「おいしい」
フルーツトマトを口に含むと、甘酸っぱい味が広がった。
黙って噛みしめて、おいしさを味わっていると、向かいの席からの笑い声に我に返った。
「なに」
「本当においしそうに食べるな、って思って」
向かいに腰かけているのは、わたしの大切な友人だった。中学生の同級生で、地元が同じで東京に出てきている唯一の友達でもある。
春らしい、花柄のワンピースをふわりと身につけ、髪はふわふわとしたショートカット。綺麗にお化粧をして、まるで花束のよう。
「お誕生日おめでとう、棗」
その姿に見とれていると、不意に小さな包みを渡された。
「あ、ありがとう。これ……なに?」
そう問いかけても、含み笑いをされるだけで。見てみて、ということだろう。
お洒落な包み紙から出て来たのは、掌にすっぽり収まるサイズの小さな瓶だった。瓶の中には、小さな飴のようなものがびっしり詰まっている。
「なにこれ……金太郎飴?」
「棗、表現が古い」
友達は笑いだした。
「でも、合ってる。色んな色の飴の棒を組み合わせて、手作業で模様を作るんだって。お店でデモンストレーションやってた」
「すごいねこれ」
私は瓶の中に見入る。直径1センチもない円筒型の飴の中には、ケーキや花やプレゼントの模様でいっぱいだった。
"happy birthday"と描かれたものもあって、一体どうやったら金太郎飴の中にそんな文字が入れられるのか想像もつかない。
その文字を読んでいると、急に鼻の奥が、つんとした。
「なんだか淋しいな。もう、こんな風に直接祝ってもらえるの、最後かな」
友達は優しい笑みを浮かべて、黙っている。Yes、ということなのだろう。

同級生の誰よりもいい大学に入り大企業に就職して、成功者と言われている彼女が地元に戻ると聞いた時には、驚き半分、やっぱり、という気持ちが半分だった。
成功とは言っても、引かれたレールを誰よりも上手く走っているということで。
どこか野性児のような自由奔放さを抱えた彼女なら、いつかレールを越えて走りだしたくなるような気はしていた。
「でも」わたしはコーヒーカップを傾けた。「地元に戻るなんてね」
「地元なんて、何もないし詰まんないと思ってた。でも、本当は地元のあの自然が一番好きだって気づいたし、
気づいた自分を受け入れられるようにもなった。たった一度しかない人生だもん、今死んでもいいって思えるような場所で生きてたいから」
その髪型もお化粧も、ファッションも都会風でまったくスキがない。でも、マスカラに彩られた瞳だけがまだ、大自然で呼吸していたころの眼のまま。
「いいな。わたしはまだ、先のことなんて考えられないよ」
対するわたしは、黒のタートルネックに、白のフレアースカート。髪は後ろにコンパクトにまとめている。お化粧も薄い。
コンサバといえば聞こえはいいけど、向かいに座る彼女と比べると、一言でまとめると地味だった。
同じ制服をまとって同じ中学に通い、同じ空気を吸った彼女と、十年以上の時を経て、どこでどう道が別れてしまったんだろう。

友達は、なぜかまぶしそうにわたしを見た。
「わたしは棗がうらやましいよ。自分をちゃんともってて、凛としてて。どんな気持ちが乱れてる時でも、棗に会うと落ちついたもん」
「自分をもってるって、わたしが?」
思わず聞き返したら、目が合った。そして同時に笑いだす。
隣の芝は青いと言うのか、わたしたちは互いに羨ましがってばかりいる。でもきっと、誰もがうらやましがる理想の人生を送っている人なんていない。
「ありがとう、祝ってくれて」
「棗は大事な友達だから。……幸せにね」
しばらくはもう、会えない。心をこめて伝えられた言葉は、どんなプレゼントよりも心に届いた。


***


このあと用事があるという彼女と別れ、わたしは近くの駅に向かって皇居の濠沿いを歩いていた。
「またね」いつものように別れた後、いつもはしないのだけれど、振り返った。
その時に見た彼女の肩の辺りが何だか淋しそうで、胸が締めつけられた。
誰よりもしっかり者の彼女を、わたしが励ますのも変に思えたけれど。幸せであれと、心から祈った。

