それは、とある冬の日の出来事。
風邸の台所口から顔を覗かせ、うー寒いと身を縮めながら空を見上げた金音(かなね)が、あらぁ、と声を上げた。
「寒いと思ったら、何だか雪が降りそうな空模様になってきたわね。風柱、早く帰って来られるといいけれど」
ここ風邸は風柱・不死川実弥の自宅である。しかし実質、風の呼吸の隊員たちの拠点ともなっていて、自分のことに全く構わない風柱の身辺の世話も行っている。屋敷が広大すぎることもあり、風柱本人が恐らく一番、屋敷の全貌を知らないとも言われている。そして、この屋敷の主人は昨晩、鬼の出没情報を受けて単身で飛び出して行ってから、翌朝の今になるまで戻ってきていなかった。
台所内で慌しく食事の準備をしていた何人かの隊員が、金音を見やる。
「お風呂でも沸かしておきますかね。さすがに、いつもの水浴びじゃ風邪を引いてしまいます」
「風邪柱様になっちゃうわね」
ぷっ、と隊員たちは声を見合わせて笑った。鬼殺隊員の中では最も恐ろしい柱として怖がられているが、風の隊員内に限ればそうでもないらしい。
「そういえば」と、料理を再開した一人が呟いた。「最近台所から米とか味噌とか、度々なくなると思わない?」
「そうそう」すぐに一人が頷いた。「気になってたの。動物の仕業にしては周りが荒れてないし。風邸で盗みを働くような勇敢な泥棒がいるとも思えないし」
「動物っていえば、この屋敷内で猪が出たって噂、聞いた?」
「え? 家の中で?」
「そう」
「冗談でしょ?」
同じ頃、風邸の縁側で、同じように空を見上げて眉を顰めていた隊員が、一人。鬼殺隊には珍しく、眼鏡をかけた細身の体型で、まるで執事のようだ。神経質そうな空気をいつもまといつかせた、緑川という男だった。落ちかけた眼鏡を、キッと指先で上げる。そしてきびきびとした動作で屋敷の中に取って返した。
「隊服、新しいものを準備しておかないといけませんね。十中八九、汚して帰ってくるに決まっています。替えをまた出しておかなければ」
隊服を仕舞っている階段下の、小部屋の扉を開けた。
「猪突猛進! 猪突猛進!」
すると、小部屋の中にいた物体が外に飛び出そうとした。2本の刀を手にしていて、猪の頭を被った人間だ、と緑川は把握し、ぴしゃっ、と扉を閉めた。
「猪の頭を被った人間……」
指を顎に当てて考え込んだ時、バン! と音を立てて今度は向こうから扉が開いた。
「何すんだ! 急に開けたり閉めたりしやがって!」
閉まった時に扉が当たったのだろう、被った猪の頭が傾いている。
「ていうかお前、ちょっとは驚けよ」
「驚きましたよものすごく。誰ですか君は。君の存在はこの屋敷内で把握していません」
「俺を知らないとはモグリだな、お前」猪の頭を直しながら続けた。「俺は嘴平伊之助! ……んん? お前今、何か困っているな?」
右の親指と人差し指で輪を作り、その向こうから緑川を覗き込んできた。
「私は緑川一、35歳、風の呼吸の甲兵です。君の存在に頭痛がしていますが、何か」
「聞いてやる。さあ入れ!」
有無を言わさず、伊之助は緑川を階段下の小部屋に引っ張り込んだ。緑川の記憶にある限り、その部屋にはさまざまな衣類が整理整頓されていたはずだったのだが、見事なまでに何もいなくなっている。その代わりに、布団やら玩具やら、伊之助が持ち込んだと思われるものが壁際に積み上げられてあった。それだけで緑川は頭痛が増すのを感じた。
「食え。食えば悩みは消える」
伊之助は、さっきまで自分が食べていたと思われる握り飯を突き出した。まるで空腹が全ての元凶だと思い込んでいる言い方だった。元凶はお前だ、と言いたくなる気持ちを緑川は抑える。
「そんなことよりも、ここに元々あったものはどこですか? 衣類とか」
「捨てた!」
「捨て……」
猪頭を被っているあたりで何をかいわんやという感じはするが、伊之助には常識観念が徹底的に欠如しているようだった。緑川は文字通り頭を抱えた。
「困りました。ただの隊員じゃないんだ、隊服がなければ沽券に関わります」
「無いって、誰の話か知らねぇが、今着てるんじゃないのかよ」
「これから必ず汚して帰ってきます」
「服を汚すなんて、ガキだなぁそいつ! 服を汚すな!! って俺がそいつに言ってやるよ」
「……風柱にそれを言ってくださるんで?」
「ん?」伊之助は首をかしげた。「なんでそこで風のおっさんが出てくるんだ?」
「おっさんではありません。まだ21歳です。ここはそもそも風柱のお屋敷ですよ」
「そうなのか?」
「そうなのかって、それも知らずに居ついていたんですか。風柱に代わって言いますが、ここはあなたのような怪しい風体の者が出入りしていいところではありません。即刻、出て行ってください。一時間後戻りますので、もしその時に出て行っていなければ、物理的に家から追い出します」
それだけ言うと、緑川はもう伊之助に興味を無くし、さっと立ち上がった。
