濃厚な血の匂いに、匡近は覚醒した。
巨大な寺院が闇の中に浮かび上がるのが、実弥の肩越しに見えた。
100人くらいは収容できそうな広大な山寺で、荘厳な門は粉々に粉砕され、倒れていた。あの槍の衝撃波にやられたのだろう。
たしか、修行僧が多数所属している密教のひとつだと噂を聞いていたが、さすがにこの火力で夜襲されれば、ひとたまりもなかっただろう。
「起きたか」
実弥が振り返った。
「ごめん。どれくらい寝てた?」
「移動してる間、30分くらいか。少しは体力戻ったか?」
「ああ。ありがとう実弥」
その背中から滑り降り、トントン、と軽く地面を蹴ってみる。幸い、雷の呼吸を使うのに支障はなさそうだった。
呼吸の使い手は基本的に怪我の治りが常人の何倍も早い。さすがに傷ついた左腕は使えなさそうだが、頭のふらつきはなくなっていた。
「戦えそうか?」
様子を見ていた実弥が訊ねた。
「一時間くらいはいける」
「それだけ戦えれば十分だ」
実弥が背中を見せ、刀の鯉口に手をやりながら門を通り過ぎた。

中を一瞥するなり、実弥が軽く息をついた。追いついた匡近はすぐその理由に気づいた。
広大な庭のあちこちで、多くの僧侶が折り重なって倒れていた。血が川のように流れ、既に息がないのは一目で分かった。
門をはさんで、左右対称に全く同じ建物が二棟並んでいる。二棟は渡り廊下でつながれていた。
「……まだ、相当数の人は生きて身を潜めてると思う。特にまだ破壊されていない右側のほう、戦う時気をつけろよ」
周囲が静まり返っているのが不気味だった。ただ、匡近には、無事なほうの建物で息を潜めている人々の息遣いが、聞こえる気がした。
「わかった」
実弥は頷いた。そしてすぅ、と息を吸い込んだ。
「おい! 下弦の壱! 言われた通り来てやったぞ。ぶっ殺してやるからとっとと出て来いやコラァ!」
「ちょっと! せっかく相手に気づかれてない感じなのに何怒鳴ってんの!」
雰囲気に飲まれないのは大したものだが、それにしても無謀すぎる、と匡近は改めて呆れた。
「生き残ってる奴にも、これで状況が伝わるだろ。……っ!」
前にいた実弥が咄嗟に鯉口を切り、体の前で途中まで引き抜いた。上空から真っ直ぐに飛んできた薙刀を跳ね返す。
血塗れのその薙刀は、僧侶のものだったのだろう。庭に突き立った衝撃でしばらく震えていた。
実弥が、ゆっくりと刀を全て抜き放った。その視線は、屋根の上に立つ一体の鬼に据えられていた。

「……あいつだな」
「ああ。気をつけろ」
匡近も実弥の隣に並び、右手で刀を構えた。下弦の壱が、その真紅の瞳で実弥を見下ろしていた。その表情が歓喜に満ちている。
「稀血! これはまた極上の品だ。今まで喰った稀血とは質が違う」
文字通り舌なめずりをしながら、手にした槍を構えた。
「どいつもこいつも高級食材扱いしやがって、人を何だと思ってんだ。……連れて行った女はどこだ」
実弥の問いに、下弦の壱が嬲るような笑みを浮かべた。
「忘れたなぁ。どこに置いたのやら、生きているのやら」
「そんな阿呆な頭はいらねぇな」
実弥はそう言って、刀をわずかに下弦の壱のほうに向けた。匡近だけが気づくようなわずかな動きだった。
次の瞬間、下弦の壱の頚が斬りおとされ、頭が屋根に落ちた。
「えっ?」
さすがの匡近も、度肝を抜かれた。
「ちょっと風が吹いたかァ?」
実弥が、嬲るような笑みを返した。