肩に掛けたバックの中で、もらった小さな瓶がカタカタと音を立てている。
カラフルな飴を見下ろすと、何だか気持ちが弾んでくる。これはしばらく、家に飾っておこう。食べるのがもったいない。
ちら、と視界をピンク色が横切る。見上げると、満開の桜が視界に入った。
 桜は次々と立ち並び、花嫁のようなピンクの腕を濠の水面に差し伸ばしている。
濠に続く土手には、一面に菜の花が咲いていた。桜色と、黄色、濠の緑。誰もいなければ、いつまでも見ていたいような景色だったけれど……
何しろ、満員電車のようなものすごい人だった。そのまま立ち止っていることなんてできず、どんどん駅のほうに押し流されてしまう。

橋の欄干の傍に、ちょっとした一人分のスペースを見つけ、わたしはそこにもぐりこむ。
欄干に片手を載せて、ほう、と息をついた。見下ろすと、菜の花の黄色でいっぱいだ。
濠沿いの道にそって、桜がずうっと向こうの方まで続いている。シャッターの音が次々と聞こえる。確かに絶好の撮影スポットだ。
わたしにはカメラはないから、代わりにずっと覚えているつもりで、春爛漫の景色を眼に焼きつける。
すると……菜の花の中で、何かがぴょこんと動いた。

初めは、鳥かと思った。でも、鳥にしては大きい。と思うと、ピンク色の頭がひょい、と菜の花の中から覗いた。
―― 女の子?
親の目を離れた子供が、土手の中に入り込んでしまったのだろうか。それにしても、土手は濠の水に続いている。こんなところで遊んでいては危ない。
身を起こした女の子は、まるで犬の子のようにぶるぶると頭を振った。頭についていた黄色や桜色の花びらが落ちる。
辺りに親はいないのかな、と思って周りを見たけれど、誰も女の子に視線をやっている人はいない。そこでようやく、違和感に気づいた。
「……透けてる……?」
女の子の輪郭は、よく見るとぼんやりとかすんでいる。そして、顔の向こうに背後の風景が透けていた。
そして、身に着けていたのは真っ黒な着物。それに気づいて、わたしは声をあげそうになる。
あんな漆黒な着物と袴を身につけているのは、わたしが知る限り「死神」しかいないと気づいたからだ。

わたしはひょんなことから、何人かの死神と知り合っている。
死神も、お花見をしたりするのかしら……そう思った時、女の子がひょいと顔を上げた。
「ねぇ、ひっつん。こっち来て! きれいだよ!この黄色い花」
ねぇねぇ、とその外面の通りの可愛らしい大声を上げる。もう驚かなかったけれど、辺りの誰にもその声は聞こえていないらしい。
でもただ一人、女の子に返した声があった。
「菜の花だよ」
「名前なんていいから。こっち来てー!」
あー。めんどうくさそうな二度目の声が返した時には、わたしは声の主に気づいていた。

黒い影が、さっと宙を舞った。そして、水面に近い枝の上に落ちた。
先端まで花をみっしりとつけた枝は、そよりとも揺れなかった。
桜の色にも染まらない漆黒の着物が、揺れる。銀色の髪が、青空の下できらきらと光っている。
―― 日番谷冬獅郎くん。
わたしのアンティークきもの屋の常連さんの一人。会いたかったその人が、大声を出せば聞こえるくらいの場所にいる。

冬獅郎くんは、枝の上に胡坐をかいて、右足を下に落としていた。
草履の足元が、水面につくかつかないか、というところで止まっている。
風が吹くと枝は軽く揺れたが、冬獅郎くんの今の体重はゼロなのか、座っているのに全くしなっていない。
足元の菜の花を見下ろし、視界いっぱいの桜、頭上の青空に視線を移すのがわかった。
―― ずるい……
こんな人混みにまぎれることなく、誰に気づかれることもなく、特等席で花見ができるなんて。

