全身が鋼のような筋肉で覆われて逞しさが増し、大人の男の風格が漂うようになっている。

それに何より、全身から漂う霊圧が全く以前と異なっている。
このソウル・ソサエティに彼よりも強い者は存在しないと言う事実が、すんなりと納得できるほどだ。
―― こんな男に、刃をつきつけたことがあるなんて。
もう、昔の話だ。ふと抱きしめあったことを思い出し、サラは視線を逸らした。

「喫う?」
紙煙草を取り上げて差し出せば、日番谷は頷いて受け取る。
彼が口に銜えた時、サラは自分の煙草の先を近づけた。ジジ……と二人にしか聞こえない微かな音がして、日番谷の煙草にも朱が灯る。
「久し振りに喫うと苦いな」
日番谷は指の間に煙草を挟むと、ふぅと息をついた。
「最近は喫わないのか?」
「桃が……娘が赤ん坊だったころ、煙草の匂いが好きでな。どこにいてもついてきたことがあったんだ」
「困っただろうね」
会ったことはない、日番谷の娘を思い浮かべる。あの松本乱菊との間の娘なら、さぞ可愛らしいだろうと想像する。
赤ん坊が、大きな図体の日番谷の後をよちよちと追いかけ、彼が困るのを想像しすると可笑しい。
「ああ。だから止めた」
ふ、とサラはもう声もなく微笑んだ。
「シロももう、立派な父親だね」
「どうかな。総隊長よりも、父親業のほうが難しい」
しみじみと実感がこもっていて、サラはふと、切ないような気持ちに襲われる。
「あんたにそこまで思われる相手は、幸せ者だね」
「じゃあ、お前だって不幸ではねぇよ」
「いいの? 期待させて」
「もちろんだ」
日番谷はこともなげに言った。

この世界に千も億も存在する魂の頂点に立つということが、どれほど大変なことか想像するまでもない。一魂に注意を払うなど、物理的に無理だ。
それでもこの男は、もしもサラの身に危険が迫ることがあれば、当たり前のような顔をして助けに来るのだろう。
サラがこの落陽を取り仕切っているからでもなく、かつて共に闘った仲間だからでもきっとなく、ただサラがサラであるというだけの理由で。
「……あたしは、誰にも頼らない。自分よりも強い奴が現れたなら、黙って従うよ」
たとえ、殺されたとしても。手折られた花が枯れるように、自分も自然の一部でいたいと思う。
「分かってるさ。俺がいることを心の片隅に置いといてくれればいい」
「ええ。心の片隅に」
ふう、と揃って煙を吐き出す。しばらく、二人とも無言だった。
同じ煙草を喫い、同じ夕日が沈んで行くのを見ているこの一時が、得がたいもののようにふと思えた。


*


「……用件は、こないだ手紙で寄こした探し人?」
夕日が最後の光を投げかけるのを見送った後、サラは日番谷に訊ねた。
近くを流れる川から、蛍がひとつ、ふたつと庭に流れて来る。
「ああ。この一帯はお前が仕切ってるんだろ。何か知らねぇかと思って」
「落陽にはいない」
サラは即答した。落陽の者の顔なら一通り知っている。

日番谷から唐突に手紙が届いたのは、今から十日ほど前のことだった。
探している者がいる、と手短に書かれた手紙と、一葉の写真が同封されていた。
一瞥して落陽の者ではないと分かったものの、もう少し範囲を広げて調べてから返事を出そうと思っていたが、いきなり本人が直接訪ねてくるとは予想外だった。
実は今日も、その件で落陽の外まで足を延ばしていた。サラは部屋の中に戻ると、写真を手に縁側に戻って来た。
「この周辺の頭目にも訊ねてみたけど、いい返事はなかった。調べてみると言っていたけれど」
「……そうか。悪いな、手をかけさせて」
「それはいいけど」
サラは、隣に肘をついて寝転び、庭を眺めている日番谷を見下ろした。
「シロらしくないね。この世界で人を探す無意味さを、分かってるはずだろ?」
「そりゃな」
日番谷は眉をひそめた。死んだ者には、二度と会えない。それは現世だけの約束ではなく、あの世であるソウル・ソサエティでも同じことだった。
この広い空の下にいるのは間違いなくとも、探し当てるのはほぼ不可能だ。

それなのに。
―― どうして、そんな淋しそうな顔をする?
夜になる前のわずかな明るさに照らされた写真を見下ろす。
背景をみると、現世のようだ。少なくとも流魂街ではない。で全体に茶色がかり、四隅は欠けている。随分と昔に撮られた写真であることは間違いなかった。
映っている人物は何の変哲もなく、なんのために日番谷が探しているのか想像がつかなかった。