科戸風だ、と匡近はほとんど勘で察した。風の呼吸の弐の型に当たる。
普通は刀を振り下ろすことで風を生み出し敵を斬り裂く技だが、達人になるはなるほど、わずかな刀の動きで型を発生させることができる。
とはいえ、もう人間に出来る領域ではない。余裕めいた態度とは裏腹に、極限まで集中して打ち出された一撃だった。
ちらり、とその横顔を見上げる。その眼は爛々と輝いて見えた。どんな戦いでも眼だけは冷静さを失わない実弥が、本気で怒っている。

ただし、日輪刀で直接頚を切らなければ鬼は死なない。
下弦の壱は片手で槍を掴んだまま、もう片方の手で自分の頭を掴み、無造作に頚の上に乗せた。両目がぎょろりと実弥を睨む。
「……お前。隣の男よりも強いな」
実弥は返さず、ずい、と前に出た。
「殴られるわ怒鳴られるわ、こんなに腹が立ったのは初めてだ。お前のせいだ」
「八つ当たりかよ……」
背後で匡近が呟く。さっきから、匡近が隣に並ぶ度に前に出ている。お前は引っ込んでいろ、と言わんばかりだった。

実弥と下弦の壱が、同時に地面と屋根を蹴る。互いの体が交錯し、鋭い金属音が鳴り響いた。
普通に戦えば、間合いの短い刀が不利。実弥は屋根に着地すると、二階の窓を割り建物の中に姿を消した。
「待て!」
下弦の壱が後を追う。槍から発せられた衝撃波が、あっという間に二階の一角を吹き飛ばした。
「建物内に入るな!」
咄嗟に匡近は声を上げた。普通の槍だと狭い室内では戦いにくいが、飛び道具のある下弦の壱では話が違う。
「匡近! お前はいいから静さんを探せ!」
屋根の上のほうから、実弥が叫び返した。どうやら無事ではあるらしい。
「違う」と匡近はとっさに思った。一緒に戦おうと言った実弥が、匡近を戦場から遠ざけようとするのはありえない。
匡近は分かった、と叫び返すと、その場に身を隠した。

「そっちか!」
下弦の壱が槍を声が聞こえた方に向ける。それだけの動きで屋根が崩れ、鯱が轟音を立てて地面に落ちた。
しかしその先に実弥の姿はない。
「どこに行った」
鬼が壁に手を突いた瞬間、その壁が崩れ落ちた。はっ、と下弦の壱が視線をおろした瞬間、飛び出した実弥が鬼の懐に飛び込んだ。
「……壱の型」
風の型でも攻撃力の強い、竜巻状の衝撃波を生み出す業だった。もともと中距離に使う技を至近距離で喰らった鬼は、声もなく背後に吹っ飛んだ。
襤褸切れのように転がった胴に、巨大な風穴が開いている。さすがにこれほど大きな傷をふさぐのは時間がかかるか、鬼はのた打ち回って苦しんだ。
「よくも『兄貴』を痛めつけてくれたな。絶対に許さねぇ! ただじゃ殺さねぇから覚悟しろ!!」
怒鳴り声にその場の空気が震える。下弦の壱相手でも、全く引けを取っていない。実弥は大またで鬼に歩み寄った。鬼は屋根から地面に転げ落ち、実弥から距離を取った。

「……今頚を落とさなかったこと、後悔するぞ!」
呻きながらも、下弦の壱が身を起こそうとする。そして背後にいた匡近に打ち当たった。
完全に匡近はその場を離れたと思っていたのだろう、下弦の壱は目を見開いた。
「やっぱり、頚を落としたほうがいいよね」
匡近はそう言うと、構えた刀をまっすぐに頚に向けて振り下ろした。
頚が地面を転がり、地面に落ちる。槍が手から離れて屋根に落ち、ガランと音を立てた。実弥と匡近は顔を見合わせた。
「……これで終わりかァ?」
「実弥こそ、こんな強かったっけ? お兄ちゃんは嬉しいよ……」
そう言いつつ、匡近は鬼の体に視線を走らせた。体が斬られた頚の部分から、灰のように崩れていく。
鬼が死んだ証だったが、下弦の壱にしてはあまりにもあっけなさすぎる。