女の子は、頭上の冬獅郎くんを見上げて、満面の笑みを浮かべる。
「剣ちゃんも来たらよかったのに」
「……とんでもねぇ」
顔をひきつらせた冬獅郎くんは、わたしの存在には気づいていない。
無理もない、けっこう離れているし、こちらは何百人もの人がひしめいているのだし。
「気がすんだら呼べ。俺は寝るからな」
落ちないんだろうか、とはらはらするような体勢で、冬獅郎くんは枝の上にごろんと横になった。
「この後、買い物だからね! こんぺいとう買いに行くの!」
「わかったわかった」
軽くあしらって、冬獅郎くんは目を閉じたらしかった。

兄妹なのかな? と一瞬思ったけれど、あの女の子は冬獅郎くんを名前で呼んでいたから、違うんだろう。
でも、そう思わせるような雰囲気が、二人の間には漂っていた。
女の子は冬獅郎くんに懐いてるし、冬獅郎くんも、そっけない言い方だけど、声音は優しい。
声をかけようかと思ったけれど、結局やめておくことにした。せっかく二人で楽しそうだから、そっとしておいてあげたかった。
そっとその場から離れようとした時。わたしは動きを止めた。
女の子の目が、まっすぐにわたしに注がれていた。ぺたんと座ったまま、大きな眼を見開いて、こちらを見ている。
そして、やおら大声を出した。
「その飴、かーわいい!」
「え?」
思わず、バッグの中を見下ろす。女の子の視線を辿り、確かにこのバッグを見ているらしいことに気づいて二度びっくりする。
一体どうやったら、あの位置からバッグの中身が分かるの?

「うん。それ!」
はっ、とした時には、桜色の頭が既に眼の前にあった。
その髪がさらりと流れ、鼻先に触れる。瞬間移動でもしたのか、女の子が欄干の上にしゃがんで、わたしのバックを見下ろしていた。
……正確には、バッグの中に入った、飴の瓶を。
当然ながら、わたし以外の人には、女の子の姿は見えていない。わたしはうろたえ、女の子の顔を見返すことしかできなかった。
「ね! これ、ちょうだい!」
瓶を指差し、女の子は大きな声でそう言った。
「え、ええ」
勢いに押されて、つい、こくりと頷いてしまう。
「ありがと!」
目を輝かせて女の子が頷く。その時、
「おい草鹿! なにやってんだ」
冬獅郎くんの声が聞こえた。

女の子とわたしは同時に、声の方を見る。冬獅郎くんが枝の上に座り込んで、訝しげにわたしたちを見ていた。
「その女、俺たちが見え……あっ!」
きものを着ていなかったから、一瞬わからなかったらしい。途中で言葉を切った冬獅郎くんの目が見開かれた。なつめ、の形に口が動く。
「だって、もらったんだもん!」
そう口を尖らせて、女の子は一瞬のうちの姿を消した。辺りに風が吹き抜け、周りの人たちは「なに?」と首をすくませる。
「悪い、すぐ取り戻す」
聞き慣れた囁きが耳をくすぐる。
「え……」
顔を向けると、銀色の髪が頬に触れた。でも視線をやった時には、もうその姿はどこにもなかった。



***


わたしは店に帰ると、すぐにきものに着替えた。
紫と青の中間のような色の縦縞の間に、桜と菖蒲が描かれている柄だ。
大正時代に作られたもののようで、所々ヤケがあるけど、わたしはそれも含めて、このきものが気に入っていた。
どんな人が着ていたのか、手掛かりは裾に小さく記された「A・K」の文字だけ。
本人のイニシャルなのだろうけれど、もしかしたら好きな人の名前をこっそり記したのかもしれないし、想像はつきない。

それにしても。
「まだ、探してるのかしら……冬獅郎くん」
誕生日プレゼントだと思うと少し惜しいけれど、友達だって事情を知れば、手放したって笑って許してくれると思うのだ。
ただ、あまりにも一瞬だったから、取り戻さなくていいよと伝える時間もなかった。
しばらくあの場所で待っていたけれど、全く戻って来る気配がなかったから、とりあえず店に戻って来た。
家の場所を冬獅郎くんは知っているから、大丈夫だと思うけれど。

ふわり、と甘い香りが、部屋に吹きこんだ風に混ざっている。
わたしは、カラリと縁側に続くガラス戸を開けた。
西日が斜めに差し込む縁側の真中に、50センチほどの藤の鉢植えが置いてある。
蕾がみっしりと枝を覆い、いくつかはもう花開いていた。独特の甘い香りがすでに漂い始めている。

