それから、どれくらい経っただろう。
夢うつつに、手首をぐいっと引っ張られた感覚があった。にゃおう、と子猫が何度か鳴いたようだった。
外に出たくなったのかもしれない。無意識のうちに手首を撫で、敷布団の上に手を滑らせて、不意に我に返った。
「どこ行っちゃったの……?」
みゃお。あたしの独り言に、子猫が答える。
いつの間に、布団から出たんだろう。子猫の姿と、その前足とあたしの手首を結わえていた赤いリボンが消えていた。
「外に……出たいの?」
子猫は短く二回鳴いた。普段は寡黙なこの猫が、珍しい。そう思った時、パチッ、と音がした。
そして周囲に、なんともいえない、きな臭い煙が立ち込めているのに気づく。
気づいたとたんに、なんどか咳込んで、完全に目を覚ました。半身を起したあたしは、全身を強張らせる。
「……火事!」
どうして、これに気づかず今まで寝入っていたのだろう。障子は、外で燃え盛る炎で真っ赤に染まっていた。
パチパチと火が爆ぜる音。そして、建物が崩れ落ちる重々しい音。人々の叫び声が遠くに聞こえる。
子猫は、畳の上に立ち、こちらに顔を向けていた。その白い体毛が、炎で真っ赤に照り映えている。
「あっ……」
その前足に、リボンが巻きついている。逃げるのに邪魔になってしまう。
手を伸ばそうとすると、猫はリボンに気づいていないように、とっとと駆けだした。そして、ためらいなく障子に頭から飛び込んで穴を開け、姿を消した。
それにつられるように、布団から跳ね起きる。着替えている余裕なんてない、この五番隊が燃えているのだ。
寝間着のままの姿で、障子を引き開ける。そして、一面を覆い尽くす炎に、思わず肩が震えた。熱気が、頬の産毛をじりじりと焼きそうに熱い。
「みんな、無事っ? 残っている人はいない?」
真っ黒な煙に覆われている廊下を、口元を袖で押さえながら小走りに駆ける。
「副隊長! こちらです!」
思いがけず近い場所で声が聞こえて、あたしは声の方向に瞬歩で移動した。
そこは、まだ火の手が上がっていない修練場だった。煙で視界がはっきりしないけれど、百人を超える死神達が詰めかけているのが気配でわかった。
「桑原九席……皆は無事なの?」
一番近くにいた隊士の袖をつかんで口早に問いかける。いつもきっちりと死覇装を着こなし、女性隊士からあこがれの目を向けられているこの隊士も、
今は頬を墨で黒く汚し、顔色も悪かった。
「はい、皆、寝ている隣人を起こし、声をかけあって避難しました。無事、だと思いますが……どうしましょう、副隊長」
隊士たちの恐怖と焦りが、あたしに覆いかぶさって来る。この全員を、わたしが預からなければいけないのだ。
そう思った瞬間、膝に力が入らないような心もとなさがあたしを覆った。
――藍染隊長がいてくれれば。
あたしはこんな時でもひとかけらも不安を抱かず、彼の後ろに就き従っていただろう。
弱さにさらわれそうになったのは、でも一瞬だった。
藍染隊長が忘れられないからって、いつまでも幻影にとらわれているわけにはいかない。
副隊長であるあたしが、震えていてはいけない。もう隊長はいないだから。
「ここは危ないわ。皆に外に出るように伝えて。外に出たら、棟ごとに点呼を取って、逃げ遅れた人がいないか人数を確認して。
桑原九席、あなた怪我はないわね? なければ四番隊と……」
一瞬あたしはそこで、言葉に詰まった。でも、ためらいを決意が押し流す。
「……十番隊に行って。卯の花隊長と、日番谷隊長に助力を求めて」
「副隊長はどうするのです!」
「あたしは隊舎に戻るわ。逃げ遅れた人がいたら助ける」
「無茶です! もう今にも崩れ落ちますよ!」
「大丈夫。あたしは炎を操る死神だから。炎に殺されたりはしないわ」
袖を取ろうとする桑原九席の手を振り切り、あたしは背後の炎の中に身をひるがえした。
炎を操る死神だから、炎には強い。それは本当だけど、嘘でもある。
普通の死神に比べれば熱さには強いし、ちょっと火に触れたくらいでは火傷もしない。
でも、これだけの炎になると話は別だ。取り巻かれて服に火でもつけば、軽傷では済まない。
そもそも、建物が崩れ落ちて下敷きになったら、助からないだろう。
「誰か! 誰かいない!?」
炎がこれほど音を立てて燃えるとは知らなかった。声を張り上げても、多分十メートル四方くらいにしか届かない。
もう、さっきまで走って来た背後は炎に包まれている。戻ることはできない。
不思議と、死への恐怖はなかった。日番谷君と、卯ノ花隊長の顔が脳裏をよぎる。