油断するな、と屋根にいる実弥に声をかけようとした時。
匡近を見下ろしていた実弥の表情が、一瞬で強張った。
「匡近っ!」
だんっ、と屋根を蹴り、こちらに向って跳んだ。一瞬空けて、実弥が打ち当たってきて匡近の体は吹っ飛ばされる。
「何を……」
慌てて起き直ったが、折り重なって倒れた実弥はうめき声を上げ、起きられない。
はっとして改めると、その右肩がざっくりと割れ、血が噴出していた。
「実弥!」
何とか起き直った実弥を庇い匡近は前に出た。そして目の前にしたのは、にわかに信じらない光景だった。
持ち主を失い、屋根に転がったはずの槍が、まるで一つの生物のように宙に浮いていた。匡近と実弥のほうに向けられた切っ先が、べっとりと血で濡れている。
二人が言葉を失って見ていると、その持ち手のところに黒い影が現れた。影は人型に広がり、見る見る鬼の形をつくった。
「弱いほうを先に殺したつもりが、これは収穫だったな」
「……下弦の壱!」
何事もなかったかのように、無傷の下弦の壱が槍を構えて立っていた。
槍に絡みついた実弥の血に、うっとりした表情で顔を寄せる。
まずい、と匡近は総毛立つ。鬼に、実弥の稀血を摂取させてはならない。何が起こるのか想像もつかないが、「通常の」稀血でさえ人間百人分の影響があるというのだ。
「本体よりも先に味見をさせてくれるという訳か」
次の瞬間、鬼の体がくらり、と傾いた。匡近はとっさに刀を振りかざす。気づいた実弥もそれに合わせた。
同時に壱の型・塵旋風が巻き起こり、一つの巨大な竜巻を生み出す。その一撃は槍の衝撃波と同じくらいの威力があった。
声もなく鬼は吹っ飛ばされ、その隙に匡近は実弥を抱えて手近な建物に飛び込んだ。

「大丈夫か?」
実弥は返事の代わりに、懐から針と糸を取り出した。それを受け取り、匡近は片肌を脱いだ実弥の傷口をざっと布で拭き傷を改めると、一息に縫った。
麻酔など使えるはずもない。実弥は初めこそ歯を食いしばったが、声も漏らさずに痛みに耐えた。
「今ので槍についた稀血は吹っ飛んだと思うけど。なんでさっき、鬼はよろめいたんだ?」
「……俺の稀血の匂いで、鬼は酩酊する」
実弥の言葉は予想外で、匡近は驚いた。
「そうなの? 何で今まで言わなかったんだよ」
「期待させるほどの効果はねぇからだ。それにしても、日輪刀で頚を落としても死なねぇって、どうすりゃいいんだ?」
「聞いてくれ。下弦の鬼は、日輪刀で頚を落とせば例外なく死ぬ。そこは揺るがない。となれば、さっき落としたのは頚じゃなかったってことになる」
匡近は実弥の耳元で、囁くように早口で言った。いつ次の一撃が来るかわからない。
「あの鬼の本体は鬼の体じゃない、あの槍だ。あのどこかに『頚』に当たる箇所がある」
「どこが頚なんだ……?」
「それは分からない、観察して判断するほかないね」
「了解」
実弥は隊服を着なおし、傷口を掌でぐっと押さえ、目を閉じている。
呼吸の力を使いこなすことで、普通なら致命傷でも、実弥は自ら出血を止められる特異体質を持っていた。
匡近も理論上は理解できなくはないものの、使えない能力だった。とはいえ傷を治すことはできないから、もう右腕は使えまい。