「淡幽」。
わたしの実家のひとは、この藤をそう呼んでいた。
そういう種類の藤なのか、固有の名前なのかは知らない。
近所の人が花見に来るほどの見事な藤で、子供のころは自慢に思っていたものだ。
実家を出る時に、親に頼んで株分けしてもらった。たった10センチほどだった藤も、もう50センチに成長して毎年綺麗に花を咲かせる。
はじめは盆栽にするつもりだったけど、枝を切るのが可哀想で放置している間に、こんなの大きくなってしまった。
「……もうちょっと、我慢してね」
薄緑の葉を撫でて、声をかける。

いつか。
いつか、自分の居場所を見つけたら、地面に根を下ろそう。
実家にある、深く深く根を張った親株をくらべて、この鉢の中でしか根が張れないこの子が可哀想ではあるけれど。
これは、どこにも根を張れない、ふわふわと漂っているわたし自身だ。

田舎に帰る、あの友達だったら。
あの子がもしこの藤の持ち主だったら、迷いなく故郷の土にこの藤を植えるんだろうな。
わたしは、東京の片隅で呼吸をしながら、まだここが自分のいていい場所だと思うことができない。
居心地のいい、わたしだけの場所。一生かけて見つかるか分からないけれど、未だ子供のころの憧憬のまま、探し続けている。

肌寒い風が吹き抜けて立ち上がった時、店の引き戸がノックされた。
「はーい」
店は今日は閉めている。誰が来たのかは分かっていた。
「邪魔するぞ」
ハーハーと息を荒げて現れたのは、思った通り冬獅郎くんだった。小脇に、あの女の子を抱えている。
二人とも黒い着物ではなくて、洋服を着ていた。輪郭もはっきりしているし、後ろも透けていない。今の二人は普通に人間の姿ということなんだろう。
冬獅郎くんは水色の、長袖のTシャツを着て、黒いジーンズにショートブーツを履いている。
女の子は、明るいグリーンのワンピースをストンと来ていた。二人ともパステルカラーを身につけているせいで、店の中がパッと明るくなる。

冬獅郎くんは、女の子を下ろすと、肩を押してわたしの前に立たせた。
「ほら、返せよ。お前には金平糖買ってやったろ」
ウン、と女の子は頷いた。
「はい」
両手に大事そうにもって差しだされた瓶を、わたしは受け取る。
「よかったのに」
「でも。お誕生日プレゼントでしょ?」
そうおずおずと言われて、思わず微笑んだ。飴の中に描かれた"happy birthday"の文字に気づいたのか。
「返してくれてありがとう。わたし、篠田棗よ」
「あたし、草鹿やちる!」
弾けるような言葉が帰って来た。死神は見た目と年齢は同じじゃないと聞いたけれど、やちるちゃんは見る限り、本当に子供に見える。
今もきょろきょろと、嬉しそうに薄暗い店の中を見まわしている。わたしは店内の電気をつけた。


***


「……悪かったな。店、今日閉めてたんだろ」
「いいのよ。お買い上げいただいちゃったし」
冬獅郎くんにもたれかかるようにして、やちるちゃんがスヤスヤと眠っている。
その手には、簪が握られている。包んであげようとしたけど、このままがいいと言って譲らなかったのだ。
大人用に作られたものだから、この子が身につけられるようになるのは、きっとずっと先だ。
「この子は? ガールフレンド?」
冗談めかして言うと、思い切り眉間に皺を寄せられた。
「こんなガキ、対象になるわけねぇだろ全く」
わたしから言わせれば、どちらも子供に見えるけれど……普段から大人に混ざっていると、自分も実際より少し大人に見えるのかもしれない。
わたしは、派手な柄もちゃんと着こなしていたあの美しい女性、松本乱菊さんを思い出す。
まさかあんな女性がタイプというわけでもなさそうだけど。あまり冬獅郎くんが女性とデートしている姿は想像つかない。
「更木……同僚に押しつけられたんだよ。花見に行きたがってるから連れてってやれと部屋に置いてかれた」
「自分が一緒に行けばいいのに」
「あんな奴が現世に来たら、それだけで有害だ」
一体どんな人なんだろう。さも嫌そうに吐き捨てた冬獅郎くんの言い方に興味を引かれた。
「死神って楽しそうね。いろんな人がいて」
「……一度でも会ってみろ、二度と思わねぇよ」
「わたしは、冬獅郎くんに会えて本当によかったと思ってるわよ?」
そう言うと、冬獅郎くんは一瞬言葉に詰まり、気まずそうに眼をそらしてしまった。
おそらく、死神とは言っても、その外見が示す通りそれほど長くは生きていない。初々しさが残る素振りに、なんだか少し嬉しくなった。