あの二人が、この騒ぎに気づかないなんて、ありえない。気づけば、必ず助けに来てくれる。それは予感じゃなくて、確信だった。
何もかも失ったように思っていたけれど、変わらずそこにあるものに、こんな時に気づかされる。
―― もうきっと、大丈夫ね。
何人か出会った逃げ遅れた死神には、外へ出る道を示した。あたしもそろそろ避難しなければ、四方を炎で遮られる。
少し火傷しそうだけど、仕方ない。瞬歩で炎の中を突っ切ろうとした時、ふ、と今どこにいるのか気づいた。
藍染隊長の居室だった。隊長が瀞霊廷を去ってからずっと、彼の部屋はそのまま残されていた。
彼がいつも向かっていた文机。きちんと積み重ねられた書物。硯箱。彼がいなくなってもなお、息遣いが聞こえてきそうに思える。
天井を、炎の舌が舐めている。おそらく、あと十秒ももたずに崩れ落ちてくるだろう。
「……あ」
あたしが上げた声は、声を出し過ぎてかすれていた。
煙の向こうに、文机に向かっている藍染隊長の背中が見えた気がした。
その深い茶色の羽織の色、がっしりしている肩の丸み、そして軽くウェーブがかかった懐かしい髪。
「藍染隊長……」
そんなはずはない。分かっていたのに、あたしは彼の名を呼んで一歩、居室の中に足を踏み入れてしまった。
身の毛がよだつ、頭がぐらぐらする。なのにひどく切ない。次の瞬間、燃え盛る柱が、あたしの頭の上に崩れ落ちた。
無駄と知りながらも反射的に腕で頭をかばい、その場に座り込む。
長い、長い時が経ったような気がした。どくん、どくん、と激しく鳴る鼓動が、時の経過を教えてくれる。
ふっ、と首もとに、涼やかな風が吹いた。
その時に、もう分かっていたのだけれど。目を開けたら目の前に、黒々と「十」の文字が見えた。
「雛森っ、無事か?」
崩れ落ちた柱を、抜きはなった刀の峰で受け止めていた。見る間にその柱が氷に覆われ、その場に縫いとめられる。
雛森。久しぶりに呼ばれた時、張りつめていた糸がふっと緩んだ。
「う……うん」
副隊長でも、死神ですらなく、ただの雛森桃に一瞬で戻ってしまう。
日番谷君は肩越しにちらりと振り返ると、あたしを見下ろして、眉間にしわを寄せた。
「何やってんだ、雛森。そんな恰好で」
……そんな恰好?
言われてふと、自分の姿を見下ろした。寝間着のまま、しかも煤で真っ黒に汚れている。
おまけにしゃがみこんだ拍子に裾が割れ、太ももの辺りまで露わになっている。あたしは慌てて裾を直し、立ち上がった。
「何よ! このスケベ!」
「スケ……なんでだ!」
不思議、日番谷君と普通に会話ができている。この非常事態に、あたしは初めてほんの少し感謝した。
「……桑原九席に聞いたの?」
「あ? しらねぇよ。なんのことだ」
伝令は間に合わなかったのか。この炎は瀞霊廷からならどこでも見える規模だろうから、気づいて飛んできてくれたんだろう。
「どうしよう、全部燃えちゃう……」
「燃えればいい。建てなおせばいいだろ」
日番谷君は拍子抜けするくらいにあっさりと言った。そして、あたしの背後の部屋に視線を巡らせる。
――藍染隊長の姿は、もうどこにもなかった。幻だったんだ、当たり前だ。
日番谷君は、藍染隊長の部屋をちらりと見て、少しだけ眉を寄せた。
「……馬鹿だな」
言葉とは裏腹に、声音がとても優しくて。こんな場面なのに、あたしは少しだけ泣いた。
「火事は俺がなんとかする。お前はいいから、出てろ」
「でも! まだ隊士が残っているかも……」
「霊圧を探れよ! わかるだろ、お前なら。もう誰もいねぇよ。お前が避難させたんだろうが」
「霊……圧」
そうだ。どうしてあたし、霊圧探査をしなかったんだろう。
この炎にかき乱され、探査は通常よりはかなり難しくなっているとはいえ、冷静に対処すれば発見できたはず。
足で探そうとした自分に思い当り、いかに自分が動揺していたかを知った。
「先に出てろ。これを持っていけ」
ひょい、と氷輪丸を手渡されて、あたしは思わず取り落としそうになる。飛梅と比べても倍くらいの重さがある。そして、刀と日番谷君の顔を見比べた。
「刀がなくて、日番谷君はどうするのよ?」
「どうって。高が火事で俺が死ぬと思うのか?」
心外だ、とでも言いたそうな声だった。そして、どん、と有無を言わさず肩を押される。
「建物が崩れる前に外に出ろ! 時間がねぇぞ」
「……わかった! 気をつけてね」
「お前も」
お前も。そう付け加えてくれるくらい、日番谷君は前から優しさを表に出していただろうか。彼に背を向け、駆けながらふと思う。