ぎょっとするほど近くで、下弦の壱の怒鳴り声が響いた。
「おい稀血! ぶっ殺してやるからとっとと出て来い」
「さっきの真似されてない?」
「腹立つなぁ……おい匡近、俺から離れろ。稀血の匂いですぐに居場所がばれるぞ」
それは、その通りではあった。事実、下弦の壱の足音は、あやまたずこちらに向ってきていた。
実弥を囮にして、匡近が鬼がやってきたところを狙う。それがセオリーなのだろうが、互いに手負いの状態でどこまで戦えるか。
「いや……」
匡近は首を横に振った。二人の視線が交差する。
「……実弥は右肩、僕は左肩か。お互い利き手をやられたね」
「互いに右手と左手が一本ずつ生きてんだ。やれるさ」

「……ようやく出てきたか。鬼ごっこは終わりだ」
二人が壁から姿を現したのを見て、下弦の鬼は目を細めた。
匡近は左腕、実弥は右腕を、胴体に包帯で縛り付け、自由なほうの手で刀を下げていた。ほとんど動かすことができない以上、使えない腕は戦う時に邪魔になる。
三人が地を蹴ったのは、ほぼ同時だった。左から鬼が槍を振り下ろす。匡近がその一撃を受け止めた。片腕で受け流すにはあまりに重い一撃に、匡近が歯を食いしばった。
その隙に、実弥が相手の懐に飛び込んだが、鬼に手首を掴まれる。実弥はすかさずその腹を蹴り飛ばした。

鬼の体が無傷だった建物内に突っ込み、土煙が上がる。と同時に建物の中から悲鳴があがった。
「……生きてる人がいるから気をつけろって言っただろ……」
「悪ぃ。……おい! 生きてる奴は建物から出ろ!」
実弥が怒鳴る。静の行方も気になるが、とにかく戦いに勝たなければ探すこともできない。
「鬼殺隊……!」
建物の中から顔を覗かせたのは、中に潜んでいたと思われる僧侶たちだった。
「我々のことは構いません! 鬼を殺してください、頼みます!」
死地の中で向けられたのは、鬼殺隊に対する、信頼のまなざし。
「……ここで止めなきゃ、あの鬼はますます大勢の人を殺すな」
実弥がずい、と一歩歩みでた。その頬には血が飛んでいるが、その目は全く恐れていない。
その目を見て、匡近はハッとした。これまで何度も共に戦ったことがある「柱」は、皆同じ目をしていた。

「小ざかしい鬼狩りどもが」
崩れた建物の中から、下弦の壱が現れた。槍を振りかざす方向を見て、匡近は総毛だった。
「衝撃波が来る! 皆逃げてください!!」
言い終えるよりも早く、衝撃波の連打がその場を襲った。
砲撃音のような音が次々と響き、広大な寺院の三分の一ほどが激しい轟音と共に崩れ落ちた。その様は、もはや戦争のようだった。
建物内のどこかに火が残っていたのか、あちこちにボッと火がつき、闇の中で寺院は燃え始めた。

