「草鹿っ!!」
もうろうとした意識の遠くで、鋭く名を呼ばれた。
と同時に、疾風のようなスピードでやちると狼の間に割り込んできた影のような人影が視界に入る。
「お前は……」
―― ひっつん。
狼が声を上げる。銀色の髪がちらりと見え、やちるは心の中で呼びかけた。
危ない、と言いたいが声が出ない。
狼が標的をやちるから日番谷に変え、牙を向ける。
日番谷は引き抜いた刀を自分とやちるの前にかざした。
一瞬後、牙を刃が受け止める。耳障りな金属音とともに、日番谷が背後に押された。
「馬鹿な。そんな体格で我が止められるか?」
日番谷の足が背後に滑る。しかしやちるにあたる直前で、その足が止まった。
氷輪丸が、高まる主人の霊圧に呼応するように白銀の輝きを放っている。
一瞬、狼が怯んだ。その隙をつき、日番谷が前へ出る。
狼が爪を向き出して迫ったが、それよりも一瞬早く、日番谷の右足が狼を思い切り蹴飛ばしていた。
「ひっつん!」
すごい。やちるはこの場の状況も忘れて目を見張った。
十メートル以上吹っ飛ばされた狼は、地面に爪を立てて、止まった。
しかし蹴りが堪えているのだろう、その場に吐くような格好で何度かせき込んでいる。
狼の右足の爪が、赤く染まっているのに、やちるはハッと我に返る。
ぽつり、とやちるの足元に血の粒が落ちた。
「っ……」
日番谷が自身の呻きを噛み殺す。
身体を支えきれなくなったように、ぐらりとよろめいた。
「大丈夫?」
やちるが慌てて駆け寄り、後ろから支える。袴の右足の部分がざっくりと割れ、
流れる血で足元がすでに赤く染まっていた。この出血、かなり深くやられているに違いない。
日番谷の額には、汗が浮かんでいる。異変を感じ取り、全力で駆けてきてくれたのだろう。
ぐい、と目に入りそうになった汗をぬぐい、日番谷は背後のやちるを振り向いた。
「お前こそ、大丈夫か? 走れるか」
「走れる、けど」
「だったらここから離れろ。いますぐだ」
「じゃあひっつんも!」
肩を掴もうとしたやちるの手を、日番谷は払った。
「俺ひとりなら、どうとでもなる。お前は行け」
やちるは、思わず言葉をとめた。日番谷が言おうとしていることが分かったからだ。
あの狼の素早さは死神を上回る。死神で一・二を争う俊足を誇るやちるでさえ逃げ切れるかは怪しい。
ただし、狼を日番谷が抑えることができれば、逃げ切ることは可能だ。だが。
「……ひっつんの、うそつき」
やちるは一度、しゃくりあげた。
日番谷のこの足では、素早く動けない。たった一人で残されれば、勝ち目があるとは思えなかった。
「あたし、行かない」
「……悠長にしゃべってる場合じゃねぇんだぞ」
「いやだよ」
やちるは、桜の幹の下に放り出してあった自分の刀を、手に取る。
「あたしは、十一番隊だもん」
めったに抜かない刃を、鞘から解放する。
やちるには、他の十一番隊士のように「戦いを好む」という考え方はピンとこない。
敢えて言うなら、戦っている剣八を見ているのが好きなだけだ。
今も、刀を抜いて狼……誠之助と戦うのかどうか、まだ決められずにいる。
ただ確かなのは、敵に背を向け、日番谷を置いて「逃げる」ことだけは嫌だ。
「……これだから十一番隊は嫌なんだ」
日番谷はかすかに笑うと、狼に視線を戻す。やちるが、懐から出した手拭いで、その膝上をきつく縛った。
狼は、わずかによろめいたが、ゆらりと立ち上がっている。爛々と輝く目を二人に向けた。
「……今、確かにあいつは人の言葉を話した。なんなんだ……」
「狼なんだけど、中身はヒトなの。現世で師に別れちゃった大切なヒトに会いたくて、百年間ずっと、流魂街を探し続けてるんだって」
「……なるほどな」
日番谷は油断なく狼に視線を向けながら頷いた。
「魂魄には形がねぇからな。人間が現世でも流魂街でも同じ姿なのは、自分の外見はそういうもんだっていう思い込みからきてるだけだ。
整然と全く別の姿形になってるのは、別におかしなことじゃねぇ……が」
そこで日番谷は皮肉に唇の端を少し上げ、口を止めた。
いくらなんでも、死神と同レベルの力をつける人間が出てくるとは、と思っているに違いない。
「……花夜に会わせろ。死神ならできるだろう」
ゆっくりと狼が二人に歩み寄る。やちるは首を振った。
「できないの」
死ぬ前、誠之助と花夜はそれぞれに罪を犯している。
ただし、やちるにはそれは「悪いこと」とは思えなかった。
ただ、二人で生きて行こうとしただけだ。それを許さなかった世間の方が、「悪」だと思える。
できることなら、二人をあの世ででも出会わせてやりたい。でもそれは、死神でも不可能なことだった。
そこまで考えて唇を噛んだ時、やちるの脳裏にふっとよぎった景色があった。
自分があの不思議な世界に呼ばれる前に、この隊首桜の枝の上で見た女性の人影。
それと同時に聞こえた笛と、合わせて歌う娘の声。あれは……