あの戦いを経て、きっと少し、彼も変わったのかもしれない。ちらりと振り返った時に見た日番谷君の背中は、驚くくらい広かった。
「雛森副隊長! ご無事で」
「雛森君、無事か!」
外に出たとたん、隊士たちと吉良君に取り囲まれた。あたしが手にした氷輪丸を見て、目を丸くする。
「大丈夫よ。この刀のおかげで」
もちろんあたしには、この刀をどう使えばいいのか見当もつかなかった。でも、考えるまでもなかった。
刀の切っ先を向けるだけで、その方向にある炎は、すべて道をあけるように左右に避けた。
あたしはただ、建物が崩れないか気をつけるだけでよかった。
人混みをかき分けて、息せききった桑原九席が現れた。あたしの顔を見て、ホッとした表情を浮かべる。
「よかった。十番隊に行ったんですが、松本副隊長に日番谷隊長は外出したまま戻らないと言われまして、もう駄目かと」
「そうだったの?」
この夜中に、一体どこに出歩いていたんだろう。まあ、来てくれたのだから、些細なことは別にいいのだけれど。
「日番谷隊長だ!」
その隊士の声に視線を隊舎に戻すと、中央に位置する棟の屋根の上に、炎に覆われて銀色の髪がちらりと見えた。
刀も持たずにどうするのだろう、と見ていると、その右腕を真横に一振りする。
とたんに、ポツリ、と雨が頬を打った。と思う暇もなく、土砂降りの雨に一変する。
あちこちで煙が上がり、火の手が弱いところから消え始める。周囲から歓声が上がった。
日番谷君の頬には、墨ひとつ飛んでいない。青い目は、何かをあたしに思い出させる。
「……あ」
あたしは、手のひらが汚れているのも忘れ、口元を手で覆っていた。
些細なこと、なんかじゃない。
水平に掲げている日番谷君の右腕。その手首のところに、赤いリボンが巻きついているのを、はっきりと見てしまった。日番谷君は、気づいていない。
「何が、外出中、よ」
口をきかなかった間もずっと、見てくれていた。あたしを心配してくれていたんだ。
今にもパニックになりそうだったあたしを救ってくれたのは、あの子猫の正体に、心の底で気づいていたからかもしれない。
***
それから、二日後の夜を迎えていた。
五番隊は結局、綺麗さっぱりと燃えてしまった。これほど大きな火事だったのに、けが人数人を出しただけで済んのは本当に良かった。
日番谷君は他の建物への延焼を防いだけど、建物ごと凍らせるとか、強制的な消火はしなかった。
これで良かったのかもしれない、と思う。足を踏み入れることも、なくすこともできない藍染隊長の居室なんて。なくなってしまうべきだったんだ。
というわけで、全ての所持品を失ってしまったけど、案外気持ちはさっぱりと落ち着いている。
とはいえ隊舎はないから、各隊に少しずつ分散して、間借させてもらっている。
あたしは、指示系統にもっとも近い場所、一番隊に居候していた。
新しい隊舎は、どんな間取りにしましょうか、と尋ねられて、今までの間取りは考慮しないで大丈夫です、と大工頭のひとに断言してしまった。
五番隊が新しく生まれ変わるために、必要な「儀式」だったのかもしれない。
……猫は、あれから来ない。
でもあたしの気持ちは穏やかに凪いでいた。
夜半、少しだけ開けた障子からは、涼やかな風が流れてきている。そろそろ戸を閉めて、行燈の灯りを落とそうとした時。
振り返った時、ぎょっとした。いつからいたのか、あの子猫が畳の上に座り、こちらを見ていた。
子猫はあたしと目が合うと、口にくわえていた赤いリボンを畳に落とした。
猫だから表情はないはずなのに、気まずそうな顔をしているように見えた。
考えてみれば、子猫の癖にはしゃいだ素振りが全くなくて、老成しているようにさえ見えたこと。
ふとした動作ひとつとってみても、人間の時と全く同じだったじゃないか。
改めて考え合わせると納得できるのに、それまでは夢にも思わなかったのだからおかしくなる。
きっと、火事が収まって一息ついたときに、手首に巻きついたままのリボンに気づいたんだろう。
そして、あたしに正体が気づかれたことを、悟ってしまったに違いない。
「来る?」
手招いてみる。子猫は「はぁ?」とでも言いたそうな顔をして、こっちを青い目で睨んできた。
そして、立ち上がるとくるりと身を返し、開いた障子の隙間から外へ出て行こうとする。
「ねぇ!」
呼びかけると、ぴたりと足を止めた。
「また、明日ね」
日番谷君は、答えない。猫の鳴き声しか出ないからかもしれない。その代わりに、ぴん、と耳を動かしてみせた。