「っつー……」
あまりの衝撃に、匡近は自分がどうなったのか分からなかった。ただ、下半身が動かない。はっとして匡近が見やると、巨大な柱に右足を挟まれていた。
追って、骨が砕ける痛みが全身を駆け抜ける。
「匡近!」
実弥が駆け寄った。実弥は何とかかわしたのか、肩以外の怪我は負っていない。ほっとした。
「動けない奴についてどうする! 逃げろ!」
「でも……」
実弥は匡近を押さえつけている柱と、その下で押しつぶされている足を見やり、愕然とした。土煙の向こうに、下弦の壱が迫ってくる影が見えていた。
「ここにいたらお前も死ぬぞ。行ってくれ」
動けない匡近を庇いながら戦えるような状況ではない。自分はここで死ぬのだと、その時覚悟した。
「嫌だ」
しかし実弥はその場を動かない。
「実弥!」
「思考を止めるなといつもいってるのはお前だろ! 生きる方法を考えろよ!」
下弦の壱が、にやりと笑いながら姿を現した。
「仲がいいことだ。一緒に殺して喰ってやろうか? そうしたら、腹の中で一緒にいられるぞ」
「稀血は、普通の人間と一緒に食べると効かなくなるんだよ」
唐突に匡近はそう言った。下弦の壱が一瞬、虚を衝かれた顔をした。次の瞬間、鬼の上から黄色い液体が次々とかけられた。
「なんだ……?」
匡近と実弥以外は完全に油断していたのだろう。鬼が周りを見回すと同時に、周囲から火の矢が仕掛けられた。
「鬼を殺せるのは鬼殺隊だけだ! 隊員を守れ!」
僧侶たちが手に手に火矢を構え、次々と鬼に打ち込む。かけられた液体は油だった。叫び声をあげ、鬼は炎上した。
「咄嗟によく、そんなテキトーな嘘がつけるよな……」
実弥は呆れたように匡近を振り返った。
「隙を作れたじゃない。……実弥。あいつの槍、いつも同じ場所を握ってるのに気づいたか。まるで庇うみたいに。あの場所が『頚』だ。あの場所を狙え」
「分かった。……その足、もう使いものにならねぇな」
「……そうだね」
完全に、潰されている。生還したとしても、もう鬼殺隊として戦い続けることは、かなわないだろう。
「……匡近」
実弥は前を見つめている。その髪が炎で赤く輝いていた。
「戦えなくなろうが、お前は俺の相棒だ。これからもずっと。それが俺の『願い』だ」
返事をする前に、実弥は立ち上がった。そして、左手に鞘ごと刀を下げて、ゆっくりと鬼に向って歩き出した。

炎に包まれたまま、下弦の鬼が、一歩、また一歩と歩み寄ってくる。
その腕や足は焼け焦げところどころ細くなっているが、攻撃としては効いていない。頚を落とさない限り、何度やられても再生する。
実弥が、トン、と地面を蹴った。そのまま、神速の域まで加速する。
―― 雷の呼吸?
見ていた匡近は目を疑った。今まで実弥が、雷の呼吸を使うところを見たことがなかった。
鞘を口に咥え、思い切り抜き放つ。雄たけびを上げて鬼がそれに応じた。
槍と刀が打ち当たり、金属音と共に刀が実弥の手から離れ、宙を舞った。
利き腕ではない片腕での攻撃で相手に当てるなら、相手よりも速く打ち込むしかない。しかし出血が、実弥の動きを鈍らせていた。
「もらった!」
その瞬間、鬼は勝利を確信しただろう。
鬼が槍を構えなおして実弥に振り下ろした瞬間、実弥は左手を床につき、蹴りを放った。その蹴りは、燃えて一部炭になっていた鬼の腕を分断する。
地面に落ちた槍を、腕ごと実弥は拾い上げた。そして間髪いれず鬼に向けて槍を振り下ろした。
「……!!!」
鬼が放ったものと遜色ない衝撃波が槍から放たれ、鬼の体はあっけなくも消し飛んだ。
「拾え! 刀を拾え、実弥! 槍を破壊しろ!」
これで鬼の邪魔がなくなった。匡近の叫びを受けて、実弥の刀を拾った僧侶の一人が、
「これを!」
と投げて寄越した。その刀を受け取った実弥が槍を踏みつけ、鬼が握っていた部分―― 柄と槍の境目に、刀を突きこもうとした。
その刹那、その槍から巨大な腕が噴き出すように現れた。はっ、と実弥が避けようとしたがかなわず、1メートルはある掌に胴体を鷲掴みにされた。
「実弥!」
匡近が叫ぶ間もなく、宙に掲げられた。両腕を握りこまれた実弥は、動けない。
鬼の腕から肩が、肩から胴体と頭が、最後に足が、次々と生み出される。
「鬼の武器を奪って鬼を殺そうとするとは、鬼狩りながら見上げたものだ。敬意を表して本当の姿を見せてやろう」
現れた鬼の姿は、4メートルに迫っていた。巨大な角が天を衝くようだった。実弥は身を捩ったが、逆に強く握られて苦痛に顔をゆがめる。