「花夜と、約束したんだ」
誠之助は、半ば独り言のように呟いた。
その声、話し方は、現世でやちるが合った誠之助のそれとまったく同じだった。
「次の世で必ず見つけ出すと。このままでは我々は、再開できないまま転生してしまう。
記憶を断ちきられ、別の人間として生まれ変わってしまう。それまでに見つけなければ」
「せいちゃん……」
なんと言っていいか分からないまま、声をかける。
日番谷が、やちるを制するように軽く首を振る。そして、狼をしばらく見つめ、ふっ、とため息をついた。
「詳しい事情はしらねぇけど。草鹿の言う通り、死神にも死んだ人間同士を再会させるなんてことはできねぇよ。
お前も分かってるはずだ。流魂街を数カ月さまよえば誰でも気づく。たとえ百年費やしても、この世界は、人ひとり探し出すには広すぎるってことを」
その言葉に、誠之助はすぐには何も答えなかった。
しかし、狼に変わったとはいえ、その瞳は理性をなくしてはいない。日番谷が落ちついた声で続けた。
「無駄だと分かっていて、なぜ百年も探し続けたんだ」
「……半ば無限の時を生きる死神には、分からだろうな、でも」
狼はしばらくの沈黙の後、そう言った。
「人には、無駄だと分かっていても、やらねばならぬことがある。わずかな期間の命を無駄に費やしてさえも」
「なぜだ?」
「私が、私であるためにだ」
やちるの前にいる日番谷が、わずかに身じろいだのが分かった。
やちると狼の間に割り込んできた時に感じた、日番谷の殺気は消え失せている。
事情を知らないはずの日番谷にも、誠之助の気持ちは伝わっているのだろうとやちるは思う。
「……ねぇ、ひっつん。知ってた?」
そっと、日番谷の背中に問いかける。日番谷が前を向いたまま頷く。
「あいつの姿、どんどん薄くなってる。時間がねぇ」
日中に会った時よりもさらに、その姿は薄くなっている。半ば半透明のその身体には、流魂街の夜景の灯りが透けて見えた。
「……自分で、気づいてるはずだ。お前にはもう転生の時が近づいている。身体がもう透け始めてるってことは、今すぐ転生してもおかしくねぇぞ」
「分かっているさ」
狼の背中の毛が一斉に逆立った。身体が一回り大きくなると同時に、生臭いような殺気が吹きつけて来る。
「だから力でお主らに問うているのだ。花夜に会わせよ、と」
「戦いを止めろ。死者だから死なねぇと思うな。ここで死ねば、お前の魂魄は消滅する。二度と現世に転生できなくなるんだぞ」
「……なるほど」
誠之助の姿が、また、一回り大きくなったように見えた。
激情を抑えられぬように、一声、獣の声で吼えた。その声に、ビリビリと空気が振動し、日番谷は腕を伸ばしてやちるを護る。
「花夜に会えぬなら、魂など要らぬ!」
その目に涙があふれ、頬を伝ってゆく。哀しみと言うよりも、それは無念の、憤りの涙に見えた。
陸門の爪が、更に長く、太く伸びてゆく。まだ、形が変わるのか。日番谷に緊張がはしった。
日番谷はギュッと氷輪丸を握る手に力をこめた。
「俺は動けねぇ。頼むぜ、氷輪丸」
それに応じるように、氷輪丸の光が増す。
「私を殺すがいい、死神よ」
その日番谷の袖を、やちるの小さな手が掴む。
殺さないで、と言うことはできなかった。この状況では、手を抜けば殺されるのは日番谷の方だ。
だからと言ってこのまま誠之助が殺されては、あまりにやりきれないではないか。日番谷は、振り向かなかった。
「……俺達は死神だ。何があろうと、あいつを止めなきゃいけねぇんだ。分かるな」
日番谷の背後から、巨大な氷龍が噴出すように現れ、咆哮を上げる。襲い掛かってきた陸に向かい牙を剥いた。
その、刹那。
氷龍が、いきなり力任せに砕かれた。誠之助も、その場から跳ね退けられる。
自分たちの前に立ちはだかった大きな影に、日番谷は唖然と口を開いた。
「オイ、何チンタラやってやがる!」
「更木、てめえ! どさくさにまぎれて氷輪丸を砕くな!」
「どっちが敵で味方か分かんなかっただけだ。ゴチャゴチャ言うな」
「け……剣、ちゃん」
やちるは、その大きな背中に向かって、呟いた。
なんだか、随分久しぶりに会ったような気がしていた。
抜き身の刀を肩にかついだ更木は、チラリと肩越しにやちるを見下ろした。
「……おせーよ、呼ぶのが」
「……ごめんなさい」
胸がつまるような感覚に、そう返すのが精いっぱいだった。
「ガキどもは退いてろ!」
立ちあがろうとした日番谷を、更木が一喝する。
やちるが、その袖を後ろから引いた。
「剣ちゃんのモットー、一対一だから」
「ちっ」
日番谷は、舌打ちをすると桜の幹にもたれかかった。
言葉とは裏腹に、傷はかなり深いらしかった。
「ひっつん……」
見下ろすやちるの背後で、巨体と巨体がぶつかりあう、激しい音が響いた。
* last update:2011/10/2