わたしたちは、少し薄暗くなった奥の部屋で、灯りをまだ入れないまま向かいあっている。
「……誕生日だったんだな」
不意に冬獅郎くんがそう言った。
「少し前だけどね」
「おめでとう」
ずい、と眼の前に差し出されたものが意外で、わたしは「え」と思わず声を出してしまう。
「……お酒?」
しかも、一升瓶。見た目が小学生か、いいところ中学生の冬獅郎くんが手にすると、ものすごく違和感がある。
「……盃あるか?」
「え、大丈夫?」
思わず聞き返してしまったのは、去年の年末に酔っ払って現れたのを思い出したからだ。
同じ事を思ったのか、冬獅郎くんが仏頂面になった。
「あの時は、めちゃくちゃ飲まされたんだよ。これくらいで酔うか」
「どれくらい飲んだの?」
「……これを10本くらい」
そんなに飲んだら死んじゃうよ、と言おうとしたけれど、相手が死神なのを思い出してやめておいた。
実は、お酒はめったに飲まないけど、青磁の小さなお猪口を二つ大事に持っているくらいには好きだった。
「この酒は、京楽のとっておきだ」
「この盃も、とっておきよ」
チン、と静かに盃を合わせる。お酒の香りが藤と合わさり、甘やかに薫った。


***


そのあとのことは、実はあまり覚えていない。
覚えているのは、そのお酒が思いがけないくらい強かったということ。
ただ一人の幼友達が去ってしまうことを思い出して、不意に涙がこぼれ出したということ。
ほんの少しの涙を吸い込んだ冬獅郎くんの服から、太陽の匂いがしていたということ。

「じゃな」
やちるちゃんを横抱きにして、ゆっくりと冬獅郎くんが立ち上がる。部屋は真っ暗になっていて、輪郭しか見えない。
これくらいで酔うか、と言ったのは本当らしくて、まったく普段とたち振る舞いが変わっていない。
当たり前のように冬獅郎くんの懐に収まり、当たり前のように自分の布団に帰って行く、やちるちゃんが心から羨ましいと思っていたのは、酔っていたから?
「おやすみなさい」
普段なら、一抹の寂しさを覚えても、それを言葉にも行動にも出したりしない。
でもわたしの手はその時勝手に動いて、冬獅郎くんの袖を捕えていた。
「どうした?」
何気なく身をかがめてきた冬獅郎くんの顔を見られない。
その時たしかに、彼はわたしにとって、死神でも子供でもなかった。
―― 酔っているんだ。
酔いを振り払おうとするけれど、何度やってもうまくいかない。

冬獅郎くんは無言だったけれど、少し身を引いた。その一瞬、部屋の片隅にあった行燈にパッ、と火がともる。
そして煌々と部屋の中が照らされ……魔法のような時から解き放たれる。わたしは、そっと冬獅郎くんの袖を離した。
「近いうち、夏物を見に来る。またな」
「ええ」
見送るために立ち上がろうとしたけれど、くらりとしてよろめいた。わたしの肩を、両手がふさがっている冬獅郎くんが自分の肩で支える。
「気をつけろよ」
「ええ、ごめんなさい……」
「連れてっちまうぞ、本当に」
え、と声を出すよりも早く、冬獅郎くんはさっと身を返した。そして、縁側へ続く扉を開ける。
「……いい藤だ」
そう言うと同時に、その姿が、やちるちゃんもろとも、ふっ、と掻き消えた。


闇から漂う甘く強い香りが、深くわたしを悩ませた。




・え?papabubble?もしくはレオン?と思った方、鋭いです(笑)

[2012年 4月 15日]