―― これが、下弦の壱の正体……?
それを見上げた匡近の全身が、ぶるぶると震えた。
「お前は、あの時宗近を喰った鬼……!!」
はっ、と実弥が匡近を見やり、ついで鬼を見やった。
「こいつが……?」
「なんのことか分からんな」
そういった鬼に、匡近は怒鳴った。
「8年前、稀血の少年を喰い殺したのはお前だろう! 弟の仇……!」
生きている右腕で何とか前に這い出ようとしたが、つぶれている足が邪魔をして動けない。
どうして自分は肝心な時に、役に立たないのだろう。自分の体を呪った。

下弦の壱は匡近を見返した。
「ああ、この間食った稀血の子供か。お前はあの時一緒にいたのだな。思い出したぞ」
そして、その頬に無慈悲な笑みを浮かべた。
「なるほど。弟の仇を討つために鬼殺隊にまで入ったのか。仇を討つどころか、相棒をまた目の前で喰われることになるとは因果なものだ。
お前の弟に感謝するぞ。あの時稀血の力を手に入れたから、今お前の相棒を喰うことができるのだからな」

匡近の目には、全てがゆっくりと映った。
周りにいる僧侶達が、何とか実弥を助けようと、火矢を放つ姿。
火矢に何も感じていないが如く、平然としている鬼が、ゆっくりと実弥に向って巨大な口を開ける姿。
ぬらぬらと光る牙が、実弥の髪に届いた。実弥は歯を食いしばったが、動けない。その瞬間、もう逃げられないと諦めたのだろう。匡近を見た。
「見るな!」
自分が死ぬその瞬間まで、匡近のことを想ってくれるのか。

動け動け! その瞬間、匡近は念じた。
足を挟まれているからなんだ。動けなかったら何だというのだ。
ここでまた「弟」を目の前で喰われるのか。あの時のように、何もできないままで。
匡近は夢中で刀を掴み、残った全力を込めて刀を一閃する。柱に押しつぶされていた自分の右足を、根元で叩き斬った。
焼けるような熱さを感じたが、痛みはなかった。体が自由になり、ずるりと前に出る。残った左足で床を蹴り、雄たけびを上げて突っ込んだ。
「――匡……!」
実弥が目を見開いた。匡近の一閃は、地面に転がった槍を刃と柄の境目で、まっぷたつに叩き折っていた。
「手首を狙え!!」
僧侶達の火の矢が一斉に、実弥を拘束していた鬼の腕の手首を狙った。手首はぼろぼろと崩れ、実弥は床に投げ出された。
片足を失った匡近はそのままバランスを崩し床に突っ込みそうになったが、実弥に抱きとめられた。
「なんてことを……」
千切れた匡近の足を見やった実弥の目に涙が浮かんだ。この出血量では、到底助かりそうにない。
「気を抜くな!」
匡近は叫んだ。鬼の消滅を、まだ確かめていない。鬼の体は、床に倒れ伏していた。槍は、灰のように崩れかけている。
やったか、と思った時、全く動かなかった鬼の頭が突然動いた。あっ、という間もなく、その頭は口を大きく開き、実弥に襲い掛かった。
匡近は咄嗟に実弥を突き飛ばした。匡近の脇腹に、鬼の巨大な歯が食いこんだ。
「離せ!!」
傍にあった匡近の刀を鬼の口の中に突っ込み、実弥が必死に歯をこじ開けようとするが、片腕ではどうにもならなかった。
「皆手伝え、食い破られてしまうぞ!」
僧侶達も駆け寄り、皆が一斉に力をこめて、何とか口を開けさせ匡近を開放した。その時、鬼の口の中に差し入れていた匡近の刀が折れて飛び、実弥の腕をざっくりと斬った。
あぁ、と匡近の傷口を見た僧侶達の間から悲鳴が上がる。内臓ごと左の脇腹が失われていた。
「……口惜しや……」
鬼の口から、言葉が漏れた。後頭部から順番に、灰となり崩れていく。
「稀血を喰えれば、お前達全員殺せたものを……邪魔、しおって……」
「……ざまあみろ」
匡近は微笑んだ。もう、痛みもまるで感じない。