「……それにしても」
「なんだ?」
「ちょっと、驚いた。数ヶ月前にも、同じ人間を探している奴が来たから」
「なに?」
日番谷がサラを見上げた。その声音が本当に意外そうで、単なる偶然か? と思う。
「写真は違ったけどね。映っている人間は同じだったよ」
「どんな奴だった」
「死神かと思ったけど、着物は違ってた。珍しい髪をしてて……あと、すごく強そうだった」
「なるほど」
日番谷はまた庭に視線を戻した。
「そいつは死神じゃねぇ。王属特務だ」
「……王属特務? って何」
「王廷は分かるか」
「うん」
「王廷の霊王や貴族を護る役職の者たちだ」
サラはすぐには答えず、まじまじと写真を見下ろした。
「どれほど重要なの、この写真の人達」
日番谷は苦笑いして首を振る。
「そんなんじゃねぇ。大昔に死んだ、至って普通の人間だ」
「……なんでシロは、この写真の人達を探すんだ? その王属特務を手伝ってるの?」
日番谷はその問いには無言で、手を差し出した。サラが写真を手渡すと、間近に写真を見やった。
縁側にも舞い込んできた蛍が、写真の片隅に止まる。蛍のわずかに緑がかった光が、日番谷の瞳に反射している。
その目がどんな思いを映しているのかは分からない。
「……あいつは自分ひとりでやると言ってるがな。探してやりたいんだ」
「手伝うよ」
「ありがとう。……あと、もし今度その王属特務が来たら、いたわってやってくれ。そいつは俺の仲間だから」

日番谷は写真をサラの手に戻す。ふわりと蛍が舞いあがる。日番谷は立ち上がった。
「もし見つけたら、礼をしなきゃな。あの『名もなき花』でもやろうか」
一瞬、それが何なのか理解するのが遅れた。それほど、久し振りに聞く名前だった。
「あれは王廷の宝だろ? 返したんだと思ってた」
忘れていた記憶が、一気に蘇って来る。炎に包まれた館、若かった仲間の顔が次々とよぎる。それに混じって一瞬、かつての恋人の後ろ姿が見えた。
「種にして戻せと言われたんだよ。願いがかなえば花が散って、種になるらしいんだが」
「願いがまだかなわないわけ?」
「何を願えばいいのか分からねぇんだよ」
思わず、サラは笑った。
「幸せ自慢をされてるようにしか聞こえないよ」
「そういうんじゃねぇって」
日番谷は珍しく、ふてくされたような声を出した。
「……今の俺の願いと言ったら、娘が幸せに育つことくらいだ。でもそれは、何かに願うもんじゃねぇ。俺が幸せにしてやらなきゃいけねぇだろ、親として」

このソウル・ソサエティで一番の地位を手に入れたとしても、更に上には王廷がある。
それでもさらなる地位を、強さを求めるのではなく、人並みの願いしかもたない日番谷を彼らしいと思う。
それを、自分でかなえようとするところも、初めて会ったころと変わっていない。
「それなら、その写真の人達がどこにいるか分かりますようにって願えば?」
「探してる奴が、それは駄目だというんだよ。……散り散りになったのは、あいつの一族の『罪』だから、背負わなきゃいけないと言ってた」
「……罪って?」
サラが訊ねると、日番谷はうぅん、と唸った。
「罪を犯したのはあいつ自身ではないけどな。……背負う必要なんかねぇと言ったんだが、頑として聞き入れねぇんだ」
日番谷の表情は「困った奴だ」と言っていて、二人の親しさを伺わせた。

サラは立ち上がると、日番谷と向かい合って立った。日番谷の瞳を下から覗き込んで口を開いた。
「……でも、花は持っておくといいよ」
「何故?」
「『失う時は一瞬』。前にも、そう言ったはずだよ」
二人の間をふと、冷たい風が吹き抜けた。リーン、と縁側にかけられた風鈴が鳴った。
「肝に銘じておく」
庭で少ない草を食んでいた野分が縁側に歩み寄り、日番谷の脇腹に鼻を押し付けた。
促されるように、日番谷が立ち上がる。また来るよ、と微笑んだ表情が、いつまでもサラの脳裏に残っていた。

―― 願いなどない、か。
日番谷は強い男だ。自分で言っていたように、願いは自分の力でかなえようとするだろうし、それをなしうるだけの力も持っている。
今の日番谷が、もしもそれでも何かに願いをかけるとしたら、それはいったい何だろう。そう思うと、なぜだか嫌な予感がした。


2012/7/21