余計なものに余計な時間を使ってしまった。柱の隊服は基本的に固定の担当者がつき、採寸から縫製までを一括して担当する。当然、ひとりひとりの体型や要望に合わせて作られている。そのため、適当に他の隊員のものを流用するわけにもいかない。ことに風柱は詰襟が大嫌いで、胸元がきつく締まる類いの服は鬼のように嫌う。普通の隊服を準備しようものなら間違いなく切れる。その上、いつ産屋敷家からの呼び出しや鬼の出没情報があるかも分からないのに、防御力の劣る普通の服を着てもらうというわけにもいかない。
緑川は、廊下を近づいてきた誰かの足音に向って大声をかけた。
「もし、そこの隊員の方。申し訳ありませんがちょっと縫製部にひとっ走りしてくれませんか。風柱の隊服が切れてしまったので引き取ってきて欲しいんです、本人に気づかれる前に」
「ちょっとちょっと、おっさん」
伊之助が背後から手招いているが、無視した。足音が近づいてくる。
「俺の隊服がなんだって?」
現れた男を見返して、緑川はうわぁ、と口の中で叫びを噛み殺した。風柱・不死川実弥本人がそこにいた。
「おっさん鈍いな、本人だってわかんなかったのかよ」
後ろで伊之助が言っているが、そんなもの普通分からないと緑川は思った。それよりも、何よりもまず。
「風柱! ああ、またそんなに服を汚して……!」
開口一番、そういった。隊服といわず顔といわず誰の者ともつかない血しぶきが飛んでいて、隊服がところどころ破れている。
「やはり新調しなければ……! 使い捨てじゃないんですよ、その隊服は」
「洗えばいいだろうが」
「破れてるのは洗ったって直りませんよ。何なら私が繕いましょうか?」
「気持ち悪ぃから止めろ。で? 俺の隊服が切れたから取って来いと?」
「いいえ!」
別に怒っている口調ではなく、むしろ普通に取りに行きそうだったが、緑川は慌てて首を横に振った。文句を言おうが年下だろうが、身辺の面倒を買ってでる程に敬愛する存在である。
「なんだ。悩んでるのってそれだったのか」後ろでぽんと、伊之助が掌を打った。「それならそうと言えばいいのに。俺が取って来てやるよ」
実弥の視線が緑川を飛び越えて伊之助にうつり、緑川はますます狼狽した。
「すみません、どこの猪……いや、馬の骨とも知れない男が浸入していました。すぐに追い出しますので」
「よう、風のおっさん」
伊之助がそれこそ親戚にでも会ったように片手を挙げて挨拶した。
「だからその呼び方を止めなさい! 本人に向かって!」
実弥は首を傾げて伊之助を見下ろした。
「オイ、こんなところで何してんだァ? 連れはどうした」
普通に会話を始めた二人を、緑川は信じられないように見守った。
「炭治郎たちは蝶屋敷だ。しのぶが毎日うるさいから逃げてきた」
「で、こんな穴蔵に隠れてたのかァ?」
「あぁ、ここは落ち着く」
はぁん、と実弥はなんともいえない返事をして、そのまま踵を返した。
「追い出さないんですか?」
「好きにさせろォ」
「いいえ」
緑川が断固として拒絶すると、実弥と伊之助は共に「めんどうくせぇな」という表情を寄越した。実弥はとにかく伊之助にそんな顔をされる覚えは無い、と緑川は思った。
「顔も分からない者を、この風邸に出入りはさせません」
「俺がこの屋敷の主だぞ」
「でもこの屋敷の内情を誰よりも知らないでしょう」
返答に詰まる実弥に、ずいと迫る。
「私は誰よりも知ってます。その上で言わせて戴きますが、この猪頭を使って別人が建物内に入り込んだらどうします」
想像したのだろう。実弥と伊之助は顔を見合わせて、同時に珍しくも噴き出した。どうやらこの二人は意外と気が合うらしい。
「こんな猪頭を被るなんて、俺だったら金を積まれてもごめんだな」
実弥はそう言うと、何の前触れも無く、ひょいと猪の頭を取った。
「あっ!」
伊之助が頭に手をやった。何気ない仕草でもさすがに柱、反応できる速度ではなかった。「返せ!それは親の剥製なんだ!」
実弥と緑川は顔を見合わせた。ひとつには伊之助の発言がまったく意味不明だったから。もうひとつには現れた顔が絵に描いたような美少年だったからだ。
とりあえず、どちらも追求するのはやめることにして、実弥はひょいと猪頭を被せた。「顔改めは済んだろ。じゃあな」
そのまま立ち去ってしまいそうな実弥に、「どちらへ?」と緑川が呼びかける。
「井戸。ざっと流してくる」
「この寒いのに外で水なんて浴びたら体が凍りますよ」
「凍ったことなんてねぇよ」
緑川は庭を見やり、一角から煙が出ているのを確認した。
「風呂を沸かしてくれてますから入ってください。嘴平が新しい隊服を持ち帰るまで、どうぞゆっっっくり、入っててください」
「あァ? めんどうくせえな……」
「一般的な人間の営みをしてください風柱」
風呂に入るのが面倒、というよりも、緑川の相手が面倒、というような表情で、実弥はそのまま立ち去った。風呂には入るつもりらしい。去り際に、肩越しに振り返った。
「そうだ。縫製部に行くなら、あれを持って行かせろ」