「匡近!!」
実弥が、匡近を抱き締めた。その表情は伺えないが、温かい涙が匡近の胸を濡らした。
「……お前は大丈夫か、実弥」
「こんなの軽傷だ。そんなことより、お前は……」
「あぁ、今度は守れた。奇跡が起きた。良かった……」
ずっとずっと、弟を目の前で死なせたことを、後悔して生きてきた。
この体が少しでも動き、殺されるだけにすぎなくても、弟を守るため動けたなら、どれほど「幸せ」だったかと。
今度こそ、動けた。「弟」を守ることも出来た。とすれば、これ以上何を望むだろう。
「泣くな、実弥」
震えているその頭に、手を置く。
「俺はいいから。建物に残った人を助けるんだ。柱になるんだろ、不死川実弥」
「なんでそんなこと、言うんだよ。ずっと、反対してたろ……」
「俺はもう、一緒にいてやれないから。柱になれば、強い仲間に恵まれる」
「匡近以外の仲間はいらねぇよ」
ひときわ強く、抱きしめられた。堪えきれない嗚咽が漏れる。
 「そんなこと言うな。まだ生き残った弟もいるんだろ。……お前はひとりじゃない。最後まで生き抜いて、幸せになれよ」
この厳しすぎる世界に、ひとり残していく弟に、少しでも救いがあるよう。出会いがあるよう、匡近は祈った。
―― もう、祈っても、いいよな。
思考を止めても、かまわない。匡近はやすらかな気持ちで、そっと目を閉じる。
 
 
***

 
東の空が、白々と明けはじめていた。
静は、破壊され尽くした寺院の間を、一歩一歩周囲の安全を確かめながら歩いていた。
鬼に連れ去られ、この寺院の一室に放り出されているところを寺の使用人たちに助けられ、一緒に身を潜めていただのだ。
絶え間なく鳴り響いていた轟音が途絶えた後も、何があったのか混乱の中では分からなかった。
ただ怪我人が数え切れないほど多く、必死で次々と手当てをしているうちに、夜明けを迎えていた。

僧侶たちが必死に消し止めたものの、寺院は半焼し、残った部分もあらかた破壊されていた。
鬼との戦いがこれほど苛烈なものとは、と静は言葉を失う。まるで戦争で爆撃された跡のようだった。
「……匡近さん。実弥くん……」
二人の鬼狩りが、鬼を追ってきたのだと言う。
そして今この場所に静寂が訪れているということは、鬼は倒されたということ。
二人の安否だけが、分からなかった。

匡近に、実弥に、謝りたかった。
自分は二人に酷いことをしたのに、それでも静を命懸けで助けに来てくれた。


朝靄の中、ゆっくりと歩み寄ってくる人影に、静は気がついた。
「……実弥くん……?」
初めは、誰だかわからなかった。夕べに会った時とは、その輪郭は別人のようだったから。
その顔も着物も、全身が血浸しになりボロボロの姿だった。
その右肩と、左腕に大きな傷があった。左腕の傷は包帯が巻かれていたが、血が指先から滴っていた。
「大丈夫!?」
駆け寄って、その顔を見上げる。深くうつむいていて表情は分からなかったが、頬には、涙が流れた跡が残っていた。
その時に分かってしまった。匡近に、何が起こったのか。
「あなたの、言うとおりだった。俺が手を離せなかったばっかりに」
実弥はくず折れるようにその場に跪き、静に頭を下げた。
「申し訳ありません。匡近を守ってやれなかった……」
実弥と静は、抱き合って慟哭した。穏やかな、安らかにも見える朝日が、そんな二人を照らし出していた。







願い 完

update:2019/12/11